4. 少女は大聖堂へ
窓から差し込む朝日で目を覚ました。一人で寝るには大きすぎるベッドは、また寝るためだけには大きすぎる部屋の中央に置かれている。天蓋のあるそのベッドには薄い膜を通して弱い光が差し込んでいた。
近くのテーブルに用意された若葉色のワンピースを手に取る。着替えるためにベッドから足を下ろせば、毛足の長い絨毯に包まれる感覚が心地よかった。手早く着替え、自室へと繋がる扉に手を掛けた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、ローズ」
朝起きて真っ先に挨拶をするのは決まってローズと呼ばれた彼女だ。専属の侍女で、着替えを除く朝の身支度を手伝うことになっている。
促されるままにドレッサーの前に座ると、すぐにローズが髪をすき始める。肩までのそう長くない髪を整えるのに時間はかからない。今日は編み込みのハーフアップにするようだ。
手持ち無沙汰なので、鏡越しに彼女の手際を眺める。
「さあ、できましたよ」
「ありがとう。今日も素敵ね」
礼を言って立ち上がる。後ろを向いて目で鏡を振り返れば、今日も綺麗に髪が結われていた。
「朝食に行ってくるわ」
「はい、いってらっしゃいませ」
そう告げて部屋を出た。部屋に残るローズの仕事はベッドメイクだ。一人で食堂へと向かう。
食堂の扉は両開きの大層豪奢なもので、食事前の時間帯は人を迎え入れるために開かれている。扉を潜れば一人の男が既に席に着いていた。
「おはようございます、お父様」
「ああ、おはよう」
彼女の着席を見計らって、二人の前に食事が並ぶ。ふわふわのパンにカリカリのベーコン、程よい硬さの卵。食べ進めていると丁度良いタイミングで果実が出される。手が汚れないように配慮して切られた果実は、いつも季節のもので新鮮だ。
「今日もどこか出掛けるのかい?」
食事中は一言も発さなかった父親から声が掛かる。手元には珈琲カップだ。朝食ではいつも彼は珈琲と決まっており、向かい側に座る少女の手元にはミルクティーだ。これもいつも通りである。
「いいえ、昨日お出掛けの許可を頂きましたもの。今日は予定していません」
「それなら大聖堂に行ってきたらどうだ。あそこなら家からも近い」
父親の提案に目を丸くする。
大聖堂は確かにこの屋敷から近い場所にある。歩いても十分、馬車で行くならすぐに着く。この国で最も大きな教会で、日々様々な階級の人々が集う。
「今日、司祭様がお前の好きな伝説をお話しなさるらしいよ」
「え、本当ですか?」
途端に目を輝かせた。その様子を見て少女の父親はニコニコと微笑んでいる。
「ああ、だから行ってくるといいよ」
もう一声後押ししてやれば、少女は手元の紅茶を飲み干して勢いよく立ち上がった。ご馳走様でした、と給仕に礼を告げることも忘れない。
「すぐに準備して行って参ります!」
満面の笑みで父親に礼をし、飛び出すように食堂を後にした。
足早に自室へと向かった。走っては叱られてしまうので、早歩きだ。
「ローズ、今日も出掛けるわ!」
勢いよく扉を開け放つ。部屋で掃除を行っていたローズは吃驚して振り向いた。少し息の上がった主人に、更に驚いている様子だ。
「司祭様のお話しを聞きに行くの!」
話す様子は笑顔だ。自ら鞄を取り出して、手帳や小銭入れなどを詰めていく。彼女は身の回り全てを世話されることを嫌う。自分で出来ることは自分でやりたがる。それを重々承知しているローズは、不便がないか脇に見つつ若葉色に合うコートを見繕った。
「馬車を手配いたしますか?」
「天気が良いもの。歩いて行くわ」
返事に礼で答えると、着やすいようにコートを差し出した。薄茶色のコートは袖と裾にレースをあしらったもので、少女の可憐さをより際立たせた。少女が自ら選んだ鞄も茶色い革のものだ。
「行ってきます!」
慌ただしく部屋を飛び出していった。きっと早歩きをするのは屋敷の中だけで、一歩外に出れば駆け出すのだろうと当たりを付ける。その様子を想像して、ローズの口元に思わず笑みが零れた。
飛び出した方はというと、すれ違う使用人たちに挨拶をしながら先を急いでいた。その顔に笑顔は絶えず、目は輝いている。執事が良いことがあったか問えば、嬉しそうに肯定が返された。
長い廊下を進み、階段を下り、また長い廊下を進む。掃除を担当するメイドの見送りを受けながら玄関を出れば、強い日射しが眩しかった。
庭の緑を抜け、門へと向かう。庭師が魔法を使って整備する庭には、四季折々の花が共存して咲き乱れる。昨日見た雄大な自然とはまるで違うものだ。自然のままに咲く花が印象に残っていた。
敷地の外へと続く門は主の気配を察知すると自動で開く。その前で一度立ち止まった。門が開く重厚な音を聞いていた。
開いた門に従って外へ出れば街を一望出来る。この屋敷は小高い丘に建っているのだ。緩やかな坂を下っていった先に大聖堂はある。期待を胸に一歩を踏み出した。
風を切る感覚を感じながら足早に坂を下っていく。坂の下に見えるのは広場で、王都で最も栄える市でもある。大聖堂はそこに並ぶように建っており、そのため商人や一般市民にも親しまれているのだ。
広場に近づいていくにつれて徐々に人通りが多くなる。口々に挨拶をかわす人々の様子は見ていて心地よい。横目に見つつ市の中を進んでいった。
数分も歩けばもう大聖堂は目の前だ。鐘の音が聞こえてきそうな荘厳な空気の中を歩いて行く。もう訪れるのが何度目になるか分からない前庭には、子供たちが元気に駆け回っている。ここで保護している身寄りのない子供たちだ。
その様子を眺めていたら、子供たちの方から声が掛けられた。
「こんにちは、お姉さん!」
「司祭様のお話しを聞きに来たの?」
何度も聖堂に通う少女はもう子供たちの顔見知りで、躊躇う様子もなく駆け寄ってきた。鬼ごっこをしていたようで、簡素な服には所々土が跳ねている。
「こんにちは。そうよ、お話しを聞きに来たの」
目線を合わせるようにしゃがみこんで、笑顔で答える。子供たちは聞きにいかないのかと問えば、聞きに行きたいと言う。
「今日は人がいっぱい来てるの」
「僕たちも聞けるかな」
「混んでて入れないかも!」
子供たちは顔を見合わせて困った風だ。
「じゃあ、私と一緒に行こうか」
立ち上がって告げると、子供たちは嬉しそうにはしゃぎだした。早くも楽しみだねと笑い合っている。王国に伝わる伝説の物語は、小さな子供たちの興味をも引くものなのだと少女は再認識した。
――私も小さな頃から好きだったものね。
両手をそれぞれ女の子と繋ぎ、片方の女の子が男の子と手を繋いだ。幸い今は人通りが少なく、連れ立って歩いても問題なさそうであった。
子供たちと他愛のない話をしながら大聖堂の入り口に向かう。大きな扉が今は開かれており、風が通り抜ける様は開放的だ。絢爛な装飾が日射しを受けてキラキラと光っていた。
繋いでいた手を離し、静かに中へと入る。彩り豊かなステンドグラスが通す光はいつ見ても幻想的だ。まるで碧空に掛かる虹のようである。
子供たちの言う通り、普段より人が多い様に見受けられた。整然と並ぶ椅子は徐々に埋まっていっているようだ。いくつかまとまって空いている席を探して子供たちを促した。偶然にも前列の方に空席が見つかり、子供たちは嬉しそうだ。
「おや、フィルソフィア卿の」
姓を呼ばれて振り返る。そこに立っていたのは、四十路前後の男だった。見知った顔のその男は聖職者で、司祭の一人としてこの大聖堂に奉仕している。
「あ、こんにちは」
軽く礼をする。どうやら準備を担っていたようで、荷物を抱えていた。
「大司祭様の講論を聞きにいらしたのですか?」
「はい、伝説の物語を聞けると父に聞きまして。大司祭様がお話になるのですか?」
「そうなのですよ。だから普段より多くの方がおいでになられて」
そう言って周りを見渡す。来た時よりも人は増えてきていた。全て埋まることはないだろうが、それでも普段より多いのは明らかだった。
「それは知りませんでした。楽しみです」
「子供たちも連れてきて頂いたみたいで、ありがとうございます。ゆっくりしていってくださいね」
司祭はにこりと礼をして立ち去って行った。その背中を見送って子供たちの隣に腰掛ける。前列なだけあり、教壇が良く見えた。
足元に置いた鞄から海中時計を取り出して見ると、あと数分だろうかという頃合いで、大司祭が現れるまでの間、最奥のパイプオルガンを眺めていた。
やがて大司祭が登場すると、少しだけあった話し声も消え、聖堂内はしんと静まり返った。大司祭が歩く音だけが、聖なるもののように響いていた。教壇に辿り着くと、一息置いて口を開く。
「この物語は皆さんの多くが知っていることでしょう。幼子たちは知らぬ者もいるかもしれない。知っている者はもう一度聞いて、自分がどう考えるのか再認識してください。これは、とある二人の魔法使いがこの国にもたらした伝説です」