地獄の6日間・卒業試験
再び俺の前に鬼教官が立つ。
俺は肩幅に足を広げて、休めているとはとても思えない、休めの姿勢。
手を後ろで組んでいないって?
荷物が多すぎて後ろで手はとても組めません。
「前半は色々あって中断も多かったが最後は良く頑張った。この六日間を締めくくる最後の訓練は実戦を想定した対人戦闘だ。」
「イエス!サー!」
「本来ならば俺が直々に卒業試験として立ち会いたかったのだが、一人どうしても立ち会いたいという人物がいる。その者に卒業試験を任せる。」
「イエス!サー!」
ドカチーニさん以上の鬼は居ないだろう。
大分楽になりそうだ。
今日も暑いがこれで最後だと思えばやる気も出てくる。
シーリンさんが井戸で食器を洗う水がとても気持ち良さそうだ。
あれ?
シーリンさんがいつもの濃い藍色の特注の貫頭衣では無く、銀色の月の満月の夜に見た裾の短い黒の貫頭衣を着て食器を洗っているぞ。
思わず、彼女の股間部分に自分の目が行くのを俺は止められない。
突然の激痛に俺はうずくまった。
木製の皿が一枚、俺の足元へと転がる。
鼻と口の間、人中と呼ばれる人体の急所をシーリンさんは的確に攻撃してきた。
口の中で血の味がする。
歯は折れていないよな?
俺は手で触って確認するがどうやら歯は折れてはいないようだ。
鼻にも当たったようで鼻血が確認した手を血で赤く汚す。
鼻も折れたり曲がったりはしておらず無事だ……鼻血が出るのを無事と言うのならば。
シーリンさんは洗い物を続けながら、何事もなく、いつもの笑顔で俺に声を掛ける。
「ユークリットさん。ネモさんて面白い方ですね?それともわたしが暇人にでも見えるのでしょうか?アルフィアさんの治療を投げ出して、延々と延々と自分の人形を『嫁』と称して、わたしに説明して下さるのですよ?何を言っているのかわたしには半分も理解出来ませんでしたけど。」
あっ……この笑顔は駄目な奴だ。
かなりお怒りだな。
いつの日か木戸越しに悲しそうな笑顔で交わした「おやすみなさい」が遠い昔に感じる。
あの時は少しだけシーリンさんとの距離が縮まったと思ったのに……
「ふふふっ。なぜあの時、桶が何に使われたのか教えてくれなかったのですか?館長があなたを殺す?その前にわたしがあなたを殺すとは考えませんでしたか?それともあなたはわたしが困るのを見たかったのですか?それとも単純にあなたはわたしに嫌われたいのですか?」
シーリンさんは笑顔に『怒り』がにじみ出ようとするのを必死に止めている感じだ。
その湧き出る感情を無理矢理閉じ込めている抑揚のないしゃべり方は是非止めて下さい。
俺は恐怖で全身の毛穴が開きそうです。
「いえいえ。私は本当にドカチーニさんに知られたら殺されると思っただけですよ。あなたを困らせるつもりもありませんでした。勿論あなたに殺されるのも嫌われるのもごめんこうむります。それよりネモはどうなったのですか?」
本当に奴は殺されてないだろうな?
確率は五分五分と見た。
「ふふふっ。そんなに心配しなくてもネモさんは無傷ですよ。あのヒト、わたしが攻撃したらそのまま死んじゃいそうなくらいに貧弱じゃないですか?」
「その事に私も異論は無いのですが……」
「それに、わたしはまだヒトを殺した事が無いのですよ?」
やめて!
その笑顔はヒトを喜んで殺すヒトの顔にしか見えませんよ?
あなたの瞳は少しも笑っていませんよ。
むしろ『殺』と書いてあるように鈍く輝いていますよ?
超怖いです「まだ」って言葉も含めてこれから目の前の男を殺すみたいじゃないですか?
彼女の目の前に居る男は『ドカチーニさん助けて!』と声なき声を上げて彼を見る。
駄目だ。
ドカチーニさんの顔が鬼になってる。
前も後ろも鬼しかいない。
まだ狼と虎の方がマシに思えた。
ドカチーニさん、その口角が上がり過ぎた顔は笑っているのですか?怒っているのですか?
顔に「俺も殺りたいが、今回はシーリンさんに譲る」と書いてありますよ?
鼻血はすぐに止まった。
それを確認してドカチーニさんが俺とシーリンさんを立ち向かわせる。
「よし、それでは始めようか?ただし得物は木刀と木槍だ。最初は何でもありだ。始め!」
ドカチーニさんが発した突然の合図と共にシーリンさんの姿は俺の視界から消える。
俺が木槍を構える前に、後ろに回ったシーリンさんから首に木刀があてられていた。
「おい、シーリン。手加減する事はないぞ。死ななければフィーナが治してくれる。」
「分かりました。館長。」
「なに。業務契約の血反吐をユークリットはまだ吐いてないからな。丁度良い。」
「では遠慮なくやらせてもらいます。」
「少しくらいは遠慮してく……」
次の瞬間、後ろから突然消えたシーリンさんが俺の腹に短めの木刀を差し込んでいた。
本当に腹へと穴が開いたような衝撃。
激しい痛みに息が止まる。
「ふむ。これは全く相手にならんか。シーリン、気配を消す魔法は使用禁止だ。」
「はい。館長。」
「ユークリット。立て!まだ卒業試験は始まったばかりだ。お前はまだ木槍を構えてさえいないぞ!」
激しい痛みと呼吸困難でひざをついた俺に、ドカチーニさんの叱咤激励が飛ぶ。
アルフィアさんは相手の認識を一度外さないと『気配を消す魔法』を使えないと言っていたが、シーリンさんは相手が見ている目の前でも気配を消す魔法が使えるようだ。
同じ魔法でも使うヒトによって差があるのか?
木刀に刺された部分がズキズキと痛む。
実際は穴が開いていないのに、本当に穴が開いているように腹の奥まで痛む。
これは確かに血反吐を吐く事になるな。
痛みをこらえて槍を杖替わりに立ち上がり、今度はしっかりと木槍を構えた。
シーリンさんの瞳へ向けて木槍の先を向ける。
「よし。立ったな。始め!」
今度はシーリンさんがいきなり消えたりはしない。
左へ左へと回りながら俺の隙を伺っているようだ。
間合いは俺の方がはるかに長いのだ。
シーリンさんだって、きっと俺の隙をうかがっている。
相手の間合いにならない事に注意して、俺の間合いに入った瞬間に槍を突く。
今回の訓練で練習してきた事をやってみせる。
次の瞬間、それは甘い考えだと気付くがすでに全てが遅かった。
シーリンさんが跳躍魔法で高々と飛び上がると太陽の中へと完全に入った。
俺から見たら逆光の位置関係になるように彼女は移動していたのだ。
太陽を直接見る眩しさで完全に彼女の姿を見失う。
半分パニックのまま太陽へ向かって木槍を突いた時、地上に降り立った彼女の木刀が先程と全く同じ場所を突いていた。
右手から左足まで一直線に伸びた彼女の姿を美しいと感じてしまった。
だが俺の体は激しい痛みで再び呼吸が止まる。
このままでは文字通り息の根を止められそうだ。
俺は完全に両手両足を地面について這いつくばった。
「これでも相手にならんか。シーリン。魔法は全面禁止だ。体術だけでやってみろ。」
「はい。館長。」
「ユークリット。立て。まだ這いつくばるには早いぞ。」
顔を上げた俺の目には病室から心配そうに俺を見つめるベスとアンの姿が映った。
このままじゃ駄目だ。
これは血反吐を吐いても立ち上がり続けないといけないな。
多分、俺はシーリンさんの相手にはならない。
100回戦っても100回勝てないと思う。
ベスとアンにみっともない姿はもう見せてしまったが、あきらめる姿だけは見せられない。
気力を振り絞り立ち上がる。
息をするだけで、腹が痛む。
それでも木槍をシーリンさんに向かって構えた。
「よし!ユークリット、心意気だけは認めてやる。シーリン、お前はこの先も絶対に手加減をする事を禁ずる。お前が体術をどれだけ上達させたのか俺に見せてみろ!」
今まで右手1本だった短めの木刀を両手で2本構えるシーリンさん。
どうやらこれからが彼女の本気らしい。
更に『口にくわえて3刀流』が本当の本気とかになるのだけは勘弁してほしい。
「よし、始め!!」
シーリンさんは特に構える事無く、自然に近づいてくる。
今まで散々練習で突いてきた間合いに入った瞬間に木槍をシーリンさんの腹を突いた。
俺の攻撃を左手の木刀で簡単に反らして、再び寸分たがわぬ位置へと木刀で突き返す。
内臓の機能が全て止まるような激しい痛み。
そんな中でもシーリンさんの動きはとても美しいと感じてしまう。
再び俺は地面へと這いつくばる。
胃から込み上げてきたものに血が混じっているのを口の中で感じるが、まだ血反吐を吐く訳には行かない。
全てを無理矢理飲み込んで胃へと送り返す。
ベスとアンに俺があきらめた姿を見せるのだけはしてはならない。
3人で指切りしたのだ。
大人が子供との約束を破ってはいけない。
何度目だろう?槍を突く度にシーリンさんからカウンターをもらう。
槍を突かなくても、彼女の間合いにそのまま入られて木刀が俺の腹に突き刺さる。
何をどう動いても俺の腹へと木刀が突き刺さる。
しかも彼女は必ず同じ位置へと寸分たがわずに木刀を突き刺す。
逆流する血を飲み込むのも何度目か分からない。
飲み込むべき血の量は回数を重ねる度、確実に増えている。
俺とシーリンさんの間にはどれだけの実力差があるのだろうか?
血反吐を吐けばこの地獄は終わるのかも知れないが、俺から終わらせる訳にはいかない。
ドカチーニパーティーで一番接近戦が苦手なのが彼女?
冗談じゃないな。
やはり冒険者になって生き残れる気が全くしないぞ。
俺は荷揚げ屋で生きる。
平穏に生きる決意を新たにする。
だが、今回はそれとは話が違う事だ。
せめて一突き。
シーリンさんに当てるまで。
いや、かするまで。
いやいや、せめて彼女の攻撃を回避するまで。
どんどん、目標が低くなる事は自覚できる。
だが、ベスとアンが病室で見ている。
ベスは俺のわがままを聞いて、未知の実験をあきらめずに続けてくれている
2人が見ている前で俺があきらめる事だけはしてはいけない。
そうだ。
彼女に全く同じ所を攻撃されないようになるまで!
激しい痛みの中、俺の意識は体を立ち上げる。
意識の中では体が立ち上がる。
だが現実の体が全くついてきていない。
俺の視界は右半分が未だに地面で一杯になっている。
俺が今まで無理矢理飲み込んでいた分を含めて、胃から血が大量に逆流して吐血した。
後から聞いた話では、俺が胃の中に溜め込むだけ溜め込んだ血反吐は、ドカチーニさんやシーリンさんの予想をはるかに超えた量になっていたらしい。
意識が途切れそうな中、ドカチーニさんの慌ててフィーナさんを呼ぶ声が聞こえる………
お祖父ちゃん達とお祖母ちゃん達が今日も手を振っている。
俺も手を振り返しながら「ごめん。まだそっちに行く訳にはいかないんだ!」と答えた。




