そして運命は‥
「紙と鉛筆貸して」
突然リョウが言った。
「なんに使うの?」
「いいから貸して。大きめのちゃんとした紙がいい」
ひびきは鉛筆と美術で使った画用紙をリョウに差し出した。リョウはひびきに背を向けながら机で何か描き始めた。
「何?」
「見たらダメ。できあがったら見せてやる」
子供のように言いながら、リョウは何か描いている。ひびきは首をかしげて、期末試験の勉強を始めた。もうすぐ期末試験。リョウが亡くなった日が来る。一年が経つ。
あの後、リョウはチョコを受け取ってくれたが、何も言ってくれなかった。ひびきの心に暗い影がさしていた。
いよいよ、リョウの最後の日。土曜日の午後、二人はもう一度あの河原へ行った。三月の川風はまだ冷たかったが、空は一年前のあの日のようによく晴れていた。草地はまだ、しわがれた薄茶の草で覆われていて、所々に緑が顔を出していた。寒いせいか、河原にはひびきとリョウの姿しかなかった。
「明日か」
リョウが言った。ひびきは黙っていた。
「なんか、あっという間だったな」
リョウのいつもの口調にひびきは泣きそうになっていた。
「一年間どうもありがとうな」
リョウは頭を下げた。ひびきは泣くのをこらえようとして、口をへの字に曲げていた。
「楽しかったな」
リョウもそう言って黙った。ひびきは泣き出した。
「‥ひびき」
ひびきは何か言おうとしたが、しゃくって声にならない。
「泣くなよ」
リョウはそう言うしかなかった。こんなことになるなんて。一年前のあの日には想像もしなかった。
「リョウ、‥忘れないから」
ひびきがやっとつぶやいた。
「絶対忘れないから」
ひびきはまた泣き出した。両手で涙をふいているひびきの顔にリョウの顔がふわりと近づいた。
「!」
「ま、ファーストキスぐらいいただかないと、割に合わないからな」
触れるはずのないキス。それがリョウの最後の挨拶だった。
「ひびきは、ひびきらしく生きろよ」
照れ隠しのようにリョウはそう言った。人差し指を立てて眉間にしわを寄せて、難しい顔でまた言った。
「だまされんなよ」
ひびきは泣きながら笑った。空は高く青く、川は広く流れていた。
次の日の朝、ひびきは起き上がって左隣を見た。
「リョウ‥」
呼んでみても、リョウの姿はどこにもなかった。リョウが寝ていたはずのベッドの上を触ってみる。白いシーツはしわばかり寄って冷たかった。なんだか、最初から誰もいなかったような気がした。
昨日ずいぶん泣いたせいか、涙は出なかった。ひびきはベッドから下りて、着替えようとした。
ふと、机の上に何か置いてあるのに気がついた。大きめの画用紙だった。のぞきこんでみると、そこにはひびきとリョウの並んだ姿が、鉛筆のデッサンで見事に描かれていた。
右下の方に何か字が書いてある。
“少し早いけど、バレンタインのお返し!サンキュ!!”
俺、天才かもしんないぞ、そう言って笑ったリョウの顔が思い出された。ひびきの目にみるみる涙があふれてきた。
「リョウ」
何度も名前を呼びながら、ひびきは泣けるだけ泣いた。
数日後、ひびきの部屋のドアがノックされて、たかしが顔を見せた。たかしは姉の横顔が少し細くなったことに気づいていた。
「姉ちゃん」
たかしは手に封筒を持っていた。
「あいつ、消えちゃったんだね」
ひびきはうなずいた。
「姉ちゃん、俺、高校受かったから」
たかしは封筒を上げてみせた。
「そう、おめでとう」
ひびきは穏やかな笑顔でそう言った。
ひびきは、ベッドの右端に寄って寝るくせがしばらく取れなかった。お風呂でも、つい白いタオルを取り出してしまう。ようやくベッドの真ん中で寝られるようになった頃、桜が咲いて、ひびきは三年生になった。
新学期の最初の日、新しいクラスで生徒は出席番号順に席に着いていた。ひびきは窓際の席で、ほおづえをついて窓の外を眺めていた。
「ひびき!」
麻里の声がした。ひびきの隣の列の前の方に座っている麻里が、興奮した様子で教室の後ろの戸口を指さしている。ひびきはゆっくりとその方を見た。
各務野だった。戸口で少しためらいながら立っていたが、やがて一歩を教室に踏み入れた。各務野はひびきの列の一番後ろの席に腰を下ろした。ひびきはもう一度麻里を見た。麻里は赤い顔をしている。ひびきは笑ってうなずいた。
窓からはすがすがしい春風が教室に吹き込んでいた。
運命はゆっくりと、しかし確実に変わっていく。
完