覚悟虚しく屈辱はいつにでも②
「……聞いてみないと」
自分の気持ちもそれで理解できると信じて。
志穂の思考が纏まった時、ちょうど須川が扉を開けて入ってくるのが聞こえた。
牢の前まで来た須川の手には水の入った桶とタオルが入っている。
「いやー、またせたね。水が思ったより重くてね、よいしょっと」
そのまま牢の中に入り桶とタオルを志穂の前に置く。
「じゃあ、僕は後ろ向いているから終わったら言ってね」
牢から出てそう言うと、須川は鉄格子に背を向けたまま座り込む。
「……出て行ってはくれないのね」
「はは、まあ僕のことは気にしないでくれ」
志穂はため息をつきながら須川に背を向け、服を脱ぎだしていく。
お互いに背を向けながら、タオルで体を擦る音が静かな牢に響く。
タオルで水を絞り、また体を拭く仕草を交互に続けていくこと数分。
もう髪の毛も拭き終わって来た頃、先ほど思考していた疑問をぶつけようとする。
「ねえ……」
言葉と共に反射的に須川の方に体を向けてしまう。
「ん? なに、終わった?」
それと同時に須川も反射的に志穂の方へ体を向けてしまう。
空気が凍った。
お互い視線を相手の顔だけに集中しており、須川に関しては逸らすことは許されなかった。
今この場に凍りついた空気を溶かすものはいない。
いるのは裸で水に濡れたまま固まった女が1人と、決して視線を下に逸らさないよう踏ん張っているナニが固まったまま動けない男が1人。
一言も発さず数秒が経ったであろうその時、
チラッ
と、耐え切れなかったのか須川の視線が下に動いた。
「ちょ⁉ 何見てんのよぉぉぉぉぉぉ!」
「ああああああごめんごめんごめんごめんなさーい!」
志穂の激昂で凍りついた空気が一気に蒸発したのと同時に、須川の語彙力のない謝罪と見事なサラリーマン土下座が繰り出していく。
土下座の前には裸を見られへたりこむ志穂が、念仏のようにぶつぶつとつぶやいている。
「あー、死んでやるわ。裸を見られた、わたし、もう、死ぬしかない、さよならみんな」
「いや、ほんと悪かった! 確認を怠った僕の責任だ! だから死なないでくれ! なんでもするから! それ相応の罰を受けよう!」
なんでもすると聞いた志穂はおもむろに顔をあげる。
「じゃあ、わたしをここから出して」
「それは無理」
即答だった。
「そもそも裸を見られたって言うけど、タオルで胸は隠してたじゃん」
いきなり自分の罪を軽くしようと説得を試みようとする須川だが、
「でも、陰部は隠せられなかったわ」
「うん、そうだね」
須川は嘘をつくことはできず。それどころか自ら白状してしまった。
「はぁ、じゃあわたし死ぬから。今までお疲れ様でした」
「ちょ、ちょっと待って1回待って! お願いだから」
30過ぎたおっさんが女子高生に土下座して懇願する姿はどうにも滑稽というより犯罪的である。もう誘拐している時点で犯罪なのだが。
「ここから出る以外の願いなら何でも聞くから! お願い!」
そう言われると舌を嚙みちぎろうとする口を緩め一旦、死ぬことを中止する。
脱出以外とは不満だが、土下座するには大抵のことは聞いてくれるだろう。
そう思い志穂の口元は、この場所では一度もしなかった笑顔、それも悪魔的で悪いことを思いついた子供のような笑顔がそこにあった。
「ふーん、じゃあさ、この足枷外してよ」
「それも無理」
またも即答だった。
「な、何でよ! 何でもって言ったでしょ!」
「足枷は無理。僕がいない時に外に出られても困るから」
誘拐犯が外に出ようとする要求を許すわけがなかった。
だが志穂は、今の須川なら許してくれると踏んだわけだが、少々舐めすぎたようだった。
「んじゃ、今からわたし死にます」
「待って、まだ死ぬのは早いよ。僕からいい提案がある」
そう言うと須川は走って外に出た後、数秒の後また牢に戻ってきた。
その手には女性モノのワンピースと下着が握られていた。
「そろそろ服を着よう! ずっとそのままだと風邪をひいちゃうよ。それに1週間も制服だとなんか嫌じゃない?」
志穂は未だ自分が裸のままへたり込んでいることに気付いた。
それと同時に須川がもう完全に自分の裸をガン見していることに気付き、顔が茹で上がっていくように赤くなってきていた。
「……」
無言で固まってしまった志穂に、何か思いついたような顔をして、須川は持ってきた下着を見ながら提案してくる。
「足枷しちゃってるからパンツを履くのは難しいね。でも大丈夫。1個1個順番に交互に僕が外しながら履かせれば何にも問題ないね」
恥ずかしさで茹で上がっている志穂の気など知る由もないのか、さらに燃料を投下していく。
「……置いて……け」
「ん?」
須川は聞き取れなかったのか、さらに近づいて確かめようとする。
近づいてくる須川に、涙目の志穂が顔を思いっきり上げ、
「服と下着だけ置いて出ていけー!!」
窓のないこの牢によく響いた。
これだけの叫びをあげたのは、誘拐された当日の怒りが爆発したとき以来だった。
その時とは違い、須川が志穂に蹴りを出すことはなかった。
須川が今の自分がどんな状態なのか自覚してしまっていた。
傍から見れば誘拐犯が監禁した裸の女の子に迫っているという構図だ。この状況は須川に完全に非がある故に、志穂の叫びは当然のものと言えた。
「あ、あ、あああごめん! 今出るよ! 服と下着ここに置いとくから終わったら言ってね! 僕は後ろ向いとくから気にしないで!」
「そう言ってまたわたしの裸を見るんでしょ! もうわたしの前から出て行って!」
前科があるので志穂の叫びに逆らうことはできなかった。
須川はそのまま言うとおりに志穂の前から消えるように出て行った。
その場に残されたのは裸にタオルで隠しきれてない志穂がただ1人。
1週間で少し汚れてしまった制服を着るより、今渡された新品の下着とワンピースを着る方がマシと考えた。
だがしかし、先ほど須川が言った通り、ブラジャーは大丈夫として、パンツの方は足枷があるため履くことはできなかった。
故に志穂は1週間履き続けているパンツを使い続けなければならない。
「でも、あいつに履かせられるのはもっと嫌だしなあ……」
志穂は結局そのまま使い続けることにした。
その後すぐさまブラジャーを付け、ワンピースを着ていくが、志穂はあまりにもいい着心地に疑問を抱いていた。
「サイズ……ぴったりなんだけど……」
ワンピースはおろか、ブラジャーのサイズまで志穂の体にはまっていた。
その事実に須川というものが何なのかを再認識する。
さっきまでラブコメみたいなハプニングを繰り出していた人物とは思えないほど、当初抱いていた須川という恐怖が蘇ってくる。
それでも今の志穂はあの時ほど震え怒ることはなかった。
須川と過ごしたこの1週間が彼への印象を悪くないものにしてしまっていた。
それほど須川は優しかったのだ。当初の恐怖が薄れてしまうほど、あの時怒鳴ってしまった自分が悪いような錯覚にすら陥ってしまうほどに。
もちろんあの時の自分が悪いだなんて思っていない。完全に非はあちらにあり、自分はただの被害者なのだ。
そう、被害者。志穂は自分にそう言い聞かせるが、どうにもその自覚が出てこない。
「どうしたんだろう……わたし……」
須川への嫌悪感は未だにある。だが、どうにも憎めない。
志穂の心は今、とても不安定だ。いや、それは1週間前からそうだったのかもしれない。
無自覚ながらここまで、うまく生き残ろうとするあまり須川に対して好意に似た何かを抱いてしまった。
そうすれば、少なくともあの時みたいな恐ろしい暴力で自分を押さえられることは無い。
結果的に今、志穂は須川とうまくやっている。志穂にそのつもりが無くとも、本能がそう動かしている。
「あ、聞きそびれちゃった…………なにを?」
はて、一体何を聞こうとしていたのだろう。
確か重要なことを聞こうとしていたようだが、もう志穂の頭にはその疑問はすっかり消えていた。
おそらく、それはどうでもいいことなのだと思う。明日を生きるのに■■の■■は、さほどは重要ではない。
「まぁ、いっか。今日はもう疲れた。寝る」
体をベッドに預けると、すぐさま意識が体から離れていく。
おやすみなさい。また明日、会いましょう。
囚われの姫にしては、今の志穂の寝顔は、それはそれは穏やかであったといえるだろう。