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スマホの画面に映ったのは、夜のオフィス街。
軍本部の高層ビルの最上階、窓の外には東京湾が見える。静かで、どこまでも平穏なはずの光景だった。
だが、氷室 凪は、その平穏を割る異質な違和感を、内側から感じていた。
指先がかすかに震えた。脳ではなく、もっと深く――魂の奥から、何かが削られていく。
生きている実感ごと、自分を構成するものが喰われていくような、重く冷たい感覚。
「……魂、か」
低く絞り出すような声。
この時代、霊障、呪術、怪異、ありふれている。
だが、魂そのものへの干渉は、今まで確認されたことがなかった。
この分野は禁忌だ。
科学も魔術も手を出すことを禁じられている領域。
それが今、現実に起きている。
氷室は立ち上がり、乱れたネクタイを締め直す。
表情は変わらない。ただ冷静に、状況を整理する。
――人格への干渉が進んでいる。
意識の奥底に、別の存在の「輪郭」が混ざり始めていた。
最初は微かだったが、今ははっきりと自覚できる。
「……対策の、取りようがないな」
それでも、最後の抵抗は試みた。
氷室は己の記憶に結界を張る。
幼いころからの出来事、軍での日々、戦場で流した血と硝煙の記憶。
これだけは、何者にも喰わせまいと。
だが、限界は見えていた。
人格の侵食は止められない。ならば――いっそ、その存在ごと取り込んでしまう。
己と統合する。それが、他人に被害を出さずに済む唯一の方法だった。
氷室はスマホを取り出し、唯一の親友――東堂 一誠に電話をかける。
『ん、凪か? 夜分にどうした――』
一誠のいつもの陽気な声が聞こえた。氷室は静かに告げる。
「魂を喰われている」
『は?』
「人格に干渉されている。おそらく、もうすぐ俺は俺でなくなる」
一誠の声が途切れる。
だが氷室は淡々と続けた。
「相手は正体不明だ。打つ手はない。だから、取り込むことにした」
『お前、何言って――!』
「混ざる。変わる。……気に入らなかったら、殺していい」
『おい、ふざけんなよ、凪! そんな簡単に――』
声が震えていた。
一誠は、氷室がどんな状況でも取り乱さないことを知っている。だからこそ、余計に動揺する。
氷室は、かすかに微笑んだ。
「お前と話せて良かったよ」
その瞬間、侵食が限界を越えた。
氷室の瞳が、わずかに揺らめく。
だが、最後に交わした一言は、確かに氷室 凪その人のものだった。