上野さんと安積くんの学校に行こう計画 ~ゆっくり進行中~
[1]
その日、風邪をひいた。
朝から頭が重かったけど、家にいても一人だから学校に行った。
結局二時間で早退して、家に帰って財布だけ取って、病院に行った。病院は風邪が流行ってるらしく混んでいた。
薬局で薬をもらったらもうお昼だったから、お弁当とポカリを買って帰ろうと思って、コンビニに寄ったんだった。
「って、雨ふっちゃったよー。もう朝から降りそうだったじゃん。ダメじゃん私ー」
正午なのに重い空。
病院で測った体温は、37.8℃だった。
身体のだるさも手伝って、がっくりきた。ついしゃがみこんでしまう。
「やだもう。走って帰ろうかなー」
店内に戻れば傘くらい売っていそうだけど、財布の中身はかなり厳しい。
病院代に、薬代に、お昼代も重なれば、お母さんになんとかしてもらわないとすっからかんだ。
風邪を引いてるとはいっても、幸い元気が取り柄、生まれが頑丈にできている。
(しょうがない。走るか)
すくっと立ち上がったとき、
「あの、ねえ」
軒下の、ゴミ箱のほうから声がかかった。
知らない顔だ。
でも、同じ学校の制服を着てる。多分、一年か三年生なんだろう。
だとしても話しかけられる覚えはなくて、思わず返事もせずに見返した。
男の子(先輩か後輩か不明)が黒くて大きな傘をパッと広げる。
「入ってく?」
なんとなく同学年の男子よりも落ち着いてる感じがする。
迷ったのは一瞬だった。
「入れてください!」
人見知りも物おじもしない性格でよかった、と思った。
これで知らないおじさんとかならお断りするけど、同じ中学ならそこそこ安心だし、悪い人にも見えない。
ちょっと面食らった男の子が、くるりと表情を変えてにっと笑った。
「どうぞ」
傘を傾けて、入りやすいように片側を空けてくれる。
同年代男子が照れてやらなさそうなことを、なんだか自然にしてくれるひとだ。
「ありがとう。助かっちゃいました」
ぺこっと頭を下げて傘下に入ると、隣でくすっと笑われてしまった。
「いいんだけど、……いや、家どっち?」
「あっちなんですけど、同じですか?」
「同じですよ」
笑って、彼が歩きだした。
送ってくれるらしい。大助かりだ。
でもあまりに彼が呆れたように笑い続けるものだから、ちょっと言い訳してみる。
「ここ丘中校区のはずれだから、方向は一緒かなって思ってたんですよ。丘中ですよね?」
「西丘? うん、まあ」
「それに、困ってたら声かけてくれましたし」
「そうだねー」
ちょっとぼかされてる気はするけど、話を続けてくれるつもりはあるらしい。
私は常日頃喋りすぎの踏み込みすぎと言われるスキルをひとまず発揮することにした。
「私、2年1組の上野っていいます」
彼の肩がぴくっと動いた。
「あぁ、安積です」
「3年生ですか?」
「んー、ちがうよ」
「1年生なんだ? おとなっぽいねー」
安積はあいまいに笑った。
「私今日風邪ひいちゃって、早退なんだ。安積くんは?」
「俺は、さぼり、かな」
「悪いんだー」
腕をつつくと、照れ笑いをする。よく笑う子だ。
「でもさ」
安積が言った。
「風邪で雨だと、テンション下がるよね」
「下がる。でも安積くんに声かけてもらってテンション上がったよ。人と話すと空元気でも元気でるよね」
「そうかなー?」
「うー、私がお調子者だからかな」
言うと、彼は笑った。
なんだかていねいに笑った。
「いいことなんじゃない? えーっと、上野さん。友達多いでしょ」
「普通だよ。安積くんは?」
「俺はいなーい」
「いないってことないでしょ。友達が聞いたら怒るよー」
「そうかも」
急に雨足が強くなって、雨粒が地面からはねっ返る。
「ねえ、次右? まっすぐ?」
「まっすぐ。右?」
「ううん、まっすぐ」
「一緒だねー。案外家近いのかな?」
「ううん、小学ちがうと思うよ」
「そっか。六年間一緒なら学年違っても顔くらい知ってるよね」
「うんー……」
安積が黙ると、雨音が強くなる。
それは彼の気まずさみたいで、私は急いで話題を探した。
「安積くん、何組? 何先生?」
「えー、いちくみ」
「安部先生のとこか」
「上野さんは?」
「2の1。担任八谷せんせー。いいクラスだよ」
「いいね」
「クラスどう? もうみんななかよくなった頃かな」
「多分いいクラスだよ」
「安積くんは多分とか多いなー」
「それ、俺のチャームポイント。いや、チャームポイントになってる?」
「うーん、どうかなー。チャームポイントっていうほどかわいいかなー」
「だってかっこよくはないでしょ」
「かっこよくはないね」
だよね、と彼がわかりきったように頷くので、
「でも傘に入れてくれたときはかなりかっこよかったよ」
言ってあげると、安積は照れたように顔をそらした。
(なんだ。背伸びしてたんだ)
少しほっとした。
そこだけ見たら、あんまり他の男の子と違うような気がしていたからだと思う。
「あのさ、次、まっすぐ?」
「まっすぐ」
「俺右」
一本先は小奇麗な通りで、軽い坂の奥に高層マンションがある。
「そっか。残念だ。でもうちももうちょっとだから、助かったよ」
笑顔でお礼を言おうとすると、安積は通りの奥を見ていた。私の顔を見ないままで言う。
「傘、あげる。上野さん。風邪おだいじに」
「いいのいいの。安積くんが風邪引いちゃうよ」
「いいんだ。俺の家あれだし、ちょうど風邪引きたいところだったから」
安積が指したのは、その高層マンションだった。
私がその指に気を取られた隙に、安積は私の手に傘の柄を押し付けた。
「バイバイ」
その一瞬の笑顔ははにかみぎみでかわいかった。
次の瞬間には傘から飛び出して坂を駆け上っていく彼を追いかけるほど、私は強情じゃなかったし、体調も万全じゃない。
「ありがとう。またね!」
かわりに、痛くなってきた喉で叫んだけれど、安積は振り向かなかった。
男物の黒い傘の下で、徐々に弱まってきた雨はゆっくりと地面を流れていた。
「うーん、いないなー」
あの後熱が上がって、週が明けてしまった。
でも月曜日からまた元気なスタートだ。
私はさっそく1年1組に安積を探しにきた。傘を返すためでもあったけど、あのはぐらかしがちな少年の学校での姿に興味があったからだ。
(なんか最初の大人っぽいイメージが強いから、一年生男子のイメージとしっくりこないんだよね。案外バカ騒ぎとかしてるのかな)
そんな好奇心が半分。
しかし教室に彼の姿はなかった。
(まさか、本当に風邪ひいちゃったわけじゃないよね)
上級生が教室を覗いているのが珍しいのか、教室に入っていく一年生がちらちらと私を見てくる。
「ねえ、ちょっとごめんね。安積くんって今日休み?」
教室から出てきた女の子に声をかけると、彼女はぽかんとした顔をした。
「あづみくん?」
振り返り、友達に確認する。
「誰だろ」
「多分このクラスじゃないと思います」
後ろのしっかり系の女の子が首を横に振る。
「あれ? そっかー。ありがとう」
釈然としない。
しないながらも、登校初日の私は忙しいのだった。
「八谷せんせ、おはよー」
朝の職員室は、放課後よりも慌ただしい雰囲気が漂っている。それでも朝早く登校している先生たちは大体出揃っていた。
「おはよう、上野。風邪はよくなったか?」
「よくなりましたよー」
「休んでる間のプリントは誰かにもらった?」
「ばっちりです!」
「あっそう」
八谷先生は就職してから2、3年だけど、サバサバしていて話しやすい先生だ。
「ねーせんせ、1年1組に安積くんって子いる?」
「安積? さあどうかねー」
気のない返事をしながらも生徒録をぱらぱらめくってくれる。1年1組は一番最初だ。
「相田、……泉、岡部、いないんじゃない?」
「いないねー」
安積なら、名簿でも最初だ。いるもいないもすぐにはっきりとする。
「なんだー。聞き違いか、嘘つかれちゃったかな」
がっかり肩を落とすと、先生が思いがけないことを言った。
「うちのクラスの安積のことじゃないんでしょ」
「…………は?」
「いやだからー」
先生がページを先送りして、2年1組の名簿を開いた。
「うちの、不登校の安積。2年になってから一回も来れてないんだけどね」
『1組出席番号1番、安積裕直』
その文字には確かに見覚えがあった。
一度も顔を出したことがないから、クラスで話題にも上がらない不登校の男の子。
私も、すっかり忘れて、自分が出席番号1番であるような気がしていた。本当は、2番なのだ。うちの学校の出席番号は男女混合だから。
「先生、安積くんって背これくらいで、細くて、髪の毛耳に掛かってて」
「そうだけど、いっぱいいるじゃんそんなん」
「そうだけども!」
私の勢いを面白がるように、先生がピッとプリントを指で挟んで私の顔に突きつける。
私ももらった、授業のプリントだ。
「そんなに気になるなら、プリント届けに帰り寄ってったら? いやー、上野が安積のとこ行ってくれると先生助かるなー」
なんと口実が2つに増えた。
「そんなに言うなら」
私は安積の真似をしてちょっと格好をつけてみた。
「行こうかな」
「家、紅葉坂の上のマンションだよ」
「うん、それは知ってるんだ、先生」
確定だ。
『さぼりなんだ』
そう言ったとき、安積はどんな顔をしていただろうか。
覚えていなかった。
[2]
「傘、返しにきた」
私がそう言うと、彼は、
「あ、そう」
と言った。
そして画面ごしに玄関ホールの自動ドアを解錠した。
数年前に建ったアパート(マンション?)だ。
なんとなく目立つ存在だけど、道路一本挟んで小学校の別学区だったせいもあって、入ったことはなかった。建物の脇に住民用の公園と小さなバスケットコートがあるのは、今日初めて知った。
エレベーターホールには草原を描いた小さなパネルが何枚か掛けてある。
(エレベーターあるんだ……。そりゃそうか。7階とか階段じゃ無理だもんね)
人気のないホールのエレベーターはボタンを押すとすぐに開いた。銀色の7のパネルを押す。
(さすがに、向こうは気付いてるよね。私クラス名乗ったもん)
同じクラスだと気付いた私に、安積はどんな反応をするだろうと考える。
(まぁ、普通に考えて、よろこんでくれたりはしないよね。門前払いされなかっただけマシかな)
引っかかりもなくスムーズにエレベーターが上昇していく。
(あ、なんか緊張してきた)
ぎゅっと傘の柄を握りしめると、ぴんっと音がして、前のドアが開いた。
「あ」
「傘、ありがと」
待ち構えていたように、安積は立っていた。
今日も彼は制服を着ている。
私も制服のまま。
むすっとした顔で右の手のひらを差し出しているので、なんと言っていいかわからずに、黒い傘の柄を彼の手に渡した。
「風邪治ったの?」
「あ、うん。もうすっかり元気なんだ」
明るい声で話しかけてくれたことに気を緩ませると、安積はただの社交辞令であったように、すぐに背を向けた。
「よかった。それじゃ」
その背中は、まるでなんにもなかったように(同じクラスであることなんて知らないように)無関係な他人に戻ろうとしている。
「待って、安積くん。私、プリントも預かってきたんだ」
拒絶されるかもしれないと思いながらも声をかけると、安積は振り向いた。
「そうなの?」
その表情は特に強張ってもいない。彼はこの前と同じように少し大人のような顔をして笑っている。
「うん。社会科見学だって」
「ふーん。わざわざどうも」
安積が手を伸ばしてきたけれど、私は二つ目の言い訳は簡単に手放したりしない。
これは人質だ。
ひょいと安積の手をよけると、安積の笑顔がそのまま困った顔になった。
「あの」
「あとさ、安積くんと遊ぼうと思ってきたんだけど、これからヒマ?」
学校さぼっておいて忙しいとは言わせない、なんて言えば押せるな、とない知恵を絞っているのに、
「まあ、暇だけど」
安積は正直だった。
「でも、遊ぶって、中学生にもなって?」
「中学生すっごい遊ぶよ! 遊びざかりなんだから!」
「なにして?」
「え……」
勢いっていうのはいいものだ。勢いで喋っているうちは大体なんとかなる。でも、勢いを削がれると理屈が通る流れになるのが理だ。
(ともかく喋るのを止めちゃいけない)
「ボールあるよね?」
「まあ」
「バスケしよ。下のバスケコート、一回使ってみたかったんだ」
我ながらくるしい言い訳だ。
安積は笑うでもなく、ぽかんとしていたけど、拒否しなかった。
「なんっでそんな元気なのよー」
「いやー、なまってるね、上野さん。遊びざかりなんじゃなかったの?」
「そっちこそ、学校こないでずっとバスケしてるんじゃないの?」
「してないよ、さすがに。筋トレとかはしてるけど」
「なんで筋トレ」
「暇だしさ。することないし」
なんだ。ネタか?
それとも私の言葉の前振りをしてくれてるのか?
「そんな元気で暇なら学校くればいいじゃない」
一応、デリケートな問題もあるのかもしれないし、無理強いはよくないなとはっきり言わないでおいたのに、いいパスをくれるものだからつい言ってしまった。
踏み込みすぎたかな、と安積を見ると、タオルで汗を拭きながら、マンションの外の坂道に目を向けている。
「まったくだよな」
顔は見えないけど、今までのように上滑りした誤魔化すような話し方じゃない。感情をしまいこんだ蓋が外れたみたいにふるえて音程の外れた声だ。
ごく、と自分が唾を飲みこんだのに気づく。
(緊張してるのか、私。そうだよな)
だって怖い。
安積の人生を安っぽい言葉でめちゃくちゃにしちゃいそうで、何も言えなくなりそうだ。
(それでも一歩は踏み出さなきゃ)
「安積くんはさ、学校こないの?」
「うん。行ってないな」
安積は背中を向けたままだから、どんな顔をして話しているのかがわからない。
「学校、きらいなのかな」
「嫌いだけど、ふつうみんな行くよね」
「私は学校好きだよ。たまに変わってるって言われるけど」
へへ、と笑うと、安積の肩がちょっと笑った。
「でも、なんか上野さんっぽい」
安積は落ち着いた喋り方をする。傘を差しかけてくれたときからずっと、こんなときでもだ。それは馬鹿やってるクラスの男の子とは空気が違っていて、なんだか寂しそうだなと思った。
「安積くんは、学校きたくない?」
「行きたいわけじゃないんだけどさ、行かないのは逃げてるみたいで嫌だとは思うんだ」
安積がコートに紛れ込んでいた石ころを蹴った。脇の草むらに小石が逃げ出していく。
「じゃあさ」
(来い! 勇気!)
「学校、行こうよ!」
ようやく振り向いた安積は、迷子のような顔をしていた。
「行ける、と思う?」
「思うよ!」
「それじゃあ、行こうかな」
夕日が逆行になって見えにくいけど、硬い顔で笑っているのがわかる。
「行こう、明日。私迎えにくるからさ、そうしたら教室まで一緒じゃない。安積くんの席、一番後ろだよ」
「そっか、ラッキー」
喋りながら私が立ち位置を変えると、安積の顔が少しやわらいだ。
「ね。今日、私に言わせようとしてた?」
何を、と言わなかったが、伝わったようだ。
「うん。ごめん」
「いいってことだ」
中学に入るころには、いつの間にか男の子は泣かなくなっていた。ひさびさに男の子の弱った姿を見るのは、昔と違って、すごくどきどきした。
[3]
次の朝は晴れていた。絶好の登校日和だ。
(でも、もしかしたら安積くんはいないかもしれないな)
いつもよりちょっと早く家を出て、通学路を逆行して進む。いてくれたらいいなと思いながら。
安積がどうして学校に来なくなったのかは知らないけど、本当は来たいんだろうなっていうことはわかる。
それと同時に、学校に来るのは安積にとって、すごく勇気のいることなんだということも。
(私はうまく、安積くんの手を引っ張っていけるだろうか)
そんな考えが胸をちろちろ這いまわるけど、私はだいじょうぶ。なんとかするしかないわけなんだ、これが。
人間やる気になれば、八割方叶ったも同じだ。
昔の人も言ってた。案ずるより産むが易し、って。産んだことはないけど、産まれたことならある。私は超、安産だったそうだ。
ちら、ちらとすれ違う人たち。
楽しみのような、不安のような考えが胸でぽわぽわしていて、顔が頭に入ってこない。
「上野、おはよー。なんでそっち向かってるの? さぼりー?」
「ちがうちがう。へへ、ちょっとねー」
私は浮かれているんだろうか。
そうかもしれない。いつもとは違う朝に、とびきりドキドキしている。
今日はきっと思い出に残る一日になる。
素敵な日にしてみせる。
坂の下のマンホールから、きっちりと左に曲がる。
待ち合わせはこの先。
顔を上げると、坂の中ごろに、安積は立っていた。拠り所がないような、ふるえそうな笑顔で。
「お、おはよう」
「おはよー。寝坊しなかったね」
「俺、割と、寝起きいいの」
「そうなの? おじいちゃんみたいだね」
「上野さん、思ったことなんでも口に出すの、やめたほうがいいよ」
挨拶する間に、安積が坂から下りてきた。
喋り終えた安積が、交差点でぴたりと止まる。
真剣な顔をしている。
その空気に割って入れずに、一緒になって黙っていると、安積がふうと深呼吸をして肩の力を緩めた。
(無理強いにならないように、安積くんが気楽に進めるように)
「えっと、どっち行く?」
「どっちってなに?」
「こっちが学校行きの道。こっちは、遠回りしていつか学校に着くかもしれない道」
通学路と、その反対の、雨の日のコンビニに続く道を指さすと、彼はため息をついて歩きだした。
「こっちでしょ」
安積は逃げなかった。
(えらいぞ。さすが男の子)
「そうだね、寄り道してたら遅刻しちゃう。さすがにねー、ホームルーム始まってから教室に入るのは私も緊張するから、遅刻しないで行かないとね」
「うわー。想像だけで吐けそう」
(あぁ、そこで笑うんだ、安積くんは)
安積がどこからか引っ張り出してくる余裕のようなものに、私は感心する。
安積にはバイタリティがある。ちゃんと、強さを持ってる。
きっとそれさえ持っていればどんなことも大丈夫なんだと、私は思うのだ。
笑う安積の傍を、男子学生が何人か追い抜かしていく。
「お前のクラス今日体育何やんの」
「だりー」
「知らね。サッカー?」
声変わりの終わった男の子のガヤガヤ感が通り過ぎるのを、私と安積はなんとなく待った。
2メートルも離れれば、ざわめきも遠くなる。
「あのね、今日の給食カレーなんだよ。学校のカレーおいしいから、今週ずーっと楽しみだったんだ」
「そうなんだ」
「うん。ちょっと辛いんだけどね。うちのカレーはりんごたっぷりでもっと甘いんだよ」
「子どもだなぁ」
「安積くんは辛いのが好きなの?」
「あー、……俺も甘いほうが好き」
「子どもだねー」
安積がしたのと同じようにからかうと、安積がなんだかなー、と笑う。
(安積くんが笑っても、ガヤガヤしないのは、一人だから?)
安積は笑うし、暗い顔もつらそうな顔もしていないけど、まとう空気は賑やかじゃない。
ちっとも楽しそうじゃないのだ。
これから向かうのが、学校だからなのか。緊張しているからか。
(早く学校に慣れて、緊張しなくなってくれたらいいんだけどな)
もちろん一番大変なのは安積なんだけど、隣にいるだけで私も緊張疲れしてしまう。
「うちの学校、6月に運動会だから、そろそろ種目とかきめるんだって」
「運動会かぁ」
安積が斜め上を向いて、思いだすような顔をした。
「去年、出た?」
「うーん。うん、出たよ」
去年の今時期はまだ学校に来ていたのか。その辺のことはデリケートな気がして、今日はストレートに聞く気にはなれない。
「走るの速い?」
「うー、いや、あんまり。普通くらいかな。その時その時で、勝ったり、負けたり」
「じゃあ練習しなきゃだね」
「あー。うん」
安積が前を向いたまま、私のほうを見ないで淡々と喋る。視線の先にあるのは、校庭だ。
歯切れも悪くて、最初に雨の日に会ったときみたいだ。
(走るのの勝ったり負けたりって、1位かどうかってこと? でもその前にあんまり速くないって言ったけど)
安積は心ここにあらずというか、ますます緊張したように見える。
もう前に進むだけで精一杯で、会話に集中する余力なんてなさそうだ。
(でも、緊張と不安でいっぱいになるよりも、どうでもいい話をして気が紛れたほうがいいよね。あと5分も頑張れば校門だし)
あたりさわりのない話っていうのは、意識すればするほど難しくなる。どこに地雷が転がっているのかもわからない状況だと、特に。
「今日、一時間目は国語だね。私国語ってちょっと苦手なんだ。小学校のときの作文とかはできたんだけど、難しい漢字とか出てくると気が散っちゃって」
「うん……」
「主人公の気持ち、とか作者の気持ち、とか言われても、なんかどれもそれっぽく思えちゃうし」
「そうだね」
話が終わってしまう。
気まずくなった私に気付いたのか、安積が私を斜めに見下ろして言葉を選ぶように口をまごつかせたけれど、また黙ってしまった。
(安積くん頑張れ。もうちょっと、もうちょっとだよ)
そのとき、私たちは同じ気持ちで歩いていたと思う。
また一組、男子生徒が私たちを追い越していく。
さらに後ろから、「おはよー」と声をかけて小走りで追い付いていく女の子。男の子も笑顔であいさつを返して、なにか喋っている。
安積の足が、止まった。
一歩、二歩と、小走りの女子生徒との間隔が開く。
安積は私の二歩後ろで、影もぴたりと動かない。
もう一人、女の子が邪魔そうに私たちを避けて車道脇に出て追い抜かしていった。
校門はもう見えている。
さっき私たちを抜かしたばかりの男の子たちが、校門の中に自然な様子で吸い込まれていく。
「安積くん」
安積はうつむいてもいないけど、私が声をかけてもぴくりともしない。
(無理だったのかな。私、間違えちゃったかな)
「ごめん、上野さん。俺、やっぱりやめる」
そう言いながらも、私の顔を見ない。安積の横顔は泣きもうつむきもしないけど、ただ歯を食いしばっている。
言わなきゃいけないことはたくさんあった。
言ってあげたい言葉もある気がした。
でも、私が何も言えないままに、安積はくるりと向きを変えて走り出した。
「あ、あ……」
通学ピークの人ごみの中で、大声で呼ばれるのは嫌がるような気がして、安積の名前が呼べない。
(走るの、本当は速いんだ)
学校に向かってくる生徒の合間をまっすぐ駆け抜けていく背中に、追いかけられなかった私は思った。
泣きたいのは安積なのに、泣きそうなのは私だった。
[4]
「今日もプリント。今日は宿題と来月の給食メニューだよ」
言い訳のようにプリントを持ってインターホンを押すと、安積は朝のことなんてなかったかのように平然と自動ドアのロックを外してくれた。
(もう会ってくれないかと思った。気まずいとか、思ってないはずないよね)
子どもだからといって許されない失敗もたくさんある。いいことだと思って、という言葉の虚しさももうわかる年齢だ。
(少なくとも、今朝の失敗で私から気まずくなって避けるなんてことはないようにしよう。絶対にそれだけは決めたんだ)
きっと安積の方が怖い。ずっと安積の方が泣きたい。
そう言い聞かせながらエレベーターが止まるのを待つ。
(宿題なんて、先週までは誰が届けてるのかとか、気にしたこともなかったよ。それってすごく薄情なことだよね。同じクラスなのに)
罪悪感に蓋をして、笑顔笑顔、と両頬を自分で引っ張ってにこっとしてみた。
この笑顔でいくんだ。
エレベーターが開くと、安積はもうスニーカーを引っ掛けて廊下に出ていた。
「朝振り! 安積くん、聞いてよー」
下手にリアクション待ちはできない。
目が合う前からテンションで押し切ることを決めた私に対して、安積は身構えた顔をしていた。
「え、ど、どうしたの?」
「今日避難訓練なのすっかり忘れてさー、授業中トイレ行ってたら避難放送流れてくるからびっくりして、急いで教室戻ったのに1組もう避難してて、走って追いかけたら先生に走るなって怒られるし、校庭でみんなに指差されるし、散々だったよー」
「それは、恥ずかしいな」
笑ってくれるかと思ったのに、安積は神妙な顔で相槌を打った。笑ってよね。
「でしょー? その後の教頭先生の話も『皆さんが静かになるのに4分かかりましたー』みたいなお約束から始まって長いし! 安積くん今日学校来なくて正解だったよ!」
気持ちは通じるだろうか。
今朝のことは失敗なんかじゃない。今日頑張らなくたって、いつでもよかったんだって。
「そう、かな」
「そうだよー」
我ながら無理があるほどの勢いに満面の笑みを乗せてしゃべり倒したが、ようやく安積もちらっと笑ってくれた。
なんだか仕方ないなって顔してる。
(私の力足らずな分は、安積くんに妥協してもらおう)
思惑に付き合っても会えるのなら、仕方ないやつと思われても許せる範囲だ。
ここでダメ押しに本日のプリントを人質にとった。
「そんなラッキーな安積くんに宿題をあげましょう。英語だよー。安積くん英語得意?」
「まさか」
「よかった。私もすっごい苦手。一緒にやろうよ」
「え」
決して色よくはない返事に安積の顔を窺う。戸惑い90%、遠慮10%とみた。よし。拒否じゃない。
「いつもやってもよくわかんなくなって友達に写させてもらうんだけどね、さすがに全然埋まってないと心痛むんだ。協力してよ。いいでしょ?」
「いい、けど」
煮え切らないながらも許可の言葉だ。これさえ貰えれば大丈夫。
私は人質であるプリントを渡さないまま、エレベーターの降りるボタンを押した。
「じゃあ書くもの持ってきてね。下の公園で待ってる!」
今すぐにと腕を引いて連れ出さなかったのは私の情けだ。さすがに誘拐みたいだから、とまでは言わないが……、心の準備をする時間くらいはあげようと思う。
ベンチでおとなしく待つと、安積はすぐに来た。
教科書とシャープペンと、スマホを持ってる!
「iPhone?」
「うん。そう。単語調べるならいるかと思って」
「いるいる。二人でやるっていいねえ。私調べるのすぐ面倒になっちゃうんだよね」
「それでどうやって解くの?」
「言葉なんだしニュアンスで伝わってくるかなって」
安積があきれた目を向けてきた。
ここで「バーカ」みたいなコメントが来るくらいまで仲良くなりたい。
「心配しないで。今日はニュアンス封印して解くから」
「それがいいと思う」
結局、私の代わりに安積が単語を調べてくれて、私が書いていくことになった。
風がそよそよする。
「natureは?」
「んー、自然」
「farmer」
「農場主」
「へー、牧歌的。これ農場の話だね」
「これ読むの? 訳すの?」
「どっちが当たるかなー。どっちも苦手で小声になっちゃうんだよね」
「わかる」
本日の人質、英語プリントは大変役に立つ奴だった。宿題にしてくれた英語の先生に感謝したいくらい。
共通の話題があるって大事なんだな。考えたこともなかった。
宿題が埋まるにつれて、私は雑談がちになるけど、安積が引き戻してくれる。真面目なんだ。
「安積くん、絶対私より頭いい」
思わず憮然として言うと、
「上野さんはもっと何て書いてるかよく読んだ方がいいと思う」
と指摘された。
かわいくない!
「でも助かっちゃった。読む方が当たったか、訳す方だったか、明日報告するね」
(だから無理に来なくても大丈夫だよ。悪いことしてるって思わないで)
心の声が聞こえたかはわからない。
いや、わかってる。聞こえてない。さすがにそこまでメルヘンじゃない。
「明日も来るの?」
クールな態度で聞き返してくる安積に、大きく頷いてみせる。
「来るよ! 明日のプリントもお楽しみにね」
安積がどうして学校に来ないのかは、私にはわからない。
まだ聞けない。
でも、一人くらいおせっかいなクラスメイトがいてもいいと思うのだ。
「わかった」
そう言う安積の表情は、私には読み取れなかった。
けれども、こうして私と安積の関係は始まった。