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ヴェスタラ戦記  作者: 槙原勇一郎
黙将雪原を駆け白狼本拠を失う
18/23

雪原に馳せる

 ブレーキング公領はスカーディナウィアでも最も過酷な環境での生活が強いられる土地である。半島の付け根にあるこの地域はおそらくは人が生活できるぎりぎりの最北端あり、極寒の大地は凍てつき、農産物を産することはない。そのため、ブレーキング公領の住民たちは元々穀物などは滅多に口にしない。彼らは主に狩猟によって糧を得ていた。


 ブレーキングには多数の部族が存在している。狩猟民族の連合体というのが旧来のブレーキング公国を言い表すのに最も適切な言葉であった。よって、君主たる国公と言えど絶対的な権力を持っていたわけではなく、無数に存在する族長たちの代表者でしかない。スウェーダ王国に冊封された後もしばらくの間は、国公の地位は世襲ではなかった。


 世襲になった後も、他の公国・公領に比べて公の地位は高いとは言えない。君主には君主たる度量と才覚が求められ、結果を出せなければ在位中でも廃位されることが幾度と無くあった。歴代のスウェーダ国王もそうしたブレーキング公領の風習については、何も言わなかったのである。


 ヴェスタラの時代になってからは、ブレーキング公爵は一度も代替わりしていない。スウェーダ討伐戦の時点で、現公爵マルティン・アンドレセンが若かったというのもあるが、ヴェスタラへの併合、度重なる反乱の失敗がありながら、この人物の手腕に懸けると言う思いが、多くの族長たちにはあるのだ。


 ブレーキング公領の住民たちは厳しい自然と対峙しながら、日々を過している。それは、彼らをスカーディナウィアで最も優れた兵士とする結果を生んだ。兵力からすれば弱小なはずのブレーキング軍が幾度と無くヴェスタラ軍を翻弄してみせたのは、過酷な立地を巧みに生かしたマルティンの戦術と、兵士達の優れた資質によってであった。


 最北端の強兵の故郷、ブレーキング公領には今、公爵たるマルティン・アンドレセンがいない。帝都レールムに進軍し、帝国宰相として幼帝アーギュストを推戴、ヴェスタラ宮廷を形式上支配している。


 宮廷を支配していると言っても、彼が自由にできている領域は帝都レールムを中心とした僅かな地域と、本拠地であるブレーキング公領、そして両者をつなぐ街道の周辺だけであった。そして、その街道も帝国第二騎士団長クリストフェル・エリクソン将軍の断続的な攻撃により確保することが難しくなっている。


 元々マルティンは本拠地からの物資など全く当てにしていなかった。元々公領にはごくわずかの備蓄しかないのだ。帝都に行けばいくらでも糧食はあるはずであった。普段穀物を口にしないと言っても、帝都に駐留しているブレーキング人の大半は、かなり以前に公領から移住してきた者たちである。帝都での生活にも慣れており、習慣もヴェスタラ風のものへと変わっている。


 だが、当てにしていたはずの帝都の糧食は、実際には第二騎士団とブレーキングに隣接するポッテン公領の商人たちによって買い占められていたのである。マルティンは窮地に陥る。季節は冬。ブレーキング領内は言うに及ばず、ヴェスタラ領に入っても糧食部隊の移動はままならない。僅かでも公領の残留部隊に指示した糧食の到着はとても期待できなかった。




 公領の残留部隊は実を言えばレールムの状況など全く伝わっていなかった。糧食の輸送を支持する書簡を持った使者は、クリストフェル配下のレールム駐屯部隊長ベール・エストマンの手により捕縛されていたのである。


 駐留部隊の兵士たちは、マルティンが宮廷で実権を握り、巨万の富と権力を得て凱旋してくる日をただただ待ち焦がれる日々であった。何世代もの間、この厳しいブレーキングの地で命をつないできた彼らも、その過酷さに飽いていた。急速に発展した豊かな城塞都市レールムや、さらに南方のノール公領への移住を多くの者は希望していた。



『田舎者と馬鹿にされず、大手を振るって半島全土に浸透していくブレーキング人』



 梟雄マルティン・アンドレセンはそういうブレーキング人の幻想を現実にできる人物として、彼らの頂点に君臨している。


 兵士たちは自分たちの君主を悪逆無道な反逆者などとは思っていない。厳しい自然の中で生活する素朴な住民たちは、その厳しさから自分たちを救ってくれる救世主であると信じていた。と言ってもそれは建前の話だ。マルティンは決して家臣に冷酷な人物ではないが、度重なる反乱によって兵士たちの生活が少しでも楽になったかと言えばそうではない。


 と言っても、断続的な反乱と膠着状態の中で、生活水準を低下させることがなかっただけも、マルティンの手腕は評価されてしかるべきであろう。だからといって、いつまでも夢を見続けることが出来るほど、兵士たちも純粋ではなかった。この何年かで彼らも適度にすれてしまっている。仲間の何割かがレールムに移住したのち、帝都の様子を耳にした彼らは、自分たちの生活に疑問を持ち始めている。




「皇太后陛下・・・お疲れではありませんか?」


 丁寧な口調で話しかけたのは、第二騎士団副団長の肩書きを持ち、クリストフェル不在の際には騎士団領の全軍を預かるヒューゴ・アールトと言う人物である。

 ヴェスタラにおいては、騎士団長には副団長の任命権がない。騎士団長同様、皇帝自らが指名した人物が就任することになっている。これは、帝国最大の軍事力とそれを支える領地の双方を預けると言う都合上、副団長は騎士団長の部下ではあるが、騎士団長に異心ある時にはそれを制する役割があるためである。

 しかし、ヒューゴは今回の微妙なクリストフェルの動き、判断に対して何の告発も行っていない。それどころか、こうして作戦行動に参加している。それは、彼自身のための判断である。すでに皇帝の威光に陰りが見えてきた証拠であろう。告発することよりも、騎士団長に迎合する方が保身につながると言う思考が成立しているのである。


 実際のところ、クリストフェルの腹心と言う意味では、レールム駐屯部隊長ベール・エストマンほどの信頼を得てはいない。だが、クリストフェルのヒューゴに対する評価そのものは高い。長年の信頼で叶わないなら、ヒューゴは実績と実力によって、本来の意味でのナンバーツーにのし上がるまでであった。


 ヒューゴが話しかけた女性は女帝を名乗るレーナ以外では、『陛下』の敬称が用いられる唯一の女性である。皇后エスナ。先帝アンデルス一世の皇后であり、その忘れ形見の一人、アストリッド大公の母である。アンデルス帝が崩御したとは言え、推戴された複数の皇帝の誰からも、皇太后の称号は与えられておらず、皇后の称号はそのままの状態であった。


 だが、それだけではない。


 皇后エスナは元はブレーキング公領の出身、それもマルティン・アンドレセンその人の娘である。


「お気遣いありがとうございます。しかし、私はこれから懐かしの故郷に赴こうというのです。心踊る気持ちはありますが、疲れなどはありません。ああ、アストリッドはまた寝てしまいましたね・・・」


 大きな馬車の中には四人の護衛の兵士と、ヒューゴ、エスナ、そして、アストリッドとアストリッドの乳母だけがいる。馬車と言ったが実際に引いているのはトナカイ。また、車輪ではなく大きなそりのある板が取り付けられていた。輸送用の橇である。


「多少吹雪いてはおりますが、予定通りの時刻にはたどり着けそうです。ポッテン公とシャウマン伯も順調に道を進んでいることでしょう・・・」

「はい。心配しておりません。あなたも、ベール殿もクリストフェル殿が信頼を寄せる方々ですから」


 若い・・・割には無表情で、歳相応の感情すらないように話すエスナ。息子と二人になった時だけに見せる笑顔を知っているのは、同行しているアストリッドの乳母だけであろう。




 ブレーキング公領には都市と言えるほどの街はない。それぞれの部族がそれなりに大きい部落を形成していることはあるが、貨幣経済と無縁とは言えなくとも、商業はさほど発展しておらず、街と言えるほどのものを形成する文化はなかった。城はあくまで軍事的な拠点と政治的な中心であるだけである。よって、そこにいるのは兵士たちと、公爵の代理として合議制で公領を統治する部族長達だけである。


 それとは別に、そのブレーキング城にたどり着くための唯一の経路である一本道には、巨大な門を備えた関がある。両側に断崖絶壁が迫り細くなっている箇所に設置されている。ここがブレーキングにとっては軍事的に最も重要な拠点であった。通称ノキア関砦。幾多の反乱、ヴェスタラ軍の進行がありながら、この関より先に侵入されたことは一度もない。

 マルティン・アンドレセンが降伏に追い込まれた時も、この関から打って出たヴェスタラ本領内での大敗があってのことであった。



 そのノキア関砦は、城とは対照的に空気が張り詰めていた。


 ノキア砦の駐屯部隊は五千ほどだが、うち二千はレールまでの街道のうち、ブレーキング領内までを確保するために出撃している。その街道確保に向かった部隊からの定期的な連絡がここ数日ないのである。

 天候は良好とは言えないが、ブレーキング公領では当たり前といって言い程度の吹雪でしかない。連絡が滞るような状態ではないのだ。ノキア砦の駐屯部隊長はマルティンの信頼厚い気鋭の族長である。


 まだ、若者と言っていいその男の顔から眉間のシワがしばらく消えていない。年長の部下たちのように、伝令がサボったとか、途中で事故にでもあったのだろうとか、楽天的な無責任な憶測など到底出来るものではなかった。


「このノキア関砦は十倍の兵力を以てして攻め落とすことは叶わなかったのですぞ?まして今は冬。ヴェスタラ軍も冬に攻めこんできたことはありませぬ。ブレーキングの気候に耐えられる軍隊など我々以外にはスカーディナウィア存在しないのですからな」


 そう言って、暖を取るための酒で顔を赤らめている初老の副部隊長にはいらだちを禁じえない。たしかにノキア関砦は今のところ難攻不落である。だが、難攻不落であった理由は、常にその時その時の守将が必死の働きで防いでみせたからである。経験不足の自分と楽天家の副部隊長だけという人材枯渇の状態でいったいどうやってここを守りきれるというのか。


 若者は少し神経質になっていたかもしれない。


 例え、ノキア関砦を突破できうる大軍を派遣し、それが成ったとしても、ヴェスタラ側に取ってはそれだけの意味はない。マルティン・アンドレセンの本領を攻め落としたところで、帝都を奪われたヴェスタラ貴族たちは片田舎のしかも極めて劣悪な生活環境の地域を得られるに過ぎないのである。ブレーキング公領はブレーキング人が済むべき土地であり、それ以外の何人にとってもそれほど魅力のある場所ではない。少なくとも、真冬の強行軍と言う無理をしてまで、攻め取る理由は彼らにはないのである。


 少なくとも、『ヴェスタラ帝国軍』にとっては・・・



 若者は水筒に入れた酒を一気にあおった。体を内側から温めねば命をつなぐことも難しくなる。それがブレーキング公領であった。


「あれは・・・・?」


 関城の城壁の上からヴェスタラに続く街道に目を向けたときである。吹雪であるからあまり遠くまでは見えない。はっきりとは。だが、ぼんやりと小さな光りが見えたような気がしたのである。


 それが、少しずつ、数を増やしていった。


「ふ・・・んっ、副部隊長!来たぞっ!」


 一瞬、酒を吐き出しそうになった部隊長の若者はそれを飲み下してから叫んだ。


「へ?何が来たんですかな?ああ、伝令ですか?」

「違うっ!敵だっ!敵の軍勢が近づいてきているっ!!!」

「は・・・何を・・・ん???」


 ゴッ!


 若者は副部隊長を殴り倒した。暖を取るためならまだしも、軍勢を指揮する者が泥酔するほど酒を飲んでいていいはずがない。年長者として立てて来たが、今は役に立たない老いぼれの部下でしかなかった。


「総員配置に付けっ!それから城に伝令を向かわせろっ!」


 副部隊長以外の部下たちも年長の者は反応が鈍かった。だが、密かに若年の部隊長を慕っている末端の若い兵士、それもまだ重大の少年兵たちは動きの鈍い年長者を蹴飛ばして動き出していた。

 

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