隻腕元帥の驚愕
季節は冬、吐く息は白く、眼下に広がる風景はさらに白い。世界そのものに真っ白なシーツがかけられたかのような、美しくもどこか空虚な景観が広がっている。
スヴェンとニルスが第一騎士団領の様子を見に行ってから、すでに数日が過ぎていた。
カール・ビランデルはまだ病み上がりだが、すでに熱も下がり、体力もだいぶ回復してはいた。いつまでもベッドで寝ているわけにも行かず、かといってさしてすることもなく、暇をもてあましていた彼を見かねた宿の主人が、冬でも行き来しやすい、町から程近い丘に登ることを勧めてくれたのだ。
体力が戻って来たといっても病みあがりは病み上がりである。看護人を自負するフレデリカは反対こそしなかったものの、無理はさせないようにと丘までは馬で登ることにした。
そこから見える景色は絶景そのものであった。
「この町の自慢でさあ。その昔は近隣の領主様の即位式にも使われていたって聞いてます。小さな祠もあるんだが、まあ、雪に埋もれているかとは思いますがね。でも、頂上からの風景はすばらしく、気晴らしにはもってこいです」
念のためにと、多めに防寒具を積んだ馬で早朝に出発したフレデリカとカールが頂上に着いたのは、まだ正午まで一、二時間はあるころだった。一冬に両手に満たないほどしかない快晴である。さすがに夏場のピクニックのようには行かないが、荷物と雪で風除けの壁を作り、焚き火をして早めの昼食を採る。
「ビランデル卿はこのあたりは初めてなんですか?御領地も近いですし、治安維持の範囲内だと叔父様もおしゃってましたけど…」
「通りすがったことはございますが、いつも軍勢を率いてでのことですし、軍勢が布陣するにはこの町は小さすぎて負担になりますので…ゆっくりとこうして風景を眺めるなどと言うのは、ほとんどありませんでした…」
奇妙な組み合わせの二人である。いかにも武人風の初老の男に丁寧な口調で話しかける少女、そして、初老の武人もさらに丁寧な言葉で相槌を返す。実を言えば、一人は認知されていないとは言え、現皇帝の一人娘で本来であれば内親王の称号を得ているはず皇族であり、もう一人は正式には未だ元帥の称号を帯びたままの帝国随一の武人である。
片腕で不自由なカールに何かと気を使うフレデリカであったが、カールの方では恐縮しっぱなしであった。ヤギの乳で作ったチーズを炙った物をフレデリカに手渡されながら、彼女と彼女の母親をついつい比べてしまう。
フレデリカの母、レーナは真の強く、若い頃はやや尖りがちで、男勝りと言う言葉がぴたりと来るおてんば姫であった。だが、そこにはやはり身分の高さから来るおごりも多く、軍隊内でも大きな軋轢を呼ばなかったのは、彼女を諭し、時に尖りがちな気性を理解したうえで目立たせないようにした、ウィルゴット・クラインの存在が欠かせなかった。
対してその二人の血を引くフレデリカは、農園で父親の愛を受けてのびのびと、しかし、厳しく育て上げられ、無用な気位の高さも、むやみな反骨も見られない。庶民の娘らしい優しさと、高い生活力を身につけており、一方で、どこか母親に似た気高さのようなものを垣間見ることもないわけではない。
カール自身はフレデリカを混迷極める宮廷に迎えたいなどとはまったく思っていないのだが、その可能性の全てを無にすべきとも思えていなかった。惜しいとは思うのだ。だから、スヴェンの苦悩もそのあたりにあることは察しがついていた。
老将は悩みをくどくどと口にしたりはしなかったが、思案にふけっていた。薪の後始末をしていたフレデリカがふと、ふもとの町の方を見る…
「びっ、ビランデル卿ッ!」
普段おとなしく見えるフレデリカからは想像出来ないほどの切羽詰った声に、カールはすぐに顔を上げた。
「ッ!」
丘のふもとにある町の向こう側、大きな森の木々の間から、騎乗した人影が吐き出されてくる。遠くてはっきりとはわからないが、軍勢の特質を遠目から判断することは武将には必須の能力である。
『騎馬のみ百…二百か…足並みもそろっていない…正規軍ではありえん。盗賊の集団か…』
「早く戻って町の人たちに知らせないとっ!」
フレデリカの切羽詰った声を聞きながら、カールは冷静に状況を分析する。森と町との間にはだだぴろい雪原が広がっている。騎馬とは言え、雪よけのされていない平地であるから、それほどの速度はでない。だが、それはこちらも同じであった。ふと、フレデリカをみると、馬から何かを下ろしている。
「フレデリカ様?」
「橇ならすぐに町に着けますっ!」
的確な判断ではある。今いる丘から町までには一切障害物はない。南側に面した斜面は昼間の間に何度も解け、夜間に再び凍ることを繰り返しているため、見た目より堅く、絶好のスロープにはなっている。だが、逆に言えば、町までまっしぐらに滑ってしまうため、橇を止める術がない。
「うまく操れば、そのまま雪原まで町を突っ切れます。滑りながら声を上げれば町の人も気付くはず…」
だが、もちろん、それでは盗賊どもの集団の中に突っ込むことになる。
片腕の上に病み上がりとは言え、世に聞こえし帝国随一の武将カール・ビランデルである。剣も念のため持ち歩いているし、自分一人なら問題はない。だが、フレデリカはどうか。
「ビランデル卿、行きますっ!」
「な、ふ、フレデリカ様ッっ!」
あわてて、どうにか二人が座れる大きさの橇の後ろにカールも飛び乗った。
「ビランデル卿っ!どうしてっ?!」
「何故も何も…」
「病み上がりではないですかっ!それも片腕…」
「腐っても帝国最強と言われたものです…そんなことはハンデにもなりまぬ。しかし、フレデリカ様は…くっ…」
斜面にも凹凸がある。恐らく切り株か何かが埋まっているのだろう。大きなこぶに乗り上げ、橇は高々と跳ねる。しかし、フレデリカは手綱代わりのロープ一本で見事に橇を操り、着地して見せた。
「騎馬の中に橇で突っ込んでも、馬に乗っている側は何もできません。勢いをつけて、突入する位置さえ間違えなければ、馬蹄にふまれることもないはず。後ろに抜けて森に入ってしまえば…私は弓は得意ですっ!」
「っ!」
カールが一瞬で考えていた作戦とまったく一致していた。カールが考えた難点は自分が片腕あるために、弓矢を引けないことにあった。追跡してきたところを、騎馬では戦いにくい森を利用して剣で切り結ぶしかないと考えていたのだ。
「ふぅ…やはり…蛙の子は蛙か…」
「ッ!?…何かおっしゃいましたか?」
「いえっ!では、私はやつらを追い抜いたところで橇から降りますっ!フレデリカ様は弓で援護をっ!」
「はいっ!」
橇は矢のごとき勢いで斜面を降り町の中に突入していく。
盗賊たちは真昼間の襲撃をこれから行おうと言うのに、やたらと気楽な調子であった。鼻歌交じりの仕事と言っていい。元々このあたりは第一騎士団の治安維持範囲に入っており、彼らのような百人規模の盗賊などが跋扈するような余地はなかった。彼らは元々ウブサラ公領を根城にしていた、それも小規模な盗賊の寄せ集め出しかない。
それが、第一騎士団の治安維持機能が破綻をきたしたことに目をつけ、誘い合わせてこのあたりに出てきたのである。他の地域であれば、騎士団の治安維持能力の恩恵に授かれない分、自衛能力を有していたりするのだが、今、この時期、騎士団が機能していないこの地域ならば、ろくな抵抗もなしに町を襲えると言うわけである。
別に丸ごと略奪してやる必要もない。せいぜい住民を脅して食料や金目のものを巻き上げて引き返す。周辺の他の町にも順繰り回っていって、また来たときには再び貢がせる。一儲けしようと言うよりも、細く長く搾り取り続けようと言う考えで、盗賊にしてはずいぶんと堅実な考え方である。
「頭ぁっ!ずいぶんと気楽な仕事じゃっ!なんでいままでまったんじゃぁっ?」
あまり頭の良くなさそうな、中年の小太りの盗賊がそう嘯いた。
「うるせっ!静かにしろっ!面倒くせぇ奴がいたんだよっ!」
「面倒くさいやつぅ?」
頭と呼ばれた男とは、意外と若かった。まだ三十を越していないだろう。盗賊の頭目とは言え、いや、だからこそ見た目や年齢、経験でハクをつける必要があるはずだが、その男は見た目からそうしたものは感じられなかった。そうした見かけ上の力でアピールできない人物が荒くれ者どもの頭目を勤めるとしたら、それは中身、主に暴力と詐術に長けている必要がある。若い頭目の背格好は痩せ型だが、よく見れば引き締まった、見方によっては武人然としたしなやかな筋肉の鎧に覆われており、一方で目端の利く、ある程度の賢さも持ち合わせているようであった。
「賊狩り剣士って聞いたことはねぇか?」
「賊狩り剣士…あの、あちこちで商隊を襲った盗賊どもを切り捨ててるって言う…超人的な強さの二人組みの傭兵ですかい? あんなの…しくじったやつらがばら撒いたホラじゃ…」
「ホラじゃねぇんだよ…まあ、本当にそいつかどうかは判断はつかなかったがな、いかにもそれっぽいひげ面と小兵の男がちょっと前まで町にいやがったんだ。そいつが町を出たから今襲う。それで文句はねぇだろっ?!」
「まあ、おいらはとりあえず、ちゃんと恩恵にあづかれるんなら、いつまでも待ちやすがね」
頭目は慎重なたちのようだが、仕事自体は鼻歌交じり、ピクニック用な気楽さの仕事だった…はずだった…
盗賊たちが突入してくる直前で、すでに町にはやや軽い混乱が始まっていた。町の中心を突き抜ける形で猛スピードの橇が滑っていく。フレデリカは見事に橇を操作し、障害物をかわしながらもほとんどスピードを落とさない。その状態でカール・ビランデルが大声を上げた。大兵力を叱咤するための力強い美声である。
「盗賊が襲撃してくるぞっ!女、子供っ!老人は家には入れッ!男は武器を持って広場にあつまれっ!」
だが、騎士団に治安維持を任せている村の男達の反応は良くない。まず、危機感が足りないのだ。とりあえず、何が起こったのかとぞろぞろと広場に集まりだすが、武器を持ってくるでも、広場で遊ぶ子供達を家に入れるでもない。
「ちっ! 鐘をならせっ!緊急事態だっ!」
町には危険を知らせたり、会合を行う際に鳴らす大きな鐘がある。まずはそれを鳴らさなければならない。初めてカールの言葉に反応したのは宿屋の主人であった。とっさにはしごを上り、どの建物よりも高い位置にある、警鐘を思い切り鳴らす。そこまで上れば盗賊たちの姿も見えた。もう、森と町の間の中間地点に差し掛かってきている。
「盗賊だっ!百人はいるぞっ!女子供は家の中に入って隠れろっ!」
これでやっと、危機感だけは伝わったようであった。宿屋の主人は狂ったように鐘をたたき続ける。
「おっ!気付いたみたいですぜっ!」
「あん? 多少は抵抗する気があんのか…ちったぁ面倒なことが必要になるかもな…んっ?」
まだまだ気楽そうな頭目が、何かを見つけた。町の建物の隙間を抜けて、猛烈な勢いで迫ってくる物体がである。
次の瞬間、品の悪い中年の盗賊が声も上げずに馬上から転げ落ちた。正確に、眉間に矢が突き刺さっている。
勘のいい頭目はそれを見た瞬間、とっさに馬の首にしがみついて身を小さくした。案の定、自分の頭があった空間を、風切音と共に矢が通過していく。最初の一矢をどうにか避けた頭目だが、次の瞬間には馬の眉間に矢を射こまれ落馬した。相当にバランス感覚に優れているようで、体を回転させて着地し、すぐさま倒れた馬の影に隠れるようにしゃがみこむ。
眼前を通る物体は冗談にしか思えなかった。少し大きめの橇に、ガタイのいい老人と、孫ではないかと思われる娘が乗っている。前に座っている娘越しに老人が橇の手綱を片手で握っていた。よく見れば老人は片腕であるのだが、一瞬ではそこまではわからなかった。そして、その前に座っている娘の手に弓矢がある。近弓で次々と子分達に射こんで行くのだ。ほとんど百発百中であった。盗賊たちの中を通り過ぎた頃には、二十名ほどが落馬しており、内十名は眉間に矢を射こまれて絶命していた。
フレデリカの弓の腕にカールは驚いていた。スヴェンから狩の手際については聞いていたが、まさか、これほど高速ですべる橇の上から立て続けに、正確に矢を射れると思っていなかったのだ。こんなまねをできる者は、騎士団の中にあっても小数しかいないであろう。確実にやれると確信できるのは、スヴェンぐらいのものである。
カールにはこの弓の腕が修練の結果ではないことがわかる。このような特殊な事態に対応した訓練など考えられない。全速力の馬よりも高速で移動、しかも、騎乗している場合よりも遥かに低い位置から、連射と言っていい間しかおかずに、立て続けに違う目標を射ていく。そんな技を身に付けようなどという物好きはそれこそスヴェンぐらいのものであろう。
遠目から盗賊たちの来襲を察知したあたりからも、フレデリカの視力は極めていいのだが、それだけではない。高速の橇の上から目で確認して、あれほどすばやく弓を射ることは不可能である。狙いをつけている暇もないのだ。狙いの正確さは勘の良さからしか考えられない。
母親であるレーナは戦場における危機察知に神がかり的な勘のよさを発揮したが、立場上、最前線で実際に剣を振るうことはそう多くなかった。身体能力も高く、武術についても彼女と同等以上に渡り合える者は現在でも四剣候以外ではほとんどいない。しかし、それにしてもフレデリカのこの弓技は異常であった。スヴェンのやりそうなことではあるが、稽古を頼まれた剣術でさえ、指導をニルスに押し付けているのだから、弓まで教えているとは思われない。
生まれながらに持っている才能としか思われないのだ。ウィルゴットとレーナ、帝国屈指の二人の武人の血のなせる業であろうか。
騎馬の集団を通過したところで、カールは速度の落ち始めた橇から飛び降りた。フレデリカは森の中までは行かず、弓の射程範囲内で足を地面に触れさせて減速し、橇を止める。すぐさま橇を立ててその影で弓を構えた。
盗賊たちはまだ状況を理解できていない。突然飛び込んできた何かの塊から矢が放たれ、仲間達が倒れていく。何が起きたかも把握できないうちに、背後から奇襲を掛けて来たのが、老いたり言えど帝国一の武人だとはわかるはずもない。最後尾にいた者たちは、徒歩の老人に次々と馬上で切り捨てられていった。老将の剣は馬の首と騎手の胴体を切断していく。
ようやく、冷静になった者たちが、カールの背後に回り込もうとすると、正確無比の矢が飛んでくる。盗賊たちは八方塞の状態にあった。
頭目は頭を射抜かれた馬の首にしがみついたまま動いていなかった。死んだふりでやり過ごそうかとも思ったが、仲間が切られるままにしていては、頭目としての面目が丸つぶれである。一度、全員を自分の周りに集め、体制を立て直さねばならない。
「こっちに集まれっ!弓の射程からでろっ!離れているやつは石でもなんでも投げてその爺の足を止めろっ!」
投石は足止めには極めて有効な手立てである。だが、もちろん季節は冬。足元に石などは転がっていない。雪を丸めて投げる者、短剣やその鞘など身につけている物を投げる者などがいる。実際それは四度目としては有効で、とりあえず、全員が弓の射程とカールの周囲から離れることに成功する。
数を減らしたと言っても、まだ百名以上はいる。たった二人であっという間に五十人前後も殺されたと言うのは信じがたいことではあるが、まだまだこちらが圧倒的に有利であった。そもそも橇で突っ込んできたときと違い、二人は町と逆方向にいる。こちらの生き残りは馬で町に向かうと言う選択肢があるのだ。行けば追ってくるだろうが、状況は変わる。混乱した手下達を落ち着けるためにはこれがベストと思われた。
一瞬のにらみ合いののち、頭目は馬首を翻し、町に向かうよう合図を送ろうとした。
「ほうっておけっ!町に向かう…?!」
振り向いた瞬間、町のあちこちから煙が上がっているのが見えた。煙突から出ているものではない。目を凝らせば家々から火が出ているのもわかる。
「な…なんだ…?」
『別働隊がいたのか?』
目の前の敵と戦うのに夢中で頭目が振り返るまで気付かなかったカールの脳裏にとっさに浮かんだ疑惑は、つい戦場での状況分析に偏りがちな思考の結果である。そもそも抵抗するような力がないから狙った町であって、そのような戦術を労する理由などまったくない。本人もすぐにそのことに気付いた。
『別口の賊か…』
考えていたのはほんの一瞬なのだが、緊急事態に慣れたカールよりも早く次の行動に出たのはやはりフレデリカだった。
射殺した盗賊の残した馬に飛び乗るようにして跨り、振り返りもせず馬の腹を蹴って急かす。
「フレデリカ様っ!」
カールの呼び声も耳に入っていない。カールも急ぎあいている馬に跨り、盗賊たちを無視して町に向かって走り出した。
盗賊たちは目まぐるしい状況の変化にまったく追いつけず、百名以上の者たちが同時にポカンと口を開けて呆けてしまっていた。
「お、俺達以外に大人数の盗賊が出張ってきやがったのか…? しかし…」
盗賊たちは元々焼き討ちなど考えていなかった。元々大所帯の盗賊団などではない。いうなればこそ泥やスリなどの小悪党の寄せ集めに過ぎないのだ。町ごと焼き払うなど、そもそもそのような度胸は持ち合わせてはいない。町に火をを放っては金目の物を自分で探さねばならず、それも一苦労である。だから、住民を脅す程度に暴れて、持ち主に出せるのが合理的であった。
「か、頭ぁ? に、逃げるんですかい?」
すでに逃げ腰の手下が震えがちな声で言う。新手の商売敵の動きは手際が良すぎた。金目当ての盗賊ならいきなり火をつけたりはしない。この集団の狙いは町そのものの壊滅としか思われなかった。
「と…とりあえず森の中でやり過ごすぞ…」
どうにかそう言った頭目に従い、盗賊たちは森の中まで退いていった。