10 引っ込み思案の恋心
翌日、志保は意識的に僕から視線を外した。
友達の顔も、こずえの囁きも、有象無象が悔恨の色彩に染まり、心臓は蚤よりも小さく虚々弱々と、思慮は取り付く島もなく右往左往した。
翌々日の放課後、野球部室横の空き地で、妙案も浮かばずひとり気を揉んでいると、志保がよそよそしくやってきた。
志保はためらいがちに近づくと、困惑の顔で踏み切ってたずねた。
「悠次兄、このまえ言ったこと本当なの」
心なしか雲影が高速で通り過ぎ、空気がかすかに乱れた。
考える間もなく脊椎反射で危機回避力が跳躍した。
「ああ、あれ。冗談だよ」
からかうように答えた。
即応にしては上出来だった。熟慮したところで他にどう答えられただろうか。
志保は緊張のとけたはしから相好を崩した。
「もう、どうしようか悩んだじゃない」
安心の勢いあまって僕の体を叩いた。その潤んだ瞳からは涙の粒がこぼれ落ちそうだった。
逃げ腰になった僕にがんばれと、背丈ほどもある生気にみちた雑草がいっせいに風になびいてエールを送った。
「もし俺が本気だったらなんて答えるつもりだったの」
からかいの風情を崩さずに、他人事のように聞いた。
返答に窮した志保は息をのんで俯いた。
「私は安幸兄が好きだから……」
尻すぼみに言った先に、上手な言い回しが見つからないようだった。
僕はあせって思考をさえぎった。
「そんなに真剣に考えるなよ。俺が好きなコは志保じゃないから」
萎えた気持ちに鞭打って空元気で言うと、志保の顔に安心の表情と肩透かしをくらった表情が交差した。
素直は往々にして残酷なものである。少女のまっすぐな気持ちは、そのまま真っ直ぐ少年に突き刺さった。
僕のひしゃげた胸の内は冬の浜辺の寂しさだった。正面からぶつからなかった分、かろうじて踏み堪えたけれど、志保の恋慕はにぶい痛みで心に深くしみ込んだ。
打ちのめされた僕は本心を気取られまいと下をみた。その両眼に意地悪く、皮肉な虚像が見えた。足元から伸びた二つの影法師は校舎の外壁で折れ曲がり、恋人のように寄り添っていた。
その後の僕達は何事もなかったように先般と変わりがなかった。野球部室で一人で着替えているところに志保がひょっこり顔をだしてそのまま随分と話し込んだり、生徒があらかた帰った土曜の昼に、音楽室裏の犬走りに座って、年に一度しか使われない草の覆い茂った土俵を前に談笑したりと、はたから見たら付き合っていると勘違いされるほどに仲睦まじかった。お喋りの内容はどれも取り留めのないものだったけれど、元気な志保と話すのは何物にもまさって楽しかった。
野球部室の汗とワックスの混ざった匂い。音楽室裏から見えた年季の入った焼却炉。枝葉のぎざぎざの濃緑と眩しい青をくっきり分断した稜線。光り輝く志保と戯れた日々の記憶は歳月が経っても色褪せることなく、何度となく鮮明に脳裏に蘇っては僕を和ませてくれた。
ジレンマに陥った引っ込み思案の恋心は月のようだった。志保の光に照らされるとなりをひそめ、志保がいなくなると色を強くあらわになった。
むろん僕は志保に照らされるのを断然好んだ。自分がなくなるぐらいに志保の光彩は明るく、自然で、気持ちが良かったから。
僕は恋の引力に必死になって抗い続けた。それがただ一つの志保と仲良くしていられる道だと信じて。
だけれども、冬休みを過ぎたあたりから慕情は理性を呑み込み、とつとつと発露した。
季節が寒さを極めたのをしおに意識するあまり話しかけられなくなり、三年にあがる時分には志保から話しかけられても言葉少なに返事するのが精一杯になった。
この頃、安幸はバレー部のキャプテンでエースアタッカーと大車輪の活躍で、片や僕は野球部のライト七番バッターと冴えなかった。
まかり間違えてもそびえ立つ安幸から志保の心が動かないように思え、どうする事もできなかった。
志保と恋仲になるなんて雲を掴むような話だったのだ。




