そして隣に
話している間に辺りは薄暗くなってきた。時計を見るともう5時だ。
「あっ、明日の勉強しなきゃ」
ひびきは机の上の本立てから教科書やノートを取り出してイスに座った。リョウは隣に立ったままそれを見下ろしている。
「あ、電気」
立って行ってドアのそばにあるスイッチに手を伸ばした。
「いてっ」
「え、どうしたの?」
パッと部屋の中が明るくなり、しゃがみこんでいるリョウの髪が光っている。
「いや、大丈夫だけど。そのイスにぶつかったんだ」
リョウはドレッサーのイスを指さした。
「そういえば、私はさっきたかしの部屋で、あなたを通り抜けたわよね」
リョウは足をさすりながら立ち上がった。
「そりゃ、俺は霊なんだから」
「じゃ、なんでイスにぶつかるの?そういえばコンポの音量つまみだって」
「あ、説明してなかったっけ」
リョウは死んでいるのだが、寿命の神の力でまだ半分は死んでいないという中途ハンパな霊なので、動物は通り抜けるが、動かない物は通り抜けることができない。
「だから、音量つまみも触れたってわけ」
自分で説明しながらリョウは考えていた。なんだか本当に変なことになっちまった。
しかしひびきはふーんと納得した。この子、なんなんだ、まったく。危なっかしいなぁ。
とその時、誰かが階段を上がってくる音がした。隣の部屋のドアが開き、パタンと閉じたかと思うとまたすぐ開いた。
「姉ちゃん、俺の部屋入っただろ」
ノックする音とともに、たかしの少しむくれた声がした。ひびきはドアを開けた。
「俺のCD、勝手に聴いただろ」
中学2年生のたかしは身長ではすでにひびきを抜いていた。が、ひびきを見下ろす顔はまだ幼い。
「あ、ごめん、あの、ちょっと」
ひびきは反射的に自分の左側を隠そうと、両手を左に動かした。
「なにやってんの?」
「え、あ、そっか。見えないんだっけ」
「何が?」
「あ、なんでもない。あの、CDごめんね」
ひびきは愛想良く笑いながらドアを閉めた。たかしはあきれたように首をかしげて、部屋へ戻った。
「あー、びっくりした」
「別に普通にしてればいいんだって。俺は見えないんだから」
うなずきながらひびきは思っていた。本当に幽霊なんだ。私にはこんなにはっきり見えるのに。
「どうしたの。勉強しなくていいの?」
「あ、そうだった」
ひびきは忙しく机についた。けれど、左側が気になって身が入らない。教科書を読んでいても、ノートに書いていても、視覚の端にジーンズのベルトが入っている。勉強しているふりをして、ひびきはいろいろなことを考えていた。これってすごいことだよね。あんなにたくさんの女の子が憧れてたアイドルが私にしか見えないなんて。そのうえ私としゃべって、私だけに笑いかけてくれるなんて。
夕食に呼ばれてテーブルについたひびきは知らずに顔をほころばせていた。食べ物がおいしそうに見えたのも久しぶりだった。
「なあに、何かいいことあったの?」
母はひびきに尋ねた。
「姉ちゃん今日、変なんだよ」
たかしが言った。まだCDのことを根に持っているらしい。
「明日でテスト終わりだから」
ひびきはそう答えて、左隣を見た。リョウが笑っている。
「何見てんだよ。今日ほんとに姉ちゃんおかしいよ」
「そんなことないわよ」
たかしがあまりしつこいので、ひびきも少しムッとした。最近のたかしは反抗期だ。以前は「お姉ちゃん、お姉ちゃん」とひびきの後をついてまわったのに、今は面倒くさそうにひびきを見て、時々トゲのあることを言う。
二人の雰囲気を和ませようとしてか、母は話題を変えた。
「もう、勉強はだいたい終わったんでしょ」
「ううん、明日は数学があるから大変なの。今日まで寝ないでがんばろうかと思って」
ひびきと母の関係は親子というよりも姉妹といった感じがする。実際、母は年より少し若く見え、小柄でひびきと身長はあまりかわらない。
仲のいい、普通の家族だな、とリョウは思っていた。弟は年相応に反抗期、姉は勉強が得意でないながらも努力はする優等生タイプ、母親も学生のころこんなふうだっただろうと想像できる。父親は皆の食事が終ったころ、少し疲れて帰って来るだろう。本当に普通の一般的な家庭の食卓になぜ自分がいるのか、リョウはまだ信じられない気がしていた。
「ひびき、問三わかった?」
数学のテストが終わり、麻里がひびきの席へやってきた。ひびきはそれに気づかずにぼーっとしている。
「呼んでるよ」
リョウの声にひびきははっとして振り向いた。
「どうしたの?ぼーっとして」
麻里はそう言いながらひびきの前の席に座って、問三の解答法をあれでもない、これでもないと話し始めた。
麻里が何を言っても、ひびきは上の空だ。数学のテストも何をどう解いたのか覚えていない。
「ひびき、お風呂入んなさい」
昨日の夜、母に言われて、服を脱ごうとしてハタと気がついた。
「ねぇ、ずっと隣にいるんだっけ」
小声でリョウに聞く。
「ん、まぁ、隣接霊だからねぇ」
リョウはすまして答える。
「見ないでよ」
「見ないよ」
心外だというふうにリョウは言った。今日初めて会った女の子のことなど、リョウにはあまり興味がないのだ。それでもひびきにしてみれば一大事である。しばらく考えていたひびきは、タオルを一枚取り出した。
「こんなことしなくたって見ないって」
湯船の中、ひびき以外の人間が見れば、ひびきとその頭の隣に固く結ばれたタオルが宙に浮いていることになる。
「いい考えでしょ。動かないものは通り抜けないんだものね」
ひびきはタオルで目隠しされたリョウを見て、楽しそうに言った。けれどひびきの鼓動は早かった。
「ねぇ、ひびき聞いてる?」
麻里がひびきの顔をのぞきこんだ。
「あ、え、ごめん、何だっけ」
「もう、ひびき今日おかしいわよ。どうしたの。なんかあった?」
心配そうな麻里にひびきは笑顔で首をふった。
「ううん、なんでもない。ちょっと昨日寝てなくてぼーっとして」
リョウの事故のことがあってから、麻里はひびきのことをとても心配してくれている。
「今日さ、試験終了を祝って、パフェでも食べに行かない?」
麻里は明るくそう言った。
「いいね、行こう行こう」
ひびきも笑って答えた。