幻想と現実
まだ、私が小さい頃のこと。私の母は余り料理が得意じゃなくて、しばしばお弁当の配達を頼んでいた。そんな中で、とあるファミレスのデリバリーで毎回うちにやってくる宅配の人を、私は好きだった。
どんな雨の日でも、寒い日でも笑顔でいて、小さな私にも丁寧に対応してくれた。いつしか私は、母がお弁当を注文した後、その人が私が住んでいたマンションの通路を歩いてくる音を楽しみにしていた。
だからだろうか。いつしかその人は来なくなったけど、私は種類構わず宅配の人に好感を抱く癖がある。彼らはみんな良い人だ、というようなことを未だにぼんやりと思っている。
そんな私もいつしか大学生になり、一人暮らしをはじめ。ようやく生活に慣れてきた頃、バイトを始めた。バイト先は私の住むマンションの傍にあるお弁当屋さん。勤務動機は、そのお弁当屋さんが宅配業務をしているから。
「はい、お電話ありがとうございます。HMSの柿崎です。はい、お弁当の宅配ですね、ありがとうございます。それではご注文をお伺いいたします……」
私は電話先から聞こえてくるお弁当の注文を手元の伝票にメモしていく。ついで住所を聞き、簡潔にメモ。お弁当完成の時間と移動時間を計算する。
「いまからですと30分後くらいのお届けとなりますがよろしいでしょうか?」
了承の声を聞き、お客さんが電話をきるのを待ってから、受話器を置く。そして、厨房に移動。ちょうどピークが過ぎてお客さんがいないため、2人の従業員は厨房内の掃除をしている。
「宅配の注文で、30分後に幕の内弁当を3つです。場所は山本三丁目です」
私の言葉に、2人は掃除の手を止めた。はい、ありがとうございます、というマニュアル通りの対応が返ってくる。そのまま2人はお弁当作りを始める、のだけど。
「山本三丁目かぁ……」
従業員の一人がふとため息をつく。私とほぼ同じ頃にバイトを始めた大野君。本日の配達要員。
「時間足りなかった?」
私の問いに、大野君は首を横に振った。ライスよろしく、といいながら大野君は店の入り口のほうに目を向ける。自動ドアの向こう側は土砂降りの雨。大野君はさっきまでこの雨の中を配達に行っていたのだ。
「遠いんだよなぁ、三丁目。折角体が乾いてきたのに、またびしょ濡れかと思うと、鬱だ」
彼は今日の宅配の間ずっと愚痴を零していた。彼との勤務を続けて数日で、私の「宅配の人はみんな良い人だ」という妄想をかくも簡単に崩し去った。注文の内容とか、お客さんの態度とか、彼は色々な不満を零す。
私がレジや電話の応対などの接客を中心に行い、大野君はお弁当の調理と配達を行う。さらには同い年の私達はしばしば同じ時間のシフトに組み込まれるのだけど、彼が愚痴を零さなかったことはない。
私がライスを盛った容器に、大野君は次々とおかずを盛っていく。文句を垂らす内容とは裏腹に、綺麗な盛り付け。無意味に器用だ。
「山本三丁目のどこ?」
「ロマネスクマンション。行ったことある?」
「あぁ、あるある。まったくローマっぽくない名前負けマンションね」
私はレジ側に回り、大野君が仕上げたお弁当を袋に入れ配達の準備をする。3つの幕の内弁当を作り上げた大野君は厨房から抜け出し裏へと回る。
私がお弁当を入れた保温バックを裏へと持っていくと、雨合羽を着て宅配の準備を整えた大野君。
「ずぶ濡れでさ、着ても着なくても一緒じゃないかと思うね」
「愚痴はいいから、行ってらっしゃい。あと20分」
「そんだけあれば余裕だよ、じゃ、行ってきます」
保温バックを受け取ると、大野君は外へと出て行った。バタンという音をたてて閉じたドアを見つめながら、私はため息をつく。職場自体はアットホームでいいのだが、それでも私は少しこのバイトを始めたことを後悔していた。このバイトを始めなければ、せめて大野君と出会わなければ、私――柿崎悠子――の幻想は保たれていたと思うから。