何が正しいかなんて本人が一番分からないもの
「わたしが、狙われてる? 一体誰に?」
突如として須川の口から出される言葉に理解が追いつかない。
これまで誰かに襲われるような恨みをかった覚えがないからだ。
「志穂ちゃんの好きなサッカー部の先輩だよ。名前は確か飯塚桂介だったかな」
飯塚桂介。志穂がマネージャーとして活動しているサッカー部の先輩。チームを束ねるキャプテンであり、プロチームからもスカウトを受けるほどの実力を持つエースストライカー。
そして、志穂が惚れている人物でもある。
志穂がそもそもサッカー部のマネージャーになったのは、飯塚が所属していたからだ。飯塚がサッカー部にいなければ、マネージャーなんてめんどくさいことはやらなかった。
飯塚に好意を持つのは志穂だけではない。
他に言えば、サッカー部のマネージャーは志穂だけではない。
そう、お察しのとおり飯塚桂介はモテる。それもかなり。
サッカーが上手いのもあるが、1番の原因はイケメンであることだろう。
サッカーが上手いからモテるのではなく、イケメンでついでにサッカーもできちゃうからモテるのだ。
だからこそ理解ができない。
「な、なんで飯塚先輩がわたしを……お、襲う? え、なんで?」
めちゃめちゃモテる飯塚先輩が、数多いる好意を持つ女子Aの自分を何故襲うのか。それを考えたとき、当然のように1つの結果が頭に浮かぶ。
これは嘘だ。目的は知らないがおそらく須川は自分を騙しているのだと。
「先に言っとくけど、別に嘘はついてないよ」
「! い、いや嘘ね。先輩がわたしを襲うなんてことするはずない。だ、だって――」
先輩はとても優しい人だから。そう言おうとしたとこで、
「嘘なんかじゃない!」
須川が2人を挟む鉄格子を蹴りながら急に叫びだした。明らかに怒っているのが目に見えて分かる。
その姿に志穂は何も言えなくなってしまう。自分ではないにしろ、須川の蹴りに初日に似た恐怖を抱いてしまった。
腹を蹴られ、頭を掴まれ、須川はあの1回で志穂を服従させ、その結果ここまで須川の機嫌を損なわないように気を配っていた。
だが崩れた。志穂を見る須川の顔は、とてもとても――――――――とても怖い。
今にも恐怖で泣きそうな顔の志穂。今にも怒りで人を殺しそうな顔の須川。
お互いの目が合って3秒ぐらいが経った。
「あぁ、ごめん。驚かせちゃったね」
最初に動いたのは須川。今の志穂の状態を見て少し冷静になったのか、表情から徐々に怒りが消えていく。
だが志穂の方はまだ震えたまま動けないでいる。
「いや、ほんとに悪い。急に手を出すのは僕の悪い癖みたいだ。で、でも志穂ちゃんの方も悪いんだよ? 僕の言うことを信じてくれないんだから。僕は確かにひどい人間なのかもしれないが絶対に嘘は吐かない。そ、そう絶対に」
言葉を並べていくうちにいつもの須川に戻っていく。無責任で絶対的な自信を常に持つ須川正義その人がそこにいた。
いつも見てきた須川が戻ってきたが、志穂の方はまだ恐怖が張り付いたまま動けないでいる。
頭ではもう大丈夫と分かっていても体の方が痛みを覚えているのか、尻が地面から離れない。
だがそれでも、聞こうと思う気持ちは口から出て行こうとする。それは、この問いの答えが今の自分の状況に対する答えだと思うから。だから、
「そ、その、ど、どうしても分からない。なんで先輩がわたしなんかを襲うのかな。いや、そもそも先輩が誰かを襲うなんてことすら想像できないの。だ、だって先輩は優しいから。そう、とにかく誰に対しても優しいの。そんな先輩をみんなは信頼している。わたしも、その1人。いや、信頼じゃない。わたしは好きなの、優しい先輩が、サッカーをする先輩が、笑顔を向けてくれる先輩が。だ、だから……分からないの。嘘じゃないなら教えて。先輩がわたしを、わたしなんかを襲う理由を」
ここには助けに来ない人への告白を、須川は黙って聞いていた。その顔はかなり険しい。
だがそれも一瞬のこと。須川は何かを決心したのか、堂々とした顔で志穂の前まで牢の中に入る。
入ってくる時、志穂は再び怯え始める。間違えたと確信した。
また、お互いに目を合わせるだけの時間がやってきた。
片方は怯え、片方は真剣そのもの。
「志穂ちゃん、その、あまりその目で僕を見ないでくれ。その、とても辛い」
最初に動くのもやはり須川。だがさっきと違って、今の言葉はとても悲しく、苦笑いを浮かべている。
須川の言葉に、表情に、志穂の震えは次第に止まっていた。
体が、本能が、須川への恐怖心を改めさせた。
「ご、ごめんなさい」
自然と口から出た謝罪。一体何に対してなのか、志穂自身も分からない。特に悪いことをした覚えはないのだから、する必要なんて無いのに。
「あ、いや志穂ちゃんが謝ることなんて何ひとつ無いよ。僕がそうさせてしまったんだからね。そうだね、まずはあの時の謝罪からしたほうがいいかもしれないね」
「あの、時?」
「そう、僕が志穂ちゃんを蹴り上げ、頭を掴んで脅迫紛いのことをした時のこと」
須川はそのまま地面に頭をつけ、満点の土下座で志穂に謝罪をする。
「あの時はホントに悪かったって思ってる。僕もいろいろ興奮しててその、なりふり構わずだったんだ。志穂ちゃんにはここにいてもらおうと、とにかく必死だったんだ。それで、その、蹴ってしまったり、頭を掴んでしまったり、その、ホントにすまなかった! あの、その、ごめんなさぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
必死な謝罪が涙目の志穂と、静かな牢によく響いた。
志穂は自分のお腹をさすっていた。とっくに痛みは無かったが、植えつけられた恐怖の種は確かにさっきまでそこに根付いていた。
だが何度さすっても、もうそこには種など無かった。さっきの謝罪で、種から芽が出ることなく、枯れていった。
確かに感じた心からの謝罪。必至で、不器用で、心の篭ったものだと錯覚してしまいそうになる。
決して許されることではないし、そもそもこの拉致監禁の方が許してはいけないことなのに。それなのに、
「も、もういいよ、うん。もう……いいよ……」
この人の、須川の全てを許してしまいそうになる。こんなにも正直な人を、志穂は他に知らない。
許してはいけない。許してしまったら、須川の今までの行為が全て正当化されてしまう。それだけは、絶対にあってはならない。志穂が自分自身を保つためにも。
「顔をあげてよ。もういいからさ、先輩がわたしを襲う理由ってのをそろそろ教えてくれない?」
いつもの調子に振舞って見せている。見せているだけで、志穂自身、まだあやふやだ。
「そ、そうだった。あ、いや、でも……」
「ん? どうしたの、急に口籠もっちゃって」
ここで言いよどむのは須川らしくないなと感じる志穂。いつもなら自分の言いたいことを何も考えず喋る須川だが、どこか歯切れが悪い。
「まぁ、その、うん、僕はね、あまりこの話を志穂ちゃんに聞かせたくない」
「は? ここまできてそれはないでしょ」
「で、でも……」
「いいから、話してよ。わたし気になるの。わたしの知ってる先輩はとても優しい人。そして、わたしの知ってるあなたはとても正直な人。だから知りたい、どっちが正しいのかを。ねえ、教えて」
真剣な表情を、今度は志穂が浮かべる。意見を変える気は、今更ない。
「……分かった。まぁ、こうなるだろうなとは思ってはいたよ」
そう言いながら須川がポケットからスマホを取り出した。
「ここにはね、飯塚桂介の音声が記録されているんだ。どうやって録ったかは企業秘密だから教えられないけど、ここにあるのは正真正銘の彼自身の口から出る真実しかない」
須川の言葉に嘘はないと感じる。根拠はないが、今日まで過ごした3週間がそうだと告げる。
「じゃあ、流すけど……いいよね?」
「う、うん……」
志穂の言葉を合図に、須川はスマホから音声を流す。
長かったような短い沈黙が何秒か経った後に、スマホからは志穂のよく知る声ともう1人の男の声が流れてくる。