花灯りの別れ
桜の開花が宣言されたのは、彼が亡くなった二日後。
病室の窓を眺めれば、口癖のように「どっちが先かな」と呟いていた。私はその度に窘める。
「桜佑。今回ばかりはシャレにならないから止めて」
すると桜佑は謝るわけでもなく、ただ苦笑いをしただけだった。
どうしていつものように「冗談だよ」と言ってくれないの?
自分の名前が嫌いな桜佑は、昔から節目がある度にこう言っていた。『桜と俺、どっちが先に散るかな』と。
高校受験。大学受験。はたまた大事な就職活動の時でさえ、軽快な口調で言ってみせた桜佑。幼なじみである私にしか言えない言葉なのは分かる。何も知らない人に言ったら、怒られるからだ。
皆、真剣に挑む試験や面接に、『散る』だなんて……。冗談でも言ってはいけない言葉だ。まして今回は、病室で。
「自分の命と、どっちが先だなんて……」
嫌だよ。止めてよ、と言い終える前に、涙が込み上げてきた。
「でも、余命宣告を受けてから、今日で三カ月。こうやって起き上がれることも、日に日に少なくなってきているんだ。莉子には平気そうに見えるかもしれないけど――……」
「苦しんでいるのが分かるから、余計に言っているの! そうやって軽口を叩いている時ほど、辛いんでしょう! 一人になりたいから嫌な冗談を言って、遠ざけようとしていることくらい、分かっているんだからね。何十年、幼なじみやっていると思っているのよ!」
だったら今は、優しくしてあげるところなのに、私は……どうしていつもの調子で言ってしまうのかしら。
だけどそれは、桜佑も同じだったらしい。
「莉子……この病室に、俺たち以外いないからって、相変わらず言いたい放題だな。俺の言いたいことが分かるなら、そっとしておいてくれ」
「……そう、だね。恋人でも家族でもないのに、頻繁に来すぎていたみたい」
今まで桜佑に甘えていたけど、幼なじみの領分を越えている気がした。
それでもさ。桜佑に会いたいの。もう会えなくなるって分かっているから、余計に。
でも桜佑は、もう会いに来るな、とばかりに再び顔を、窓に向けてしまった。
「ごめんね。もう来ないよ」
「あぁ。……桜が咲いたら、またな」
「え?」
私の聞き間違い? 美しく咲こうが、話題に上がろうが、桜佑はけして、その木の名前を口に出したことはなかったのに。『桜』だなんて……。
病室を出る時、再び桜佑の方に視線を向けたが、やはり窓の外を眺めていた。そこに桜なんて……ないのに。
***
消毒液が充満している、白い建物。野村桜佑、と書かれたプレート。白い扉。
もう来ない、と言ったのに、結局来てしまった。おばさんから、桜佑の病室が移されたことを聞かなければ、本当にそうしていただろう。だけどその意味を知らないほど、私は幼くなかった。死期が近づいた病人に対して、病院側がどのような処置をするのかを。
余命宣告の日にちを過ぎたことは知っているけど、前にあった時は、深刻そうな状態ではなかったから、私もそんな風に受け止めていた。桜佑はまだ、大丈夫だと。心のどこかで信じていた。信じていないと、会えなかったから。
この扉の向こう側の貴方は今、どんな姿をしている? どうか。あの時と変わらない姿でいて。
願いを込めて開けた室内で見たのは、機材に囲まれた、桜佑の姿だった。思わず息を呑む。そんな僅かな音さえも、桜佑の耳に届いたのか。いや、扉の音を聞いたのだろう。起き上がることもなく、私の方へ顔を向けた。
あの日、別れ際には向いてくれなかった、桜佑の顔。数日しか経っていないのに、どうしてそんなにやつれているの?
口を開こうとすると、どうして、どうして、という言葉しか脳裏に浮かんでこなかった。そんなことを言えば、桜佑が困るのに、どうして……。
「莉子? もう来ないんじゃなかったのか?」
「っ! おばさんから、病室が移ったって聞いて……」
「あぁ、それで。驚いただろう?」
「うん。その、大丈夫、なの?」
な、何を言っているの? こんな状態の桜佑に対して、私は……!
「まぁ、なんとか生きている、ところかな」
「ごめんね」
「何が?」
「……桜がね、もうすぐ咲くって。明日には開花宣言が出るかもしれないって、テレビで言ってた」
「そうか。なら、俺の勝ちだな」
「え?」
今まで冗談で聞いていたから、勝敗の条件を知らない。どっちが先に『散る』かどうか、でしょう? 『咲く』方じゃなくて。
だけどそれを桜佑に聞くのは怖い。先に『散る』方が勝ちだとか、聞きたくないからだ。鼻の先がツンと痛み、目に涙が溜まっていくのを感じた。瞬きする回数が次第に増えていく。
ダメ。そんなに瞬きをしたら、零れてしまう。
桜佑は逆に、目を閉じて小さく笑った。
「咲いたら、見てくれよな。俺の分まで」
私は桜佑に駆け寄り、彼の手を握った。もう涙のことなんて気にしている場合ではない。
「桜佑も見ようよ。一緒に。それでまた、冗談を言って?」
少しだけ上がった口元が、次第に下がっていく。
「桜佑?」
握っていた手の感触も、体温さえもなくなり……ピーという音だけが室内に響き渡った。
***
「気象大の職員が、桜の標本木の観測をし、六輪の開花を確認。開花の発表基準は五、六輪とされているため、午後にも開花宣言がされると――……」
テレビから聞こえてくる、アナウンサーの声。窓から見える景色の中には残念ながら桜がないため、本当に開花したのかは、確認できなかった。そもそも、標本木で六輪なのだ。
「目の前に桜があっても、咲いているかどうかなんて、分からないけどね」
それでも私には、咲いた桜を見に行かなければいけない。桜佑が嫌いな桜を。桜佑との約束を守るために。
「見るよ。見に行くから、桜佑も……約束だからね」
透き通る青い空の向こう側で、一緒に桜を見ようね。
天井を仰ぎ、涙が零れないように願った。けれど窓から差し込む春の光が、カーペットを濡らす涙を静かに照らした。
***
開花宣言から一週間後。まるで天気も待ち望んでいたかのように、陽気な日々が続き、一気に満開になった。
その前に桜を見に行きたかったのだが、年度末だったお陰で、桜佑との約束をなかなか果たせずにいた。けれどそれも、桜佑はお見通しだったのか、ようやく時間が取れるようになった頃に、桜は満開を迎えた。
「とはいっても、夜だけどね」
夕飯を作るのが面倒で、実家に寄った帰り道。マンションへ向かう道に、桜並木があるのだ。幼い頃、常に桜佑と一緒にいた時は、敬遠していた道だけど。今となっては、こんなにも都合が良かった。
「この道を通る度に、桜佑のことを思い出せるから」
三月の末に生まれたことを嫌がったと思ったら、今度は「俺が一番若いんだからな」とえばり出して。
「だけど最後まで、桜を好きになってくれなかったよね」
子どもは、ほんの些細なことでも、揶揄うネタにしてしまう。名前に桜が付いているだけで、「女みたい」だと言われ、「お前にはピンクがお似合いだ」とガキ大将みたいな男の子に言われて喧嘩。なんていうのは、日常茶飯事だった。
そのどれも、桜佑は負けなかった。ガキ大将に負けないくらいに鍛え、喧嘩でも、スポーツでも圧倒させる強さを身につけたのだ。
だから、傍に私がいてもいいのかな、と思うくらい、桜佑はモテた。私はそんな前から桜佑のことが好きだったのに……。
「誰にも負けないくらい、好きだったのに……」
結局、告白もできずに、桜佑は旅立ってしまった。私ができるのは、もう一つしかない。この桜を見ること。桜佑も知っている、この桜たちを。
「できることなら、桜佑と一緒に見たかったけど。ううん、きっと桜佑も見ているよね」
夜でも、桜は満開で美しく、まるで仄かに光っているようにも見えて、桜佑がそこにいるような気がした。
もう長いこと、一緒に見ていないけれど、約束したんだから。『咲いたら、見てくれよな』って。
「桜佑の分まで、今、見ているよ!」
私は桜に向かって両手を広げた。叫んで、溢れそうになる感情を、無理やり体全体で表現しなければ、その根元で蹲りそうだったからだ。
夜道で女がそんなことをしたら、格好の餌食になる。それなら一層のこと、体を動かした方がマシだった。
桜佑がそれで自分の身を守ったように。
「私も頑張るよ。だから……またね、桜佑」
頬を涙が濡らした時、まるで慰めてくれるかのように、温かい風が花びらと共に私の周りを舞った。
まだ散るには早いのに。桜佑との勝負に負けた、桜の細やかなお返しなのかな、と思った。