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それは出会い。しかし……。

 唐突だが、時は1年前まで遡る。

 時刻は7時半の満員電車の中で、須川正義はつり革を片手に揺れていた。

 その空間は、小太りの須川には少々息苦しくあった。

 今日もなにも楽しくない会社に向かわなければならない億劫さといったらもう最悪と言っていいほどだった。

 気軽に話せる同僚がいるわけでもなく、自分より上手くやる後輩がおり、女社員にだけ優しい無能の上司。

 その会社に須川の居場所など無いに等しかった。


 それだけではない。

 須川は独身で、家に帰っても誰かがいることは無かった。

 親はもう2人とも他界しており、真の意味で須川という人間の居場所はどこにも無かった。

 ただ流されるままに、時の流れに逆らうことなく自分という存在がどこかの歯車として機能し続けていられるように。


 だがそれも終わりに近づこうとしていた。

 つり革を握っていないほうの手を急に誰かに掴まれ、


「この人、痴漢です!」


 20代後半の女性に腕を思いっきり上げられた。訳が分からずそのまま呆然と固まってしまう。

 もちろん須川は痴漢などしていない。それよりか、その手はずっとカバンを握っていたため、痴漢など出来ようも無かった。

 だが、そのカバンも急に腕を上げられた勢いで落としてしまい、須川の手に無実を証明するものは何も残っていなかった。


 須川は悟った。あぁ、人生とはこうも無慈悲に完結していくんだと。

 そもそも生きがいというものが須川には何も無かった。生きがいが無ければ、生きる力というものは何も出てこない。

 故に須川は、冤罪の罪を着せられようとしているこの状況を何とかしようとは微塵も思わなかった。

 何も言ってこない須川を、痴漢を認めたと思い込んだのか、女性は次の駅で降ろそうとする。

 周りの乗客も、視線だけはこちらを見ているが誰も関わろうとはしてこなかった。

 まぁ、そんなもんだと。自分みたいなおっさんを助けてくれるような世の中では無いことは自分が良く理解している。


 だからこそ、


「あのー、その人、痴漢していませんよ」


 どこからか出てきた救いの手を差し伸べてくれた制服姿の少女に、生まれて30年はじめての恋をしてしまった。


「とりあえず、その人の手を離してあげませんか?」

「だ、駄目よ。そしたらこの人逃げちゃうじゃない」

「この満員電車じゃどこへも逃げられませんよ」


 そりゃそうだ。だが、それが無実になる証明にはなりえない。


「ねえ、おっさん」

「え? な、なに?」


 いきなりの呼び掛けにたじろいでしまうおっさん。


「このおばさんに、自分はやってないって言いなよ。言葉で言わないと、何も変わらないよ」

「お、おばって! まだ29――」

「黙ってておばさん」


 少女の迫力に今度はおばさんがたじろいでしまう。


「私は見てたよ。おっさんはカバンを持ってて痴漢なんか出来なかった」


 だから少女は言う。大丈夫だと。

 それは、どこにも居場所の無いと感じていた自分に、光を差してくれるとても温かい言葉。


「……や、やってない。ぼ、僕は痴漢なんか……してない……」


 背中を押され、やっと言えた。

 もう何年も言えなかった自分の意思から、ようやく発せられた自我の言葉だった。


「なんだ、できるじゃん」


 須川の言葉を聞き、満足したのだろうか少女はおばさんの方へ向いて、


「ほら、おばさん。何か無いの?」 

「……ふん! いいわ、そういうことにしといてあげるわ」


 そう言うと、ちょうど駅に到着したとこでおばさんは電車から去っていった。

 それと同時に多数の乗客が乗り降りしていく。人の波が形成され、須川と少女がその波に飲まれ逸れてしまった。

 お礼がまだ言えてなかった。須川の後悔が残りながら、今日はそれ以降会うことはなかった。

 須川は惹かれた。それは、あの時抱いた恋とは形を変えていったものだった。

 正義感。須川の心には、それ以上の言葉では表せない感情が確かに芽生えていた。

 今度は自分が少女を守る番だと。新たな生きがいを、光を、須川は見つけてしまった。

 これがどれだけ歪な形で侵食してくるなど、当の今守られようとしている本人は知りえる範疇になかった。


 そう、これこそ須川と少女の最初の出会いであり、須川が志穂を監禁するまでに至ったきっかけの物語であった。

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