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3話 波紋

オルドー・ガレス――辺境都市ラグドレアの老ハンターに下された有罪判決は、

小さな石が湖に投じられたように、ゆるやかだが確実に、大きな波紋となって国中に広がっていった。




最初に動いたのは、ハンターズ・ギルド本部である。

かの組織は、国中に散らばる数百の支部を統括する、自治と独立を重んじる中立組織だ。


ラグドレア支部から上がった正式な報告と抗議を受け、

本部は珍しく「政治的意志に対する公開抗議文」を発行した。


「市民を守るという名目のもとに命を張ったハンターが、

公的命令に従ったにも関わらず犯罪者とされたことは、

我々の存在意義そのものを踏みにじる行為である」


文書は、国の全行政区および王都に送付され、同時に各支部にも通達が下された。



それは、事実上の方針転換であった。


これまで、ハンターたちは魔獣討伐に際して、報酬以上の献身を当たり前とし、

時に“好意”と“誇り”によって無償の対応すら行っていた。


だが――


「今後は、適正な報酬の提示と、

市街地安全確保の責任を共有する法的保証、

および警備隊との協調・信頼関係の明文化が無い限り、

討伐任務は各支部の自由裁量とする」


ギルドは、そう明言した。


この通達は、王都にも波紋を及ぼす。

というのも、王都周辺でも近年魔獣の出現が増え続けており、

実質的に魔獣対応の第一線を担っていたのは警備隊ではなくギルドの狩人たちだったからだ。


年々増える魔獣、脆弱化する都市防衛、

そして好意の上に成り立っていた関係の限界――

オルドー事件は、それらを露呈させた象徴であった。


かつて、ハンターと警備隊は、

互いに領分を尊重しながら共に市民を守るという理念のもとに並び立っていた。

だが今やその関係は、「誰が責任を負うか」を巡って深い溝を刻み始めていた。


そしてその溝の端で、オルドー・ガレスという名の老ハンターは、

静かに座り、燃え残った炭のような眼で世界を見つめていた。


「俺は、守った。それだけだ。……だが、それじゃ足りなかったんだな」


その言葉は、ギルドの若き者たちの心に、深く静かに刻まれていく。


* * *


王都――かつては魔導技術と剣の力が尊ばれたこの地に、今、新たな“信仰”が根を下ろしつつあった。


その名は《祈りの光教団》。


彼らの掲げる教義は、「すべての生命に祈りを」「すべての存在に平等を」というものだった。


人間、獣人、エルフ、果ては奴隷とされてきた地下の民にまで救いの手を差し伸べ、貴族社会からも一部の理解者を得たこの教団は、急速に影響力を増していった。


“すべての命を大切に”――その理念は美しく、弱き者たちには救済の光に見えた。


だが問題は、“魔獣”もまた「命」であるという教義にあった。


「討伐は殺戮であり、文明の堕落である」


「捕獲した魔獣は、傷を癒し森に還すべきだ」


そう主張する教団の若き司祭たちは、討伐現場に駆けつけ、ハンターの前に立ちはだかり、拘束具を持ち込んでは「無用な殺生をやめよ」と説法を始めるようになった。


一部の都市では、彼らの“穏健派”が行政に取り入り、「魔獣保護施設」の設立が認可された。


ある都市では、捕獲された魔獣ルガ・グロスを教団が管理する保護院で預かることとなった。

警備隊はそれを見届け、「討伐なき対応」の第一歩だと称賛した。だが、数日後、教団は一言の報告もなく魔獣を森に放っていた。


再び街に現れたルガ・グロスは、二人の兵士に重傷を負わせ、結果的にハンターによって討伐された。


それでも教団は謝罪しなかった。


「人が森を侵した罰だ」


「彼らもまた苦しみの中で吠えたのだ」と、詭弁にも似た声明を出しただけだった。


だが、貧民街ではこの教団こそが希望だった。病人を無償で癒し、飢えた者に食糧を配るその姿は、貴族でも王族でもできなかった“実行力”だった。

特に、老いも若きも平等と説くその言葉に、市民の中にも支持者が急増していた。


* * *


魔獣討伐の現場は、もはや戦場ではなかった。混乱の坩堝るつぼだった。


ある村の近くに《ヴォルク=ベア》が現れたと報せが入った日。

駆けつけたハンター隊が陣を組もうとしたそのとき、白衣に身を包んだ教団の使徒たちが馬車で乗りつけ、聖句を唱えながら前に立ちはだかった。


「その命を、討つことなかれ――聖なる咆哮は、試練にして赦しである」


ハンターたちは困惑した。目の前にいるのは、すでに二頭の家畜を引き裂いた魔獣だ。血の匂いに興奮し、牙を鳴らし、唸り声をあげている。だが教団の者たちは、傷一つ負わせることすら拒んだ。


「拘束せよ。討伐してはならぬ」




討伐の命令は、ついに下らなかった。


警備隊は、教団と、彼らを支持する市民の声に抗しきれず、武器を構えることをやめた。

その代わり、市中の数か所に魔獣が好む餌を詰めた箱罠を設置し、「非殺の対応」と称して、ただひたすらに待ち続ける選択を取った。


だが、森から迷い込んだ魔獣は、そんな仕掛けには目もくれなかった。

夜になると、民家の裏庭に忍び寄り、羊や犬を引き裂き、早朝には市場裏の路地に血痕だけを残して消える。


昼間は人の目を避け、倉庫の影や下水の入り口に潜み、夜にはまた現れる。

罠には一向にかからず、警備隊の策は空振りに終わった。


市民は家から出ず、店も軒並みシャッターを閉じたまま。

その一方で、警備隊の兵士たちは遠く離れた広場の屋上から、太鼓を叩いたり鐘を鳴らしたりして「追い払った気」になっていた。


そんななか、赤毛の弓士ライナは、壁にもたれながら溜息をついた。


「……あたしたちゃ、なんのためにいるんだろうね。

討伐もできず、ただ立ってるだけじゃ、ただの飾りだ」


傍らにいた野良ハンター、ガラの悪いひげ面の男――通称“カラスのガット”は、肩にかついだ魔導銃を軽く叩きながら、気だるそうに笑った。


「まぁ、そう言うな。今はな、殺さないのが“正義”らしい。

だがまぁ、いるだけで金がもらえるんだ。しばらく辛抱してくれよ、嬢ちゃん」


その言葉にライナは目を細めた。


「……その金で、何人死ぬと思う?」


答えはなかった。

ただ、夜の帳がまた落ちて、遠くで犬の悲鳴が上がった。


***


一週間の沈黙を破って、ついに魔獣が箱罠にかかった。


夜明けの霧がまだ地を這う頃、警備隊の一団が箱罠を運ぶために現場に到着した。

だが、すでにそこには、一人の使徒が立っていた。

教団《祈りの環》の法衣をまとった若い男は、懸命に罠の錠前を外そうとしていたのだ。


「やめろ、開けるな!」

警備隊員の叫びも虚しく、カチリと錠前が外れる音が響いた。


その瞬間だった。

鉄格子の隙間から、魔獣の血濡れた顎が閃き、使徒の腕に喰らいついた。


「ぎゃあああああっ!」


骨が砕け、肉が引き裂かれる音。使徒は箱罠の中へ引きずり込まれかけ、悲鳴があたりにこだました。


「いかん! 警備隊、ハンターたち――魔獣を殺せ! 責任は俺が持つ!」

警備隊長の怒声が響いた。


銃声が次々に火を噴く。

警備隊の魔導銃十挺が一斉に火花を散らした。だが、それらはあくまで対人用――魔獣の筋肉を裂くには力が足りず、表皮を裂いて怒りを煽るだけだった。


罠の中で魔獣が暴れ始めた。血走った目を剥き出し、鋼鉄の箱罠に体当たりする。

その時――


「狙う!」

赤毛の弓士ライナの声と共に、一本の矢が空を裂いた。


鋭い矢は、魔獣の片目に突き刺さった。咆哮。怒号。衝撃。


魔獣は我を忘れ、狂ったように箱罠の扉に突進した。

軋む音。砕ける蝶番。鋼の扉が吹き飛び、土煙の中に赤い目が光った。


地面に倒れた使徒は、肩を震わせ、失われた手首を押さえながら逃げ出そうとする――しかし遅かった。

魔獣は彼に照準を定め、唸り声と共に飛びかかった。


「馬鹿が……背中を見せたら、追いかけるんだ」

呟いたのは、野良ハンターのガット。

山賊じみた面構えに似合わぬ静けさで、彼は魔導ライフルを肩に上げた。


魔獣は、使徒の残骸を口から落とし、ガットに向き直る。

咆哮。威嚇。だが――遅い。


「――風下、だな」


ガットは、まるで獣の動きを読んでいたかのように、冷静に引き金を引いた。


轟音。紅い閃光。

魔導弾は空気を裂き、魔獣の胸を深く抉った。


巨体が、数歩だけ歩を進め――その場に崩れ落ちた。


静寂。

風が、血の匂いを街へと運んでいった。


ガットは大きく息を吐いた。

その眼には、戦いの喜びも、後悔もなかった。ただ、覚悟だけが残っていた。



***


討伐の翌日、街の広場にて、教団《祈りの環》は静かに声明を発表した。


「この悲劇は、人が自然との対話を怠ったことによるもの。

咎は魔獣ではなく、理解を拒んだ人にある」


その言葉は、凍てついた空気よりも冷たく、討伐帰りの者たちの心に突き刺さった。


矢で魔獣の目を貫いた若き弓士、ライナは、まだ血の乾かぬ戦場を思い出しながら、拳を震わせていた。


「……なら、お前たちが代わりに戦えよ」

怒鳴り声と共に、ライナは地面に矢を突き立てた。

だが、返ってきたのは、沈黙。そして、冷ややかな視線だった。


「魔獣を殺さずに済む方法を、なぜ探ろうとしないのですか?」


「あなたたちは、ただの殺し屋だ」


「血に酔ってるんじゃないか?」


市民の誰かが投げた小石が、ライナの肩に当たった。彼女は振り返らず、それを拾い上げ、ゆっくりと握りつぶした。


ハンターたちは疲れ切っていた。命を張った彼らに待っていたのは、感謝でも名誉でもなかった。

その日の夕刻、仮設の拠点で荷物をまとめる野良ハンターのガットは、警備隊長に言葉を残して去った。


「隊長さん、あんたはよくやってるよ。だがな……金さえ出りゃ魔獣は倒せるが、平和ボケした市民と戦う術は、うちらにはない。魔獣討伐からは手を引かせてもらう。命張っても、背中から撃たれるんじゃ割に合わねぇ」


その背中は、重たい猟銃以上に、失望を背負っていた。


* * *


これを境に、街は急速に変わっていった。

まず、野良ハンターたちが討伐の現場から姿を消した。彼らは金で動くが、信念がないわけではない。だが、踏みにじられた矜持は、金では癒せなかった。


ハンターギルドもまた、「対価と信頼が成立しない地域では討伐は請け負わない」という方針を貫き、いくつかの支部が活動を停止。残ったのは、旧式の魔導銃しか持たない警備隊のみ。


だが――


魔獣の爪や牙を止めるには、彼らの装備はあまりに非力だった。

できることは限られていた。

忌避剤を街角に散布し、大きな音を立てて追い払う。

それだけ。


魔獣は、忌避剤の効果が薄れると夜に再び現れた。

餌を求めて路地を駆け抜け、飼い牛を引き裂き、時には民家の軒下に潜んだ。


市民たちは、夜に出歩くのをやめた。店は日暮れ前に閉じ、子どもは戸を二重に締めた家の中に閉じ込められた。


それでも、誰も声を上げなかった。

なぜなら、その“敵”は魔獣だけではなかったからだ。

討伐を訴えれば、信仰を否定する者として糾弾される。

ハンターに同情を示せば、平和を望まぬ者として名を記録される。


恐怖と沈黙が支配する街。

命を守るための戦場は、もはや前線ではなく、民衆の心そのものに移っていた。


人が“争うべき敵”を見誤ったとき、真に恐ろしいものが街に忍び寄る。

そしてその影は、もう足音を立てていた。





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