一緒に、来て…
────────ザザッ…の皆さま、ザザッ────ザザッ…ナイトラジオ──ザザッ…今日は──ザザッ…さんからのお便りを紹介します──」
暗く、狭く、長いトンネルを抜けた先も、暗く静謐に満ちた森が続いていた。
夜の林道には、他の車は一台も通っていない。それどころか、生き物の気配すら感じない。
車のライトはハイビームのままに、ハンドルの左にあるレバーを一段階下げた。
外なだけありトンネルの中のような圧迫感は感じないが、それでも背筋は氷を押し当てられているように冷たかった。
ノイズ混じりだったラジオにはようやく電波が届き、砂利を踏みつけたような不快な音は消え去っていた。
ラジオパーソナリティーの声色がオープニングトークの時の明るく軽快な声とは一変し、少し低く落ち着いた声になった。
そして、リスナーからのお便りを読み始めた。
「これは、私と友人の二人で、海に行った時の話です」
いつの間にかBGMも、波の音へと変わっていた。
本来波の音は、母親の胎内音によく似ているため、安心感を覚えリラックスできると言われているのに、今はそんな気持ちに全くなれない。寧ろ、吸い寄せられるような恐怖さえ覚える。
俺は少し強くハンドルを握り直し、車内に満ちた波の音とラジオパーソナリティーの声に耳を傾けた。
*
その日は、朝から空には重たい雲が掛かっていました。梅雨明けも発表され、久しぶりに友人とも休みが合い、意気揚々と出掛けようとしていた矢先に、今にも雨が降り出しそうな曇り空。
友人からの第一声は「お前は雨男だから、仕方ねぇな」でした。
それでもまぁ、友人と会って話して飯を食べていれば天候なんて直ぐに関係なくなっていました。
友人とは高校時代からの付き合いで、かれこれ十年以上の仲です。
だから、お互いがどんな性格であるか手に取るように分かります。
大まかに言えば、俺は慎重派で友人は実行派です。
だからこの日も、友人の突然の思いつきで急遽、海へ行く事になりました。
しかも友人の行きたいと言った所は、毎年自殺者の相次ぐ海岸でした。
少し辺鄙な土地にあるせいか、海流のせいか、その場所の特性なのか、海へ身投げをする人が毎年あとを絶たないとの事でした。
「夏なんだから、肝試しって事でさ。どんな場所か行って確かめてみようぜ」
そんな軽口を叩く友人に「マジでやばい場所だって聞くけど…」と、少しの抵抗をしましたがそんなの馬耳東風です。
結局押しに負け、友人の運転する車で向かう事になりました。
後悔先に立たず。『アドバイスナイトラジオ』に手紙を書いている今の俺には、その言葉の重みが鉛のようにのしかかっています。
あの時、もっと強く止めていればと。
薄暗い林道を抜けた先に、その海岸はありました。
かなり覚悟して来た割には、案外普通の海岸で少しだけ拍子抜けした感はありました。
それでも、昼過ぎだというのに何だか暗いような、光の届いていないような、良く言えば静かな海岸でした。
友人も「なんだ、何もねぇじゃん」と少しガッカリした様子でしたが、直ぐに気持ちを切り替えたらしく、海に向かって走り出していました。
年甲斐もなく、波打ち際で成人男性二人がはしゃいでる姿は少し痛い気もしましたが、周りに人の気配はありません。
思う存分遊び尽くし、さて帰ろうかとした時「うわっ!」っと友人がいきなり叫び声を上げました。
普段は聞かない硬い声に何事かと駆け寄ると、友人は怖い顔で自分の足をじっと見ていました。
「どうした…?」
「…いや、これ、、、」
そう言って示した先には。
「…なんだよ、この跡…」
足首の少し上の辺りに、赤い跡が浮かび上がっていました。
「こんなの朝はなかったのに。いつ出来たんだよ…」
「痛みとかは?」
「痛くもないし、痒くもない」
「海藻やクラゲに刺されたにしては、この跡…」
「あぁ…。手の跡、みたいだよな…」
その跡はまるで、手で掴まれたような形をしていました。
「…とにかく、早く帰ろうぜ。帰りは俺が運転していくから」
「あぁ…」
「もしかしたら、本当にクラゲに刺されただけかもしれないし、あんまり酷くなるようなら病院行けよ、な。」
「わかった…」
帰り道、車内には妙な静けさが漂っていました。
いつもなら騒がしい友人も、今回ばかりは浮かび上がった跡が気に掛かるのか、言葉数が少なくなっていました。
そして、この日はそのまま解散しました。
そらから数日後。
深夜零時を回り、そろそろ布団に入ろうかと思い始めた頃、友人から突然電話が掛かってきました。
焦り、震えるその声で、何か唯ならぬ事が起きている事だけは分かりました。
しかし、支離滅裂で要領を得ない物言いに、友人が何を伝えたいのか全く分かりませんでした。
「とにかく落ち着けって!一体、どうしたんだよ!?」
「来る…。ザザッ…上がって来て、消えたと思ったんだ。そしたら、背中にあってザザッーそれから、腕になって…。俺、ザザッ…行かなきゃいけない。彼女に引っ張られてるんだ。だから、これから、ザザッ…に行ってくる…」
「おい!大丈夫か!?どこに行くんだよ!?…おいっ!」
友人からの電話は、それが最後でした。
直ぐに掛け直しても繋がらず、翌日友人の家に行ってみても、誰も居ませんでした。
それどころか会社も無断欠勤しているようで、誰も全く連絡が取れず、行方も分からないとの事でした。
それから一週間が過ぎた頃。
友人は、ようやく見つかりました。
あの海岸の近くで漁をしていた漁船の網に引き揚げられたのです。
見た目では誰だか判断出来ないほどに、変わり果てた姿で。
身元は着ていた服のポケットに入っていた携帯から判明したようでした。
そして、復元した携帯の履歴で一番最後に通話した相手が俺であるという事も分かり、警察が事情聴取に来ました。
あの時の尋常ではない様子を伝えましたが、その話や現場の状況から警察は自殺であると判断したようでした。
しかし、俺の中には大きな痼のような物が残りました。
あの友人が自殺だなんて…。
それと同時にずっと引っかかっていた事は、海でのあの跡でした。
最後の電話で「消えたと思ったら、背中にあって」と言っていました。「それから、腕になって」とも。
これは、あの跡の事なのでしょうか。
急に不安に駆られ、俺は両足のズボンをガバッと捲り上げました。
すると、ふくらはぎの丁度真ん中辺りに友人と同じ跡が浮かび上がっていました。
手で掴まれたような、赤い跡が…。
一瞬、何が起きているのか理解出来ませんでした。
息苦しさでようやく、自分が数秒息も出来ず固まっていた事に気付かされました。
水から上がった時のように噎せながら大きく息を吸い込み、何とか自分を落ち着かせようと目を瞑りました。
暗闇の中、何度か深呼吸を繰り返すと徐々にいつもの思考が戻ってきました。
とりあえず、この跡。痛くも痒くもないから虫刺されであったり、ぶつけて出来た痣とは考えにくい。何かにかぶれたり、アトピーや湿疹だとしたらこんな形になるのは不自然だ。
やはり、友人と同じ現象が起きたのだと考えるのが妥当だろう。
だとしたら、これは移動するのだろうか。友人の言っていたように足から背中、そして腕へと。
それなら、なぜ友人は電話であんなに怯えていたのか。跡が移動する事は怖いが、それだけであんなに怯えるだろうか。しかも、彼女に引っ張られていると言っていた。
友人には何か別のものが見えていたのだろうか。
考えた所で答えが出る筈もなく、どう対処していいか妙案も浮かんできませんでした。
なので今回『アドバイスナイトラジオ』へお便りを投稿させて頂きました。
俺はどうすれば良いのでしょうか?
*
「以上、ペンネーム雨男さんからのお便りでした」
ラジオから流れていた波の音のBGMもいつの間にか止まっていた。
俺は少し汗ばんだ手を振り、もう一度ハンドルを握り直した。そして、左のレバーをもう一段階下げた。
「雨男さん、私からのアドバイスは”一人にならない事”です。雨男さんの友人に何が起きていたかにせよ、雨男さんにこれから何かが起こる──サザッ…せよ、それは一人では手に負えない事態です。だから…サザッ──…一人にならず、誰かと一緒にサザッ…もしサザッ…時には──サザッ…サザッ…ましょう…」
またノイズが酷くなってきた。
トンネルに入ったわけではないのに。
さっきから強くなり始めた、この雨のせいだろうか。
これだから雨は嫌だ。今は居ない友人にも「お前は雨男だから」と言われていた事を思い出す。
俺は左のレバーを最終段階まで下げた。
前から打ち付ける雨を振り払うように、ワイパーが高速で動き始めた。
アドバイスナイトラジオに投稿して、一週間。
ようやく俺の出した手紙が読まれた。
けれど、少し遅かった。
手首まで移動した赤い手の跡を見ながら、自然と溜息が零れた。
「彼女に引っ張られている」
そう言った友人の言葉の意味がようやく理解出来た。
手の跡が手首まで来た時、俺にも見えたのだ。
全身びしょ濡れで蒼白く、病的なまでに細い体をした長い黒髪の女性が。
その細い手で、俺の手首を必死に掴み、紫色の唇で訴え続けてくる。
「……来て………に来て…………一緒に来て…」
一緒に、行かなければ。
自然とその思考を抱いていた。
友人のようにパニックにはならなかったが、体はどこからともなく湧き上がる恐怖に支配されていた。
けれど、どうしても抗えない。
彼女が呼んでいる。
俺の腕を引っ張って、連れて行こうとしている。
車に打ち付ける雨音の中に、BGMではない波の音が聴こえてきた。
車を海岸の手前に止め、ドアを開けた。
波の音をより一層の強く感じながら、雨の中傘もささず、一歩、また一歩と暗い海へ近付いていく。
彼女の蒼白く細い腕に引かれながら。
足元にひやりと水の冷たさを感じた。
腕を引く力が、さらに強くなる。
膝まで水に浸かった。
前を向いていた彼女が、ゆっくりとこちらを振り返る。
太腿まで水に浸かった。
長い黒髪の奥に見える顔が、じっとこちらを見つめている。
腰まで水に浸かった。
その瞳は夜の海なんかより、もっと暗く冷たさを湛えている。
胸まで水に浸かった。
今は手首に移動しているこの赤い跡も、水に浸かるようにゆっくり、けれど確実上がって来ていたのだ。
肩まで水に浸かった。
彼女の紫色の口元が、ニヤリと大きく開かれた。
顎まで水に浸かった…口元まで水に浸かった……鼻まで水に浸かった………目まで水に…………。
遠くで、微かに声が聴こえていた。
「──サザッ…サザッ……ドバイスナイトラジオ。今日の──サザッ…はここまで。最後までご静聴頂きありがとうございました。皆さんも何かお困りな事がありましたら…サザッ──サザッ…にお便りお待ちしております。それでは、グッナイト………」