4話 消える街の灯と厄災獣の襲来
かつては小さいながらも、温かな暮らしが根づいた町だった。朝にはパンの焼ける匂いが漂い、広場には旅の商人と子どもたちの声が響いた。だが今――すべては遠い記憶だ。
通りに人影はない。
開け放たれたままの商店の戸口には、張り紙だけが風に揺れている。
「本日閉店」「安全が確認されるまで休業」「祈りを」――。
警備隊は町を巡回するものの、魔獣に対して為す術はない。忌避剤をまき、熊除けの鐘を鳴らすように鉄板を叩き、大きな音で脅すばかり。誰もそれが有効だとは信じていない。だが、それしかできなかった。
「通報されたらとりあえず音を出す。それで魔獣が引いたら“安全確保”。出ていかなかったら“警戒継続”。」
若い警備隊員は虚ろな顔でそう言いながら、風に飛ばされそうなヘルメットを直した。
町の者は皆、家から出なくなった。
日中でも窓は閉ざされ、明かりは消え、通りはまるでゴーストタウン。
かつての笑顔は、どこにもなかった。
「ここも、もう終わりさ……」
古びた宿屋の主人は、ぽつりとつぶやいた。
辺境都市スナグワは、廃れゆく都となった。
魔獣が牙を剥かずとも、信頼と生活が崩れれば、人はそれだけで壊れていく。
そして“何も起きていない”のに、すでに街は死につつある。
***
はじめに気づいたのは、老いた薬屋の主だった。
「……最近、虫がいないな」
棚の奥で干していた薬草が、虫に食われず綺麗なまま残っていた。
春のはずなのに、ハエや蚊が一匹も飛んでいない。
路地裏で走り回っていたネズミたちも、ぱたりと姿を消していた。
それに気づいた者は他にもいた。
廃屋に住み着いていた野良猫が、いつの間にか姿を消している。
森から流れてくる川辺では、小魚も見かけなくなった。
「何かがおかしい」と誰もが思ったが、それを声に出す者はいなかった。怖かったのだ。
町の外では、少しずつ魔獣が“異常”を見せ始めていた。
通常なら群れないはずの種が集団で行動し、普段は夜にしか現れない個体が昼間にも町をうろつくようになっていた。
皮膚が黒ずみ、目が爛れて光る獣――
それは、これまでの魔獣とは明らかに異質だった。
そんな中、引っ越せる者はとっくに町を去っていた。
年金暮らしの老夫婦、身体の弱い母子家庭、家を出られない身寄りのない者たちだけが、町に残された。
人は減り、空き家が増え、夜は灯りもない。辺境都市は死にかけた動物のように静かだった。
数少ない訪問商人が、警戒しながら荷馬車を止める。
「近隣の村もやばいらしい……。夜になると森から“見たこともない影”が出るって。あんたら、まだここにいるのか……?」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
異常は、確実に広がっていた。
そしてそれは、もう“魔獣”という言葉だけでは説明できない「何か」だった――。
***
曇天の朝、町の北端、かつて雑貨屋があった路地でそれは現れた。
見張りの警備隊員が、一発だけ、空に向けて魔導信号弾を放った――が、それを見た者はいなかった。信号は、曇った空の奥で、誰にも気づかれぬまま消えた。
第一発見者の声も、警備の鐘も、誰の耳にも届くことはなかった。
なぜなら、その魔獣は「音」を喰らっていたからだ。
足音がない。咆哮もない。町の空気を切り裂くような、沈黙だけがあった。
異常個体――その巨体は、かつてのクマの魔獣に似ていたが、毛皮は粘土のように黒くただれ、角はねじ曲がり、眼球は白濁していた。
いや、「魔獣に似た」などという形容は、生ぬるい。
それは、獣に似た“災いそのもの”だった。
小さな建物を、瓦礫のように踏み潰して進む。
鋼鉄製の街灯を背中でなぎ倒し、舗装された石畳を、腹の底から腐らせていく。
人々は逃げなかった――逃げるという判断すら遅れたのだ。
それほどまでに、恐怖が理性を奪った。
逃げ遅れた少女を、母親が抱えて裏通りへ走った。
しかし次の瞬間、壁の向こうから突き出した黒い角が、二人を貫いた。
悲鳴はなかった。肉が引き裂かれる音も、血が飛び散る音も、全てが吸い込まれた。
魔獣が過ぎ去った後、ただ静寂だけが残った。
その静寂に、ようやく鐘が鳴る。
「異常個体発見!戦闘配置!市民は自宅から出るな!」
警備隊の声が虚空に響くも、その言葉すら、虚ろに消えていった。
スナグワは、恐怖に飲み込まれた。
これは「魔獣」ではない。
厄災獣――人が自然と命を弄んだ果てに生まれた、裁きだった。
鐘の音が鳴り響いた瞬間、警備隊は散開した。
手には魔導銃。腰には忌避剤。だが、それらはどれも、本来は「魔獣」に対して用いられるものであって、「厄災獣」に対しては、まるで紙細工だった。
「応戦しろ!距離をとれ!正面から撃つな、迂回して背面へ――!」
隊長の怒号もむなしく、最前線の部隊が一瞬で潰された。
音もなく、ただ肉の塊が、建物と一緒に押し潰されていた。血の匂いだけが、街にゆっくりと染み込んでいく。
人々は逃げた。だが、誰もが戸惑っていた。
“魔獣が市中を駆け抜ける”ことには慣れていた。だが、“街そのものを崩壊させながら進む”異常な存在に対して、想定も、心の準備もなかった。
母が子を抱えて走る。老人が転倒し、誰もそれを助けられない。
泣き叫ぶ声。崩れる建物。立ちこめる灰色の土煙――そのすべてを切り裂くように、厄災獣が、音もなく街を這いまわる。
そして、ある家。
老いた女が、薄い布をかけた窓の内側に座り、外を見ていた。
かつては賑わいを見せた大通り。そこを、今は人の皮をぶら下げた異形がゆっくりと這っていく。
彼女の目には、恐怖も悲しみも浮かんでいなかった。ただ、無感情なまなざしで、その“現実”を見ていた。
そのとき、ふと彼女の口が小さく開いた。
「……教団の使徒、最近見かけないねぇ」
かつて毎朝、街角で声を張り上げていた白装束の男たち。
「すべての生命に祈りを」などと、口当たりの良い言葉を並べ、魔獣討伐に反対し、市民の怒りと不安を「偽りの慈愛」で封じていた連中。
だが今、その姿はどこにもなかった。
いつからだろう。気づけば、町から影のように消えていた。
――逃げたのだ。
言葉では救えない現実に、信仰では止められない惨状に、彼らは真っ先に背を向けた。
正義は風に流れた。
その偽りの理念に踊らされ、ハンターを追い出し、魔獣に遠慮した結果が、この廃墟だった。
女の頬に、ひとすじ、涙が落ちた。
それは悲しみでも、悔しさでもなかった。
ただ、すべてが手遅れだったという、どうしようもない「悟り」の涙だった。