荷揚げ屋の仕事
翌日の朝、東の空が明るくなる頃に、俺は活動を始めた。
前日に普段よりも早く寝た事もあるが、かなり早い時間に目が覚めた。
何よりも俺は今日という日の朝が待ち遠しかった。
こんな事は学生の時以来だな。
社会人となってから、次の日の朝が待ち遠しいなど、思った日が果たしてあっただろうか?
俺は『今日の遠足が待ち遠しくて仕方が無い子供』のように興奮している。
学生時代からのルーチンワークとなっている、朝の準備運動をしながら、体の調子をみる。
「よし。体の調子も問題ないし今日からイベントの開始だ。どんなイベントになるのかな?」
俺は昨日ドカチーニさんからもらった【初期装備のベルトポーチ】へと全財産を入れて、食堂へと向かう。
そこで斡旋の1次受付をしてもらえるとの事だ。
昨夜から楽しみにしていたサプライズ異世界企画の大きなイベントの1つ。
この斡旋屋で【異世界風の仕事】をもらい、それを解決して報酬をもらう。
俺の好きな【テーブルトークRPG】の基本的なお約束だ。
昨日俺はいたずら心で【港での荷物運び】の仕事を請け負った。
正直言うと『まさか用意されているとは思わなかった』と少しだけ後悔している。
なんらかの理由を付けて断られると思っていた。
だが今回の【異世界企画】は俺の知っている【テーブルトークRPG】の基本的なお約束とは少し様子が違うようだ。
朝一番に斡旋屋で仕事を受付するのは分かる。
斡旋屋で受付をした仕事が始まるのは太陽が斜め45度辺りまで昇ってからだと言う話。
仕事場への移動の時間や支度の時間もあるのだろう。
だからそれも分かる。
だがどうしてそんな事をするのかが分からない事がある。
派遣された仕事先で、もう一度受付をして、仕事を始めるという事だ。
なぜ仕事をする為に2回も受付をするのだ?
明らかに二度手間だ。
二度手間が嫌いな俺には理解に苦しむ。
自慢にもならないが俺は頭が悪い。
頭の良い人が考えただろう事を俺が思いつかないだけだろう。
今は『きっと意味があるのだ』と信じよう。
とは言っても何事も、まずは経験して見ないと、話にならないよな。
『百聞は一見に如かず』とは本当に納得のいく諺だ。
受付でシーリンさんに荷揚げ屋の仕事を斡旋してもらう為に列へと並ぶ。
波止場に停泊した船から港湾施設の倉庫へと荷物を運ぶだけの体力勝負の仕事だ。
荷揚げ屋は1日毎の契約で、この仕事を続けるのならば、毎朝契約を結ぶ必要がある。
俺は『荷揚げ屋の仕事を毎日毎日契約させる事はゲームマスターがプレイヤーを自然と冒険者へと導く為の工夫だろうな』と心の中で苦笑いをしていた。
ゲームマスターとしたら、俺を荷揚げ屋から転職させて、早く冒険者へとしたい事だろう。
もしかしたら、この二度手間な仕事への登録も、その一環かも知れないな。
俺が荷揚げ屋の仕事の受付をしている間に列が大分長くなっていた。
このイベント企画は意外と朝からキャストが多いな。
そして少し意外な事に冒険者が居ない。
基本的に俺と同じように平和な仕事を斡旋してもらっているヒトばかりだ。
俺が【荷揚げ屋】を仕事として選んだからだろうか?
昨日色々と説明を受けたシーリンさんへと仕事の受付を済ませる。
本当に笑顔の素晴らしい女性だ。
彼女の笑顔を見るだけで1日の活力をもらえる気持ちになる。
同じく昨日会ったドカチーニさんが食事の載ったプレートを持って俺の所へとやってきた。
どうやら俺の賄いとして用意すると言っていた朝食のようだ。
彼は俺の前へプレートを置くと話を始めた。
「おはよう。昨日はよく眠れたか? まずは食事を取ってくれ。俺の斡旋屋自慢の料理人が作った朝食だ」
「おはようございます。お陰様で良く眠れました。朝食も美味しそうですね。早速いただきます。ドカチーニさんの分は無いのですか?」
「俺はもう食べたよ。少しお前と話をする事があるのでな。ついでに持ってきただけだ」
「わざわざありがとうございます。話とは何でしょうか?」
「それは後だ後。まずは朝食を食べてくれ」
俺は朝の挨拶と食事を持ってきてくれたお礼を彼へと返す。
そして「いただきます」と手を合わせてから賄いの朝食を食べた。
一口食べただけで『美味い』と思った。
ドカチーニさんが自慢するだけはある。
パンにスープに焼き魚。
最後に主菜が『なぜ焼き魚なのだ?』と疑問も湧くが1つ1つがとても美味い。
素材の味がそれぞれに主張し合いながらも上手く1つにまとめられていた。
素朴な味付けだが、そこが日本のファーストフードでは食べられない味で、尚更良い。
残さず食べて最後に「ごちそうさまでした」と挨拶をして食事を終了する。
俺が食事をする姿を嬉しそうに眺めていたドカチーニさんが話を始める。
大事なチュートリアルだ。
しっかりと聞いておこう。
「お前の話は港の差配に通してある。港に行ってそれらしい列に並べば大丈夫だ」
それだけを俺に言うと彼は席を立つ。
それを言うだけの為に俺の食事をまっていたのだろうか?
一応、去り行く彼へと声を掛けてみる。
「それだけ言う為に、食事が終わるのを待っていてくれたのですか?」
「それだけではないぞ。まあ色々と思う事があってな」
そう言って、ドカチーニさんは俺の元を去って行った。
昨日と比べてキャストの数も大幅に増えている。
彼はヒトが溢れている店内でも、基本的には安楽椅子に座ってゆったりとしている。
仕事は注文が入った食事を届けるくらいだ。
俺の様子を見ながら『次のイベントの準備でも考えているのかな?』などと思った。
俺は朝食を食べ終えると時間的には、まだ早いが、斡旋屋を出て港を目指す事にした。
イベントとは言え、仕事へ遅刻をするのは、自分が自分を許せない。
そんな意気込みをよそに俺が仕事に行くべき港はすぐに分かった。
ドカチーニの斡旋屋は海沿いに建っている。
表玄関を出ると左手側に向かい、10メートルも行かない所で海に突き当たる。
そこは岸壁になっていた。
正面は南の国を思わせる、青く綺麗な海が広がり、右手側を見れば大きな港が直接見えた。
少し遠いが、ここからでも大きな船が何隻も、波止場に泊まっているのが分かる。
高いマストが何本も立っている大きな木造船だ。
名前までは知らないが、どう見ても、大航海時代の帆船だ。
大砲は積んでいないように見えるけど、映画で海賊が乗っていそうな、大きな木造帆船だ。
ここからはまだ距離があるが、今まで見た事の無い港の様子に、俺はワクワクした。
歩き出すと慣れない草鞋が足へと違和感を与えてくる。
今日1日履いたら、すれて豆が出来るかも知れないな、と感じる。
俺は『草鞋を履いて歩く事も普段の生活では経験できない事だ』と考え直し港を目指した。
このサプライズ異世界企画のセットは本当に良く出来ている。
斡旋屋も良かったが、外の様子はもっと良い。
見渡す限り、どこまでも続くように見える、切れ目のないセットだ。
どこか南の島を1つ丸ごとセットとして使っているのだろうか?
話題のVRだって、ここまでの臨場感を出す事は出来ないだろう。
俺は一度も体験した事は無いが。
この異世界企画に【憎き金髪野郎】が参加していないとは思えない。
このセットの広さだ。
奴が参加しているならば、俺とは違うどこかで、この異世界企画を満喫しているだろう。
いつかどこかで会う事もあるかも知れないな。
記憶の奥底に封じ込めた【幼馴染】には、こんな素晴らしい所で、絶対に会いたく無い。
いつかどこかで会う事がない事を祈るだけだ。
なんだかんだと周りのセットを見物をして歩き、港に着いたら、すでに列が出来ていた。
太陽も大分高くなっている。
浮かれ過ぎて初日から仕事へ遅れるところだった。
港に着くと荷揚げ屋の集団らしい列はすぐに分かった。
列には色々なヒトが居た。
ここで言う色々な【ヒト】とは異世界用語で言うところの【獣人】だ。
半分以上のヒトが俺と同じ普通の人間の姿をしている。
全体的に小麦色をした肌のヒトが多いようだ。
だが透き通るように白いヒトも少数だが居る。
俺は立派な黄色人種だが、ここに居るヒト全体から見れば、肌が白い方へと分類されるな。
髪の色もアニメのような奇抜な色のヒトは全くいないが千差万別だ。
金髪から赤髪、茶髪、黒髪、中には銀髪なんてヒトもいる。
獣人のヒトには、二足歩行する犬であったり二足歩行する猫であったり、二足歩行する兎であったりとおよそ知っている動物ならば様々な種類が居た。
動物と人間の中間の様なヒトもいる。
ほとんど人間で少しだけ動物要素が入ったヒトもいる。
本当に様々だ。
中には爬虫類のようなヒトも居たが爬虫類をペットにしている人だっているのだから問題ないと思う……
獣人のヒト達は全員2本の足で立っている。
この場には居なかったが蛇の獣人はどうなっているのだろうか?
足が有るのか無いのかどちらだろうかと思った。
もちろん最初は本物の獣人としか思えない出来の良いメイクに、俺は度肝を抜かれた。
だが俺は『獣人が居て当たり前だ』とばかりに、なるべく平静を装い列で待つ。
こんな所で【ドッキリ看板】はまだ見たくない。
行列が【キャスト専用のトイレへと並ぶ行列でした】と言う落ちもそれはそれで勘弁だ。
これだけ体にぴったりとフィットする着ぐるみだと、噂にしか聞いた事が無いが、1人では着る事が出来ない競泳水着と同じくらい着たり脱いだりするのが大変そうだ。
トイレに行くだけでも時間が掛かるだろう。
俺はこの世界をもっと堪能していたい。
世界の裏側は見たくない……背中のチャックは常に気になるが……中のヒトは存在しない!
それにしても凄い精度の着包み達だ。
人間に近いヒト達はコスプレと言うべきか?
俺はじっくりと観察しても獣人のヒト達は着包みを着ているようには見えない。
コスプレのヒト達も、どこから見ても獣人部分との『繋ぎ目』が、俺には分からない。
最近の特殊メイクは凄いと聞く。
素人の俺には考えも付かない技術が使われているのだろう。
ワクワクしながら、後ろに並んでいる、犬の姿をした獣人に声を掛けてみた。
少しだけ、どんな反応が返ってくるのか、いたずらをしてみよう。
「おはようございます。荷揚げの仕事はこの列で良いですか?」
「あぁ」
「すごい着ぐるみですね。本物みたいですよ?」
「着ぐるみ? 着ぐるみとはなんだ?」
「他人の毛皮を被るとでも言いますか、私には上手く説明出来ませんが……」
「人間族のかつらのような物か? 俺は自前の毛だ」
「それは失礼をしました。素晴らしい毛並みですね」
「そうか? ほめてくれてありがとうよ」
いたずらは失敗した。
だが嬉しい失敗だ。
キャストの教育もきちんと出来ているようだ。
ちょっとしたひっかけにも簡単には引っ掛かりそうにない。
この世界には着ぐるみなど存在していないのだ。
その後は大人しく列に並び、待っていると、自分が受付する番が回ってきた。
そこで保証人の名前を聞かれた。
「ドカチーニの斡旋屋のドカチーニさんです。ユークリットと言います。今日からよろしくお願いします」
「ああ、お前が今日から来る新人か。ドカチーニから話は聞いている」
差配をしていた人物は初めて見る俺が何者かを納得したようだ。
それにしてもドカチーニさん。
昨日の今日で仕事が早い。
何か通信設備があって連絡を取ったのか?
思い出してみても、このイベント施設で電気を使うような物を、未だ見た覚えが無い。
上手に隠してあるだけなのか?
この異世界を思わせる雰囲気には電柱や電線は似合わないからな。
そんな事を考えていると1人の獣人を紹介された。
差配の男が獣人に向かって命令をする。
「この新人に仕事を教えてやってくれ」
案内人には女性を期待したが、現れたのは20歳前後の半獣人の男、多分猫。
猫耳付けるなら女性キャストと、日本アニメ法で決まっている、俺の中では!
本当に女性キャストが出てこない……どういう事だ?
ゲームマスター!
このままでは世界線が収束するように俺の視線もシーリンさんに収束してしまいますよ?
猫型獣人……いやヒトは帆船の中へと場所を移動して、これから運ぶ荷物を見せながら説明してくれる。
船の中は外から見るよりも狭く思えた。
だが天井は俺が屈まずに移動しても頭をぶつけない程度には高さがある。
前を歩く猫型獣人……もとい、ヒトは一度も俺の方を振り返らず、声も掛けずに移動する。
どんなヒトにもまずは挨拶だ。
俺の方から挨拶をする。
「おはようございます。ユークリットと言います。今日からお世話になります」
「仕事は成果制で荷物一つにつき十文だ。特殊な荷物でない限り一人で運べる大きさに揃えられているが、軽い荷物は人気があるぞ。新人には大変だろうが頑張れ」
「はい。よろしくお願いします」
彼とは仕事に必要と思われる最低限の言葉を交わした。
相手は俺に挨拶どころか名前を名乗る事すらしない。
見事なまでのテンプレートな説明だけの会話。
良く考えたら、俺もテンプレートな自己紹介だったな。
現場で見ると荷物の重い軽いの区別は荷物の置いてある場所でついた。
基本的に重い荷物ほど下の段に、軽い荷物ほど上の段に置いてある。
他の荷揚げ屋をしているキャスト達が率先して上の段から荷物を運び出す。
誰1人として、下の段の荷物には、手を付けない。
『ここで新人の俺が軽い荷物へ手を出して古株と一悶着』
ゲームマスターの描いたシナリオが少しだけ透けて見えた。
わざわざ喧嘩になりそうなイベントに自分から首を突っ込むのはごめんだ。
俺は率先して下の段の荷物を運ぶ事に決めた。
重い荷物を運ぶ事もトレーニングの一環だと思えば俺には全然苦にならない。
とにかく仕事を始めよう。
下の段の重いと思われる荷物を持って運び始める。
予想通り荷揚げ屋の古株達は俺に文句を付けてくる事は無い。
それどころか『呆れられた視線』を向けられていると思うのは俺の気のせいか?
荷物は確かに重いが感覚的に40キロから50キログラムくらいか?
かなり重いが箱の大きさが小さいので1人で持てない訳では無い。
中は金属か何かが入っているのだろうか?
会う人間、会う獣人、全てのヒトに挨拶をした。
だが、相手から挨拶が返ってくることはまれだった。
軽い荷物を無視して重い荷物から運び出し、誰彼構わず挨拶をする、そんな俺に奇異の目を向けてくるヒトがほとんどだった。
この【М】なヒトが喜びそうな視線もプレイの一環なのか?
返ってこない挨拶は【ぼっち】プレイなのか?
誰も俺とまともに関わってくれないのか?
もしかしたら、冒険者を職業として選びなおすまで、この仕打ちが延々と続くのか?
それとも【荷揚げ屋】なんて仕事を請けた俺をゲームマスターが【М】と認定したのか?
本物の【М】な人には、ご褒美なのかも知れませんが、俺の心はすでに折れそうです。
このまま続くと明日の朝には「冒険者の仕事を下さい」とシーリンさんへと頼みこみそうです。
とは言え今日請けた仕事はきっちりとこなさないとな。
荷揚げ屋だろうと、冒険者だろうと、仕事は信用される事が一番だ。
例え『おふざけ』で請けた仕事でも、真面目にやらなければ、次の仕事へとつながらない。
初めての荷物を初めての倉庫まで運ぶ。
場所を知ったのは前を歩くヒトの後ろに付いて行っただけだ。
その倉庫の中央に、荷物がまとめて置いてあり、運んだ荷物はそこへと置くようだ。
思ったよりも荷物を運ぶのは大変だった。
とても企画物の仕事とは思えないリアルさだ。
きつい仕事だが、筋肉トレーニングだと思えば、どうという事は無い。
他の荷揚げ屋達の動きを見ると荷物を置いた後、杖を突いたおじさんの元へ行き、何か縄のような物をもらっているようだ。
「おお。初めて見る顔だな。お前は新人か? この時間からそんな重い荷物を運んでくる奴が居るとは思わなかったぞ。だが報酬は変わらないからな。ほら、この縄が荷物を運んだ証拠だ。たすき掛けにして持っていると良いぞ」
細い縄を輪にした物をもらった。
説明を聞く限り【たすき掛けして荷物を運んだ証拠】とするらしい。
「仕事が終わったら換金所で銭に交換してもらえるからな。港湾施設関係の所ならば銭替わりにも使えるから覚えとけよ」
「ありがとうございます。ユークリットと言います。これからよろしくお願いします」
「おう。頑張れよ」
今度もテンプレートな説明会話。
こんな誰も選ばないと思われる仕事のキャストもきちんと教育されている。
このヒトも自分の名前を名乗らない。
1人からでも「頑張れよ」と返ってきただけでもましか。
もしかしたら重要ではないキャスト一人一人には名前が付いていないのかも知れないな。
今度テンプレートな説明会話をする時は是非女性を使って欲しい。
ゲームマスター様。
その時は相手の名前も教えて下さいね?
女性キャストでも攻略対象外だから、名前が付いていない、とかでもこの際構いません。
女性キャストとの親密フラグどころか、女性キャストそのものが出てきてませんよ?
やはりゲームと同じ様に条件を揃えていき、フラグを立てないと、イベントが進みませんか?
俺は2個目の荷物を運び終わり、倉庫の中央に置いた後、たすきをもらう時に倉庫中央へ置いた荷物を棚へと整理するヒトが居る事に気付いた。
気にして周りを確認すれば、荷物にも棚にも2文字で書かれた記号がある。
どうやら、それを確認して同じ記号の場所へと荷物を整理しているようだ。
ついでに荷物を運んだ証拠を渡すヒトが「たすきおじさん」と呼ばれている事も分かった。
3個目の荷物を運んできた時、倉庫の中央に置かずに、記号を合わせて棚に仕舞った。
正直言って、たとえ他人の仕事でも、俺は二度手間が嫌いだ。
少し俺の手間が増えるけど、このくらいは『サービスサービスゥ』と偉大な女性声優の声が頭の中で流れているから、全く問題を感じない。
「どこに置いても、たすき一本は変わらないぞ?」
たすきおじさんの方から俺に縄を渡しながら話し掛けてくる。
荷揚げ屋のイベントで、用も無いのにキャスト側から話し掛けられるのは、初めてかも知れない。
特殊イベントに突入か?
「構いませんよ。自分が二度手間を嫌っているだけです。」
テンプレートに感じないこの会話は、わずかなやり取りだったが、折れそうな俺の心に添え木があてられた気持ちだった。
特殊イベントは始まらなかったが、何かのフラグスイッチは押せたかも知れない。
それからは、荷物を運ぶ度に【たすきおじさん】と一言二言会話をするようになる。
俺も相手もイベントとは言えど仕事中。
長い時間立ち話をする訳では無く、たすきを受け取りながらの本当に短いやりとりだ。
その短いやりとりが俺には楽しくて仕方が無い。
仕事中、多くのヒトに挨拶をしたが、ほとんど無視された。
まともに会話をしたのは倉庫に居る、たすきをくれる、おじさんだけだった。
俺にとっては心のオアシスだ。
大好きだぜ、たすきおじさん!
この異世界企画で収集した情報を整理してみよう。
情報元はほとんど【たすきおじさん】だ。
彼は荷物を倉庫に運んだ時にたすきをくれるヒトで通称で呼ばれている。
本名は知らない。
本人も名乗らない。
名前を聞いても「おれの名前なんか【たすきおじさん】くらいで丁度良い」と言われた。
『この世界の住人は本名を名乗らない事が多い』
ふと昔テレビで見た缶コーヒーの宣伝風に言葉が再生された。
これも異世界企画の情報の1つだな。
俺が想像した通り重要人物で無いキャストには名前が付いていないのかも知れないな。
たすきおじさんとした他の会話を思い出していこう。
「この仕事に休みは無いのですか?」
「莫迦言え。銀色の月が新月と満月は、どんな仕事も、休みに決まっているだろう」
「今は何月なのですか?」
「何月かだと? 何月かはあまり気にしないな。今は何月だ? まぁ夏だな。毎日暑い」
「暦とかは無いのですか?」
「そんなもの、偉いヒトが使うくらいだな。年が変わる時は盛大な祭りがあるから分かるぞ」
「それは楽しみですね」
「なあ。お前どうしてそんなに常識的な事を聞くんだ?」
「私はその常識的な事を忘れた記憶喪失らしいのですよ」
「そうか。悪い事を聞いたな」
「いえ。気にしないで下さい。それより、もっと色々な事を教えて下さい」
「おうよ。おれが分かる範囲でな」
「話は戻るのですが、なぜ新月と満月の日は休みなのですか?」
「そうか。そんな事も忘れたのか。どちらも大変な一日になるからだな。昼に仕事などしておれんよ。もうすぐ満月、すぐにお前も実感できるさ」
荷物を1つ運んでたすきをもらう時交わす会話は無駄な世間話3割・情報7割くらいで行われた。
無駄な世間話はこんな感じだった。
無駄な世間話になるのは、たすきおじさんの方から質問された時、が多かったな。
「おまえは恋人が居るのか?」
「嫁が居ます。次元を超えていますが」
「次元ってなんだ?」
「どうしても超えられない壁が存在するって意味です」
「壁か。夫婦になった後も障害は付き物だ。頑張れよ」
「はい。ありがとうございます」
「嫁とは長いのか?」
「今期は始まったばかりなのでまだ短い付き合いですね。逢いたいですが、今は逢う事が出来ません。レコーダーの残量だけが心配ですね。」
「お前は出稼ぎなのか? もしかして距離の壁か? 嫁とは暮らしている街が違うのか?」
「気が付いたら海に浮かんでいる所を助けてもらいました。ここがどこかも分かりません。」
「そうか。立ち入った事を聞いたな。」
「やはり、嫁に逢いたいか?」
「はい。勿論です。ですが今は逢えないので、過去の嫁達との思い出に浸る事にします。」
「そんなに嫁が居たのか?」
「そうですね。1クール……だいたい3ヵ月に一度変わるのが普通でしたね。まあ大本命はここ10年近く変わらないのですが。」
「見た目や性格に反して、女遊びが激しい奴だったんだな!」
この会話以降はたすきおじさんの機嫌が悪くなり無言でたすきを渡されるだけになってしまった。
どうやらフラグスイッチがオンからオフへと変わってしまったかも知れない。
だが、【荷揚げ屋の仕事】にもしっかりとイベントがあるかも知れない希望が持てた。
こんな感じで【たすきおじさん】との一言会話を楽しみながら午前の仕事を終えた。
まさか本当に荷揚げ屋のイベントが用意されているとは思わなかったが、選んだ以上はプレイヤーとして全力で依頼をこなした。
人の倍近い重さの荷物を人の倍近い量を運んで昼休みを迎える。
そんな事になったのも、他のキャストの皆さんは、休み休み荷物を運んでいる為だ。
俺以外に全く休まず、荷物を運び続けた、荷揚げ屋はいなかったと思う。
とは言え、俺も荷物だけに気持ちを集中して運んでいた訳では無い。
午前中いっぱい荷物を運ぶ自分に与えられた仕事をこなしながら、道すがら港湾施設を見れるだけ見て、結論付けた。
この【異世界企画】かなり本気で創られている。
様々な物が無駄に細かいところまで造り込んである。
何と言ったら良いのだろう?
ここで『ヒトが住み、生きている』という、しっかりとした生活感が漂う。
波止場に停泊する大きな帆船1隻1隻も、実際に海を航海する事が出来そうだ。
どこかの島をまるごと巨大なセットにしたような、見渡す限り異世界の雰囲気を満喫できる施設がある事を、俺は今まで全く知る事は無かった。
極秘に進められた世界的な企画だろうか?
それにしてはここのキャストが使っている言語が【日本語】だ。
そして、俺のような、ビジターと思われる客も少ないと思う。
ビジターもキャストと同じように、異世界の雰囲気を壊さないように役割を演じている可能性も否定は出来ない。
俺自身も、この世界でロールプレイをして、楽しみたいと思って居る。
それを含めて考えても、まだ正式オープンした娯楽施設、と言った感じがしない。
俺の異世界好きを知っている社長が【プレオープンチケット】でも持っていて、俺へのサプライズ企画を考えてくれたのか?
ここは俺にとってはまさに【夢の島】だ。
うん?
何か言葉から漂う雰囲気が悪いな。
まさに【夢の国】だ。
悪化した。
これはもっと色々とやばい雰囲気の言葉になったな。
まさに【夢の異世界】だ。
よし!
この言葉なら問題無いだろう、多分。
港湾施設は一応昼休みとなった。
そのまま仕事を続けるのも休みを取るのも自由に決める事が出来るようだ。
成果で報酬が決まるのだから真の意味での裁量労働制だ。
俺はきちんと昼休みを取り昼食を食べる事に決めた。
探せば他にも食事をする場所はあるだろうが、まずは馴染みの店を作りたい。
そんな気持ちもあり、俺は昼飯を食べに、ドカチーニの斡旋屋へと戻った。
帰って来ると、ドカチーニの斡旋屋は昼食を食べに来たヒトで、あふれていた。
昨日俺が起きて、ドカチーニさんとシーリンさんに会った時とはえらい違いだ。
あの時は俺の他には1人も客はいなかった。
仕事を斡旋する朝と昼休みの食事を食べる時間は昨日の午後遅くの時間と違って人が多い。
キャストの皆さんも一斉にお食事タイムのようだ。
休憩時間でも着ぐるみを脱がないキャスト達に徹底したプロ意識を感じる。
シーリンさんが食事をキャスト達の元へと次々と運んでいた。
彼女の笑顔で癒され、午前の疲れが吹き飛ぶ、そんな気にさせてくれる素晴らしい笑顔だ。
最高の笑顔を振りまきながら昼食を配る彼女が、俺の所へと注文を取りに来るのを待った。
だが俺の幻想を打ち砕き、ラスボスすら瞬殺する雰囲気を纏う男が、俺の元へとやって来る。
ドカチーニさんの目と俺の目が絡み合う。
左右と後ろを確認しても、斡旋屋の入口に立つ俺の周りには、誰1人としてヒトがいない。
「よう。おかえり。港での初仕事はどうだった?」
「前の仕事でも荷物を運ぶ事がありました。やった事がある仕事なので何とかなりました」
「そうかそうか。それにしても大分運んだな。二十本くらいあるな? 俺が知る限り午前中で十本ぐらいが普通だ。初日で張り切っているのか? あまり張り切り過ぎて魔力切れ起こすなよ」
「大丈夫です。まだまだいけます。午後も沢山運んできますから」
「そうか。荷揚げ屋の仕事を割と気に入ったようだな。俺としては、お前のような魔力が大きい奴には冒険者になって欲しいが、こればかりは自分で決める事だ。無理は言わん」
「少なくとも今日一日は荷揚げ屋の仕事を最後までやりますよ」
「ああ。そこは最後までしっかりやってくれ。お前を斡旋した俺の立場もあるからな」
最後に豪快に笑ったドカチーニさんとそんな会話を交わした。
他のヒト達の平均が10本前後だったとすると、小さい事だが【異世界無双】をさせてくれているのだろうか?
ビジターがちょっとした【無双】を楽しむ為に、キャストの皆様は荷物を運ぶ度に休憩を取っていたのか?
そして最後にさり気なく【俺を冒険者へ誘導する事】を忘れない。
やはりこのゲームマスターは芸が細かい。
俺は昼食を食べる為にカウンターへ移動した。
配膳をしない時はシーリンさんは必ずカウンターの中へと戻る。
シーリンさんの周りは男達が囲んでいたが、俺の注文を取る為に彼女が移動してきた。
男の視線も彼女を追い俺の方へと移動してくる。
「シーリンさんただいま。お勧めで昼食を頼みます」
「おかえりなさい。お勧めですか?やはり『日替わり定食』ですね。安くて美味しいですよ」
「では日替わり定食でお願いします」
ベルトポーチから昨日もらった金を出そうとするとシーリンさんに止められた。
「金銀のような大きなお金を出されてもお釣りに困りますから。日替わり定食でよければたすきを二本下さい。ここでは銭代わりにそれで食べられます。ベルガーさん日替わり一つ!」
「あいよ」
カウンターの端にある隣の部屋へ繋がる入口、きっと厨房から獣のような声が返ってきた。
シーリンさんの近くは色々な意味で飢えた男たちに占拠されているので、たすきを2本シーリンさんに渡すとカウンター席でも誰も居ない奥を目指す。
先程、獣のような声が聞こえてきた、隣の部屋の入口の近くだ。
そこから食べ物の良い匂いが漂ってくる。
俺は間違いなく厨房だと確信した。
1席だけでも座れる椅子が残っていて良かった。
俺はカウンターの1番隅に椅子を置くとそこへと座った。
やはり世界線……ゴホンッ……男の視線はシーリンさんに収束しているようだ。
シーリンさんの近くへと向かう為、カウンターで使われている椅子は全て寄っている。
俺の隣3席分は椅子が彼女へ寄っていて無くなっている感じだ。
5分もすると焼き魚定食が出てきた。
日替わり定食で、こんな事を言うべきで無いかも知れないが、朝の賄いと同じメニューだ。
白いお米の代わりにパン、味噌汁の代わりにスープ、なのに主菜は焼き魚、という日本人的にはあり得ない組み合わせを無視させるくらい、凄い獣人……もう獣と言っても良いヒトが食事を運んできた。
運んできたのは2メートルはある【巨大な熊】だった。
あぜんとした俺は挨拶をするのも忘れて、隣の厨房へと帰る熊さんを、見送ってしまった。
食事はパンが硬かったが、身の締まった焼き魚は塩加減がばっちりで、スープも野菜の旨味がたっぷり引き出されていて、朝食と同じで凄く美味しかった。
3食同じメニューでも十分食べられる美味しさだ。
午後の仕事を始めると午前とは違う景色が目に入ってきた。
通路に出来るわずかな日陰へ1人ずつ痩せた子供が座っていた。
1周目で通路全体の様子を確認した俺は2周目に子供達にも挨拶をする事にした。
通路には合計20人近くの、髪の毛が体全体を覆うほど長い、痩せた子供達が座っていた。
子供達の髪の毛が体全体を覆うほど長い事に【記憶の奥底に封じて置きたい幼馴染】が記憶の奥底にある扉をこじ開けて指が表に出て来るが、俺はすぐさま記憶の奥底へと蹴り返し、扉をきっちりと閉じて鍵を掛け直す。
この素晴らしい世界に奴の存在は絶対に要らない!
気を取り直して、まずは船から一番近く、日陰に入りきれなかった2人組に声を掛ける。
子供達は全員髪が長いし痩せている。
俺には外見から男女の区別が付かない。
「こんにちは。日向では暑いでしょう?日陰に移動したらどうですか?」
俺の質問には一切答えず、赤い瞳が印象的な金髪の子供が凄い勢いで逆に話し掛けてくる。
「魔力の補給ですか? わたし達は二人でたすき三本です!」
青い瞳の子供も首を縦に振りながら紅い瞳の子供の言葉を肯定している。
魔力の補給?
何かのイベントなのかな?
荷揚げ屋の仕事にも複数のイベントが用意されているようだな。
やはりこのゲームマスターは芸が細かいようだ。
今日のところは見送って斡旋屋に戻ったらドカチーニさんかシーリンさんに聞いてみるか。
「違います。挨拶をしただけなのです。勘違いさせたのならごめんなさい」
あきらかにガッカリする2人。
その後、子供に挨拶する度に同じ様な反応が返ってきたので、俺は挨拶をする事を止めた。
俺の心のオアシスは、たすきを渡してくれる通称【たすきおじさん】だけだ。
そんな彼も、午前中の何気ない会話で怒らせたのか、世間話をしてくれなくなった。
それでも「初日から飛ばし過ぎるなよ? お前が毎日来てくれる方がおれ達は助かるからな」
等と俺を心配して声を掛けてくれたりした。
彼の機嫌が直ったかと思ったが、世間話には乗ってきてはくれなかった。
とは言え、たすきおじさんのフラグスイッチを押した自信はある。
相手が可愛い女の子だったら最高だった。
太陽が大分西に傾き、通路の日陰も増えてきた頃。
俺も少し疲れを感じ始めていた。
そんな時だ。
子供にたすきを渡して魔力補給をしている荷揚げ屋の姿を見た。
子供と荷揚げ屋がしばらく握手をしている。
その後、荷揚げ屋は元気を取り戻し、子供はぐったりとその場に倒れ込む。
ここのキャストは子役もたいした演技力だ。
本当に脱力した感じで倒れ込んでいる。
熱中症が心配だが日陰も増えてきた。
子供達の安全対策は大丈夫なのか?
ゲームマスター。
本物感を出すのは良いけど、子役にこの演技をさせるのは、流石にやりすぎだと思います。
何人かの子供が日陰でしばらく倒れていた。
多分、荷揚げ屋へと魔力を渡した演技なのだと思う。
倒れていた子供達はいつの間にか消えていた。
夕方へなる前に、船から運び出す荷物が無くなり、多くの荷揚げ屋が1軒の建物へ向かう。
俺も他の荷揚げ屋を見習うように後ろをついて行った。
荷揚げ屋の行き先は換金所だった。
俺も換金所でたすきを銭に代える。
縄に通した銭の束を5本と小さい銭を10枚をもらった。
銭には大きな銭と小さな銭があり、どちらにも真ん中に穴が開いていた。
日が高いうちに仕事が終わったので情報集めを兼ねてドカチーニの斡旋屋へまっすぐ帰る。
昨日と同じならば、この時間ならあまり人は居ないだろう。
色々と疑問が生まれた。
聞きたい事が沢山出来た。
斡旋屋への帰り道。
生まれた疑問と聞きたい事を頭の中でまとめていた。
足には草鞋がすれた部分に豆が出来ていた。
演出にやりすぎな所もあるが、この時はまだサプライズ異世界企画だと、俺は信じていた。