若将皇后と共に起ち北方同盟成立す
ブレーキング公領の中でもより最北の地、アンドレア。
元々はブレーキング諸部族の序列で最上位に位置するアンドル族の領域であった。ブレーキング諸部族は農耕を行わない。また、湖沼や漁場になるような海岸線も存在しないことから、その生活のほとんどは狩猟によって支えられている。アンドル族が厳しい生活環境を選んだ理由は、熊などの狩猟対象となる動物が多く生息する地域だったからである。
厳しい生活環境と狩猟によって鍛えられたアンドル族は周辺部族との闘争において、圧倒的な勇猛さを発揮した。スウェーダ王国成立以前、ブレーキングの部族たちが統合していく過程は、白狼にたとえられる彼らの独壇場であった。
アンドレア城はこの地域の中心に位置する、断崖絶壁を削り出して作られた城砦である。スウェーダ王国時代の藩国としてのブレーキングが成立した時点で建設されたもので、その後も、補強工事を繰り返してきた。城下町などは存在せず、政治と軍事の拠点であるだけで、産業らしきものも周辺にはない。物資を備蓄し、政権を握る人々が集まる。ただそれだけの場であった。
現在、アンドレア城にはマルティン・アンドレセンに統治を委託された、諸部族の長老達が集まっている。合議制でブレーキングを治めるための体制だが、諸部族にとっての長老とは本来、引退した族長のことで、ご意見番程度の存在でしかない。彼らに統治を任せざるをえなかったのが、多くの部族の族長は数年前からレールムに潜伏していたからである。中央には族長達の親の世代にあたる長老があつまり、各部族の統率は族長の息子の世代が族長代理として預かる、それがマルティンの留守を守る体制であった。
「グスタフ・アンドレセンが謀反?」
長老会議の議長を務めるウェストル族の長老が危機感のない声を上げた。ウェストル族はアンドル族に次ぐ序列にあり、藩国成立以降は公爵の補佐役、軍司令官などを排出してきた。アンドル族は元々人数自体は多くはなく、身体が強壮の者が多いため、軍事力でブレーキング全土を支配するにいたったが、人口だけで言えば、ウェストル族の方が多い。発言力は無視しえぬものがある。
「グスタフ殿はマルティン閣下のご子息ぞ。まだ若いがいずれはマルティン閣下の後を次ぐお方。そんな馬鹿なことはあるまい…そんなことをする理由などないじゃろう?」
この返答に状況を報告した若者は焦る。老人はすでに現実を見ていない。
「すでに、半数の部族はグスタフ殿の手に落ちているのですぞっ!」
「な…同胞を殺したのいうのかっ?!」
「いえ…一人も死んでおりませぬ…」
「?」
報告者たる若者、目の前にいる老人の孫にあたるウェストル族族長代理、ラグナル・ウェストリンは祖父に向かって嘲りの笑みを浮かべた。
『やってられるかっ!こんな耄碌した爺共など相手にしてられんっ!』
内心の諦念は怒りにつながり、その怒りを静めたのは老人への哀れみと侮蔑である。若者はあえて礼儀正しく、慇懃無礼を絵にしたような態度で続けた。
「グスタフ殿は正当なブレーキングの継承候補。にもかかわらず、関城の守備などをさせていた我ウェストル族の方こそ謀反の罪に問われるかもしれまぬ。諸部族は自らすすんでグスタフ殿に従い始めたのです」
老人は孫の態度の変化に気付きもしなかった。
「我々は父君たるマルティン閣下の命令に従っているだけぞ」
「グスタフ殿の主張をご存じないからそんなことをおっしゃるのですな…」
「何?」
ラグナルは大きなため息をついた。できるだけわざとらしく。これはさすがに老人も腹を立てたが、それを無視して話し続けた。
「現在、ブレーキングの諸部族にはこの冬を越えるだけの備蓄がありませぬ。マルティン閣下はレールムを制された後も食料を送ってきておりません。諸部族との間の約束はすでに反故にされております」
「そ、それは事情あってのことで…」
「事情があろうと無かろうと、このままでは同胞達は飢え死にしてしまうっ!族長であろうと公爵であろうと、部族民を飢えさせる者は人の上に立つ資格はないっ!それがブレーキングの掟っ!!グスタフ殿はそう申しているのです」
ようやく老人は状況を飲み込めた様子だった。
「グスタフ殿はポッテン公領の協力を得て、大量の食料を各部族に配っているのです。もうすでに、諸部族の間ではブレーキングの長はマルティン閣下ではない」
「グスタフ殿を公爵と仰ぐと言うのかっ!?」
「グスタフ殿はそのようなことは申して降りませぬ。ですが、事実上、頼りになるのはマルティン閣下でも、長老衆でもないと思われていることは確かです」
老人は何も考えられなかった。あまりに自分の手にあまることで、それは並んで座っている他の部族の長老達も同じことであった。
ラグナルは一つの事実を確信した。マルティン・アンドレセンが度重なる戦乱を起こしながらブレーキング公爵の地位を追われずに済んだのは本人の智謀ゆえではなかく、優柔不断で日和見主義の彼ら長老達のためだったのだ。他の族長達は父親の世代にあたる長老には逆らえなかった。
しかし、自分たちまでこの耄碌したじじい共に従う必要などあるだろうか。
ラグナルは何も言わず、謁見室から出て行った。そして、自らとウェストル族もグスタフに従うことを決め、アンドレア城を去った。
一度決断したグスタフの動きは迅速であった。実際にはポッテン公や第二騎士団の力を借りてはいるものの、食料を運び込み、各地の同世代の族長代理を説得し、自らの陣営に加えていく作業はほとんどが彼の手腕によるところであった。年長の族長代理や何らかの事情で残っていた族長達はエスナが説得して回った。
二人の姉弟は一切武力を使うことなく、僅か一月の間にブレーキング諸部族のほぼ全てを味方につけたのである。
ブレーキング公領の外ではもう一つの大きな動きがあった。元々ポッテン公領の商隊と第二騎士団が食料を買い占めたのは、レールム郊外の大市場やいくつかの大倉庫だけの話である。レールム周辺の小領主達の領内での買占めは行っていなかったのだが、元々その必要はなかった。
一度レールムを制してみれば、マルティンは簡単には城外に兵を出すことはできない。二万程度の軍勢ではレールム内での暴動や反乱に備えるだけで手一杯だったのである。
しかし、飢餓はレールム周辺だけの話では済んでいない。レールム近郊で発生した棄民の群れはヴェスタラ本領全域の農園や小領主の荘園を襲撃し、逃げ遅れた者は食料を奪われ、残りは食料とレールム周辺から逃げ出していく。
逃げ出した主に農園主達の一部は、新たに皇帝として推戴された女帝レーナの座すヘルシンフォスを目指した。残りは南方ノールを目指した。北方はブレーキング公領があるので、避けられたのだが、ヘルシンフォスに向かった者達は途中で第二騎士団に保護され、破格の金額で食料の大部分を買い上げられた。
そして、それらの食料を今度はレールム周辺の小領主達を通じて、ヴェスタラ本領の村々に配布始めたのである。さらに、暴徒と化した棄民たちを鎮圧し、食料を配布して保護する、大規模な野党団を討伐すると言った活動を地道に続けたのである。結果として、マルティン・アンドレセンはもちろん、ヘルシンフォス宮廷の貴族達よりも、第二騎士団を頼る者が増え続けた。
ブレーキング公領では今やエスナとグスタフに従わないのは、アンドレア城による長老達と僅かな兵士達のみとなり、エスナとグスタフの後見によりアストリッド大公がブレーキング公領を継承した旨の宣言書が全土に配られた。さらに、皇后エスナを盟主とし、ブレーキング大公領、ポッテン公領、第二騎士団領に一部のヴェスタラ本領の小領主達を加えた北方同盟の締結が宣言される。
フリース城とレールムでの変事以来、この冬の間に最も大きな勢力となりおおせたのが、皇后エスナを頂く北方同盟であった。
「はっはっはっ…やりおるわ…」
レールム宮廷内の宰相執務室、誰もいない部屋で北方同盟締結の宣言書を読み終えたマルティン・アンドレセンは自嘲気味ではあるが、大声で笑った。
マルティンはブレーキング公領においては事実上独裁者であった。本来、独立不羈の気風が強い部族の集まりであるブレーキングにおいて、独裁者が誕生すると言うことはありえないことであった。マルティンが絶対的な権威を握るにいたったのは、スウェーダやヴェスタラへの敵愾心をあおり、本来ただの相談役にまで退いている長老達に今一度自部族に対する権威を取り戻させることで味方につけたことによる。
マルティンは腹心の部下を持たなかった。前線において大群を任しうる将軍も、内政全般を負かしうる文官も一人もいなかったのである。自分と同じことができる人間など、ブレーキングにはいない、対等な人物など存在しないと思い込んでいたのかもしれない。
『まさか息子と娘にしてやられるとはな…』
聡明ではあるが性格のおとなしいエスナと、才気はあるが父親に従順であると思われていたグスタフ。実を言えば内心には、父親に対する反発心や策略を宿していた。その事実をマルティンは笑い飛ばすしかなった。
だからと言ってマルティンもこのまま終わるつもりはない。ブレーキングから連れてきた兵士達の一部には同様が広がっており、すでに離脱者も出始めている。早々にレールムで勢力を維持することは難しくなるであろうことは明白であったが、マルティンの心中にはすでに次の戦略が出来上がっていた。
ヘルシンフォス宮廷、女帝レーナを推戴するヴェスタラ貴族達の間では、北方同盟成立に対する評価が真っ二つに割れていた。彼らはこの同盟が盟主である皇后エスナの発案ではなく、第二騎士団長クリストフェル・エリクソンの計略であると認識していた。問題はその目的である。
「エリクソン将軍の行動は反逆罪にも相当するっ!宮廷に何の許可も無く、同盟を締結する権限などエリクソン将軍にはないっ!」
そう、いきり立っているのは、司法卿アルフレード・バウエルである。女帝となったレーナはこの三十代の秀才閣僚に手を焼いていた。ことあるごとに感情的な発言で会議を混乱させる悪癖があるのだ。そのたびに、財務卿アンデシュ・セーデルストレムなどがお灸をすえるのであるが、更なる出世の好機とでも考えているのであろう。アルフレードは繰り返し、宮廷に対する忠誠心を言い立て、反論するものを、府中者呼ばわりまでする。彼に同調する者もいないわけではない。若手の文官の間では、声のでかい彼を大物と勘違いする輩も少なくはないのだ。
本当の意味でその男を黙らせるためには、彼の言う忠誠心の対象、皇帝として推戴されたレーナが発言するしかなかった。
「バウエル卿、そう言うが、私の即位の正当性は未だに明確にできてはいない。ヴェスタラ皇帝を名乗る者だけでもすでに二人。今、確実に最大の権威を持って、ヴェスタラ皇室の帝権を行使できるのは、エスナ殿かもしぬぞ」
推戴された側の人間が言う台詞ではない。だが、これが現実と言うものであった。アストリッド帝が崩御してもエスナには皇太后の称号が送られていない。未だに皇后のままで、それは、アンデルス帝の国葬が行われていないためである。ヘルシンフォス宮廷と言ったところで、先帝の死から数ヶ月が過ぎようと言うのにその国葬すら行えていないと言うのでは、権威を確立することも難しかった。現在の状態を正式に推戴された皇帝がいない状態と考えるのであれば、その皇后が帝権を代理するのは筋が通っている。
「帝権を行使しうるのが誰かと言うお話は置いときましょう。そんな話は現実の政治や戦略には役にたちません」
「す、ストーメア卿っ!皇室の権威を国家の元勲たるあなたが尊重しないと言うのですかっ!」
「やめよっ!」
グスタフの話をさえぎったアルフレードに厳しい叱咤をたたきつけたのはレーナであった。
「バウエル卿は退室せよっ!そなたは御前会議の進行を妨げたっ!法の番人たる司法卿足るそなたがそのようでは下の者にも示しがつかぬっ!処分は後ほど書面で知らせるっ!宿舎で謹慎しておれっ!」
皆、驚きはしたがレーナの処置そのものには納得していた。一部を除いて御前会議にいるほとんどの者はアルフレードを疎ましく思っていたのだ。感情論や権威論を声高に叫ぶ者がいると、そもそも話し合いにもなりはしない。一部のアルフレードを指示する若手の文官たちも、女帝たるレーナ自身の処置であるので、何も言えなかった。
「ストーメア卿、話を続けよ」
「はっ、今考えるべきはエスナ陛下と恐らくはその右腕、あるいは黒幕として動いているエリクソン将軍の意図です。北方同盟を成立せることで、エスナ皇后は優にスカーディナウィアの四分の一にあたる領域を傘下におさめたと言えます。しかし、だからと言って、我々と敵対しているわけではありませぬ」
確かに北方同盟は誰かを皇帝として推戴したわけではないし、レールムのアーギュスト大公を支持しているわけでもない。同盟の条文には、相互に食料などの援助を行える体制を作り、共同で治安の維持にあたるとだけある。要するに軍事的な目的があってのことでなく、国難の時代を生き残るために、寄り合いましたと言うだけの話にも思えるのだ。
「エスナ殿の真意は確認せねばならぬ。たとえそれが彼女自身の考えではなく、エリクソン将軍のものであったとしてもです」
「おっしゃるとおりです。まず、我々の中から一名、アストリッド殿下のブレーキング公領継承を承認する書簡を持って、皇后陛下にお会いする必要がございますな」
「私が参りましょう」
グスタフの言葉に自ら名乗り出たのはアンデシュであった。
「セーデルストレム卿、そなたは財務卿の職にあるし危険も伴う任務です。誰か武官の方が…」
「陛下、財務卿の職は誰か他の方でも耐えましょう。エスナ陛下は今のところ敵ではありませぬ。いきなり武官を送るのは礼を失することになります」
「財務卿の職を代行できる者はいますか?バルエル卿も司法卿職からはずさざるを得ません」
ヘルシンフォス宮廷において、人材不足は深刻な問題になり始めていた。高級文官・武官は沢山いる。元々選帝会議に出席していた面々なので当然なのだが、その下に属するべき実務家が圧倒的に足りなかった。秀才と呼ばれた高級文官たちの多くは家格の高い貴族達であり、大勢の人間の上に立って指示を出すことには長けていても、その実務を自力で行うことは、アンデシュなど一部を除いて難しかったのである。
「そこは私がどうにかしましょう。どうせ暇ですからな…」
自嘲気味の大きくは無いことでそういった人物を皆意外そうに見やった。レーナの夫、ヘルシンフォス宮廷においては宰相職にあり、皇婿と言う肩書きも持っている人物。ヴィクトル・クルーガーであった。
「宰相閣下が代行していただけると言うのなら、安心して任地へ行けます」
アンデシュの言葉に、レーナは彼の意図を理解した。レーナの登極以来、著しく精彩を欠いていたヴィクトルにレーナは諦めかけていた。よってこの数ヶ月ほど、ヴィクトルには一切重要な仕事を与えておらず、名ばかりの宰相となっていたのだ。アンデシュはヴィクトルの親友であり腹心である。元々実務能力の高いヴィクトルに自分の代行をさせることで、少しでも自信を取り戻させようと言う配慮であった。
「それがよろしいかと…」
やや控えめながら賛意を示すグスタフ・ストーメアにレーナは軽くうなづいた。
「財務卿アンデシュ・セーデルストレム伯爵っ!、特使として、エスナ殿の下に向かい、アストリッド大公のブレーキング公領継承を承認する旨を伝えると共に、その真意をたしかめよっ!」
「はっ!承知いたしました」
若々しいアンデシュの声が小気味よく議場に響きわたった。
「司法卿アルフレード・バウエル伯爵を罷免する。空席となる財務卿と司法卿の実務については、帝国宰相ヴィクトル・クルーガー侯爵が代行するものとするっ!」
「承知しました…」
アンデシュとは対照的に小さく聞き取りづらい声でヴィクトルが返答する。レーナは不安になったが、アンデシュが何か考えているようなので、あえてそのままにすることにした。
「宮廷書記総監グスタフ・ストメーア侯爵っ!以上の人事を書面とすると共に、エスナ殿宛ての親書を起草せよ」
「承知いたしました」
北方同盟の成立は、さまざまな社会活動が鈍化するスカーディナウィアの冬において、フリース城とレールムでの変事以降、唯一の大きな事件であった。実際、他の勢力は食料の確保に奔走するのみで、何の動きもできていなかった。雪によって大軍を動かせない間に、これだけのことをやってのける者が、クリストフェル・エリクソン以外にはいなった。
だが、クリストフェル自身、同盟成立は本格的な戦乱の序曲でしかなく、この偉業も下ごしらえでしかないと考えていた。
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