手紙配達人の逡巡
スカーディナウィア南部、と言ったところで、ヨルパ大陸の北側にある半島でのことであるから、ブレーキングなど北部ほどではなくとも、冬は厳しく、旅に向いているはずもない。
すでに真冬である。本来であればとっくにノール公領に入っている予定であったスヴェン達は、未だに第一騎士団領の手前をうろついていた。
いかに強壮のカール・ビランデルとは言え、右腕を失う重症を負った後の強行軍で、かなりの体力を消耗をしていた。また、予想以上の大雪で住居を兼ねた馬橇が破損したり、馬が病気になったりと言ったこともあった。どうしても休み休みの旅となってしまったのだ。
少なくとも春までは南部に戦禍を蒙ることは考えにくい。だから、予定よりも大幅に時間が掛かったところで特に問題はなかった。むしろ、不信な点の多い第一騎士団領に入ることの方が、よっぽど問題がある。
状況次第では、スヴェン達はともかく、カール・ビランデルなどには危険すぎることになるかもしれなかった。
スヴェン達はどうにか第一騎士団領の領境近くの町にたどり着いたのだが、そこですでに一ヶ月をすごしていた。
カール・ビランデルは熱を出してベッドに横になっていた。五十四歳、すでにいい歳とは言え、このように床に伏せることなど、戦場で重症を負った直後でしかなかった。右腕を失ってから、すでに三ヶ月が経過している。怪我が理由の発熱ではない。単なる風邪であったのだが、そんな経験のほとんどない老元帥はすっかりしょげ返ってしまっていた。
「はあ、私は本当に耄碌したようだ…早く誰かに後を任せて、隠遁するのが世のためというものだ…」
「いや、あぁ…風邪ぐらいで落ち込まんでくれよ…おやっさん…」
「す、スヴェンよ…後は、後はよろしくな…」
「ニヤニヤしながら、気分出した台詞を使ってんじゃねぇっ!」
二人の年長者のやり取りにあきれながら、フレデリカとニルスは甲斐甲斐しくカールの世話をしている。この村ではとりあえず今のところ追っ手は現れていない。カール・ビランデルを拾った後、経路を変えて別の街道から第一騎士団領に近づいているので、第三騎士団の追っ手は撒けたのではないかと思われた。
そこそこの規模の町だが、ヘルシンフォスから離れているため、領主が食料を徴発して宮廷に献上するなどと言うこともなかったようだ。スヴェンの読みどおり、スカーディナウィアでも南方の方は、まだまだ臨戦態勢と言うほどにはなっていない。
さすがに、病人が出たので、馬車暮らしは一旦諦め、一向は安価だが清潔な宿を見つけて、当面の住処とした。スヴェンがクリストフェルから受け取ったステファンの遺産で気前よく前金を払ったせいか、宿屋の主人の対応もすこぶるいい。
「お客様、お加減はいかがですか?」
エプロンをした主人の奥方が機嫌よく部屋に入ってきた。でっぷりと太った中年の主人には若すぎるおかみさんなのだが、主人もなかなかにできた人物であるし、奥方のもてなしも実に行き届いている。年齢差はともかく似合いの連れ合いであった。
「ああ、おかげでだいぶ良くなってきたようだ」
たしかに気分はだいぶ良くなったようで、カール・ビランデルも愛想よく答えた。
「あら、でも、あまり無理はなさらないほうが良いですよ。熱は…だいぶ下がってきたようですね。晩御飯は普通のものにいたしましょうか?」
「ああ、さすがにそろそろミルク粥には飽きてきたころだな」
「じゃあ、できるだけ消化にいい、おいしいものを用意いたしますね。栄養をつけないと…」
そう言って、手際よく額を冷やすための雪を入れた皮袋を取り替えた奥方は、軽やかな足取りで部屋を出て行った。
部屋の中にはスヴェンもいたのだが、興味がないのか奥方が入ってきても、窓際から外を眺めたまま、一切口も聞かなかった。
「スヴェン、何を見ているんだ?」
多少、怪訝に思ったカールがたずねた。
「フレデリカとニルスだ。裏の空き地で剣の稽古をしているんだよ…晴れているとは言え雪の中…」
「降りて行ってみてやればいいのに」
「フレデリカの指南役はニルスだ。ニルスはもう基礎は十分教えたから、いちいち口を出す必要もない」
「ずいぶんいい加減な師匠がいたものだな…」
スヴェンは腕組をしたまま、顔も向けずに話している。
「フレデリカ様の剣技…まだまだ始めたばかりということだが、才能はかなりのものだな。両親を思えば当然かも知れないが…」
「剣の才能なんてものは、そうそう血統に左右されるとは思えないんだがな…」
「まあ、確かにそうだが、ウィルゴットが故人となった今ではそう思いたくもある…」
多少は話が感傷的になってきたのが気に食わなかったのか、スヴェンは再び無口になった。普段の軽口はなく、愛想のいいこの男にはなかなかないことに、あからさまに不機嫌であった。
「どうしたんだ?」
「あ?」
「なにか気に食わないことでも?」
「………この先のことがな………」
およそ思い悩むと言うのがスヴェンには似合わない。それがわかっているからかどうか、勝手気ままな人生を送っているこの男が、将来のことを考えこむというのは、カールにはむしろ滑稽に思えた。
「私が言ったことなどで悩むような男ではあるまい?お前は…」
「あんたの話のせいじゃない…フレデリカだよ…」
カールにも思い当たる節はある。父親を亡くしてまだ半年も経っていない。それでも明るく振舞っているのは、本人の気丈さとスヴェンや初めての年齢の近い友人といえるニルスと一緒にいるかだろう。だが…。
「何か、必死すぎるようにも思えるな。何に必死なのかはわからないが…」
「ああ、ニルスにも似たようなところはある。目の前で親を殺されたって意味では二人とも同じだからな…」
「だが…親を殺されたって意味ではスヴェンも同じだろう?お前さんもあんなに生き急いでいたような時期があったのか?」
「俺の場合は、物心ついたときにはとっくに死んでいたからな。はじめからいないのと、失ったって言うのとでは、違うんだろうよ…」
カールはスヴェンが陰気口調で話しているのがたまらなかった。この男にこんな話は似合わない。
「フレデリカ様の場合は…あの必死さはウィルゴットよりもむしろ、若い頃のレーナ様を思い出すな。まだ、軍に入った頃の彼女ほどには、肩肘を張った感じはないがね」
自然に話の流れを変えようと試みた。
「そこが…一番気になるんだがな…」
「………」
スヴェンもカールもそこから何も言わなかった。
外ではニルスとフレデリカが雪まみれになりながら木剣を打ち合っていた。才能があると言えど、やはりニルスの方が遥かに上手である。何より、ニルス自身の才能も決してフレデリカに劣るものではなかった。フレデリカの攻撃は防御されるのではなく、ニルスの体にも得物にも触れることなく、空を切る。ニルスの足運び、体裁きは訓練を受けた大人の兵士であっても、捉えることが難しい。
一方で、ニルスが攻撃に回ると、フレデリカはかわすことはできなくとも、受けることはできた。フレデリカはニルスの攻撃をかわす動きは捉えられなくとも、打ち方に回ったときの切っ先の動きは正確に把握している。
だが、フレデリカの動きは受け手に回ることで単調になる。ニルスは余裕をもって、フレデリカの木剣に打ち込み、受けられた瞬間、手首を捻って絡めとった。数歩離れたところまで、フレデリカの木剣が飛び雪に突き立つ。
「ただ受けるだけでは駄目なんです。攻撃を受けただけでほっとしていては、素人ならともかく、剣技を修めた敵には無防備も同然です。受け太刀をつかったなら、同時に相手を牽制しなければなりません。腕力がない分、弾き返したりすることは難しいわけですから、すぐに距離をとるなり、組討に持ち込むなり、次の行動を取れなければなりません。組討も体力差を考えると難しいでしょうから、まともに鍔迫り合いになること自体、避けるべきなんです」
生真面目にニルスが論評するのを、フレデリカはいちいち自分の頭に刻み込むようにコクコクとうなずいて見せた。
「今日はここまでにしましょう。晴れているとは言え、雪の中ですから、元帥だけでなく私達まで風邪をひいては大変です」
「ええ。ありがとうございました」
フレデリカは礼儀正しく、同年輩の師匠に向かって改まってお辞儀をした。普段はできるだけ意識して、敬語を使わずに話そうとしているが、剣の稽古の最中だけは教わる立場としてのけじめをつけていた。
一方で、ニルスも多少は慣れてきたのか、口数が増えてきたようだった。相変わらず常にそれしかしらないかのように敬語でしか話さないが、多少は人なれしてきたようではある。スヴェンはそんな二人のほほえましい様子を見てはやし立てたりもするのだが、良い傾向だと思っていた。
カール・ビランデルのベッドの横にテーブルを置いて夕食を済ませたあと、四人は今後のことについて話すことにした。食事は贅沢なものではないが、宿屋のおかみの心づくしで美味であった。快気祝いだと言って、主人からは普段よりもやや高価なワインまでサービスされている。夫婦はこの奇妙な一行のことを気に入っているようであった。
スヴェンは食後には少し強めの酒を飲む。それほど酒に強いほうではないので、量は控えめであるが飲酒の習慣は悪い癖と言っていいほど、欠かさないものであった。今はコスケンコルヴァをお湯で割ったものをちびちびとやっている。カールは病み上がりであるため、食前に少量のワインを口にしただけで、今はお上さんが作ってくれたヤギの乳を温めたものを飲んでいる。ニルスとフレデリカのカップにも同じものが注がれていた。
「さてと、おやっさんも調子よくなってきたみたいだし、そろそろ旅の続きのことを考えよう…」
「叔父様、このままここで冬を越すというのもありではないんですか? 私は結構ここが気に入ってますけど…」
「ああ、確かにここは居心地はいいんだが、おやっさんは引退引退いいながらも、第一騎士団が気になってしょうがないらしいしな。それに、直接戦乱に巻き込まれる心配はなくても、一箇所に長くとどまるのは良くない…」
「まあ、逃亡生活みたいなものですものね」
屈託なく笑うフレデリカ。本来なら笑えるような話ではないのだが、意識してかどうか、彼女は自分の境遇をそれほど悪いものとは考えていなかった。認知されていない皇族の私生児。それも、現在は自称皇帝が複数存在するとは言え、その中でも中央の貴族達が推戴し、手続き的にはもっとも正当性を主張できる女帝レーナの隠し子。そんな自分の素性について、フレデリカはまったく実感を持てないでいた。
実感は持てなくとも、その生まれを理由に、さまざまな不幸や不便が人生に付きまとうことは理解している。戦乱の時代がすでに到来していることは、スヴェンの話からすでに理解していた。自分の存在に政治的な意味が生じていることもわかっている。明察な彼女は、それが自分の身の危険や不自由に直結し、いずれは何らかの形で、政争や戦争に巻き込まれていく可能性が高いことを確信していた。
それでも、平然とその境遇を受け入れられるのは、一つにはスヴェンという頼りになる叔父の存在であろう。奔放で自由気ままを心情とする叔父と一緒であれば、そうそう簡単にどこかの権力者に捕らえられ、利用されるようなことにはならないと思っている。もう一つは、そうなったらそうなったで、その時考えればいいという開き直りもできていた。これもスヴェンから学んだことであろう。
一方で、この『逃亡生活』をどこか楽しんでいるようなところもあった。もともと隠し子である。今思えば父やズラタンが自分のことを必死に隠そうとしていたことがわかる。それほど離れていない場所で暮らしていながら、農園の外に出かけたのは、周辺の山々とせいぜいイエテポリの大倉庫までで、帝都レールムを訪れたことは一度もない。
同じ隠れているなら、農園でひっそりと生活しているよりも、村々を渡り歩きながら放浪しているほうがよほど楽しいに違いなかった。父親が生きていたならば、農園での生活にも未練をもったことであろうが、スヴェンと一緒ならば間違いなくその方がいいのである。自分にとっても叔父にとっても。
「まあ、その逃亡生活だが、とりあえず、春にはノール公領に入る。冬になっちまったから、スコーネ公領に寄るのは少々難しいかもしれない。第一騎士団領に入ったら、ウブサラ公領を経由してはいるのがいいだろう。あとは状況次第だ。そのままフリップ王国に渡るのが、まあ、恐らくは一番安全だろう」
「先生、先々は状況もありますし、先生の気まぐれもありますから、どうなるかわからないとして、まずは第一騎士団領のことじゃないでしょうか?」
さりげなく、大人びた口調でそう述べたのはニルスである。ほら吹きとまではいわないが、スヴェンの言う予定ほど当てにならないことはない。
「ま、そういうことだ」
まったく悪びれることなくスヴェンは答えた。
「だが、どう考えて第一騎士団領は様子がおかしい。そもそも、このあたりで騎士団員を見たと言う話を一切聞かないのが以上だ。平時でも、このあたりの治安維持に動くことはあるし、戦時となればなおさら、このあたりの領協沿いに部隊を派遣するはずだ。おやっさんがいないからって、そんなことまで滞るはずがない」
本来、主力三騎士団は周辺領主の監視を目的として存在しているが、反乱などあまりない南部の第一騎士団の場合は周辺領域の治安維持の任務も帯びている。旧スオメル領の南部も第一騎士団の担当領域であるから、中央の食糧不足や治安悪化を考えれば、このあたりにも警邏隊ぐらいは派遣されるのが当たり前のはずであった。
「呑み屋や手紙配達人組合の事務所で聞き込んでも、騎士団領内は平穏みたいなんだが、軍の動きがとにかくおかしい」
「本来なら副団長が動くはずだし、私から連絡がないなら、ヘルシンフォス宮廷に連絡を取るぐらいはしているはずなんだがな…」
「それがなくたって、警邏隊すら派遣してないことはおかしいだろ?」
カール・ビランデルが悔しそうな顔をしている。自分の不在の間に何が起こっているかすらわからない。自分が耄碌したと言うのは、冗談だけでなく、認めざるを得ない実感となっていた。
「とりあえず、まだ本調子じゃないおやっさんはフレデリカとここに残ってもらって、俺とニルスだけで様子を見てくることにしよう。騎士団の様子も探ってくる。十日以内には戻ってくるつもりだ」
フレデリカはできる限り、政治や軍事に関係する要人に近づけたくはなかった。カール・ビランデルほど物分りのいい高官というのはまずいない。スヴェンとニルスの二人であればたいていのことは、自力でどうにかできる。自分がいない間のフレデリカの身は、風邪さえ治ればカールに任せておけば安心もできる。
「とりあえず、これだけ預けておく。万が一の場合のためだ」
そう言ってスヴェンはいつも腰につけて歩いている袋から、かなりの数の金貨と宝石を取り出してフレデリカに渡した。
「ま、いざというときのためだな。だが、逆に金を持ち歩いているってことは、危険も付きまとう。俺達のいない間はできるだけおやっさんと行動することだ」
「ふむ。フレデリカ様の護衛は喜んで引き受けよう。で、第一騎士団領ではどうするつもりだ?」
「まあ、とりあえず、町の様子を見て…騎士の一人でもひっつかまえて、酒でも飲ませて内情を吐かせるさ…」
翌日、スヴェンとニルスは、馬に乗って町をでた。宿の主人とお上さんには、残る二人のことを頼んでおいたが、フレデリカとお上さんはいつの間にか親しく話を交わすようになっており、スヴェンの見ていないところでは台所の手伝いまでしていたらしく、その点何も心配する必要はないようであった。