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最終章

 1

「ラムラス!」

 女は空に向かって指笛を鳴らした。

 暗幕を引いたような天空に雪と見紛うほどの白い点が微かに見えた。やがて、それが白い鷲だとわかるほどの高さまで降りてきたとき、裕哉は驚いて後退ってしまった。 今までこんな大きな鳥を見たことがないし、こんなものがこの世界に生息すると聞いたこともなかった。


「なんなのこれ?」

「こいつはラムラス、私の魔獣だ」

 大鷲の背に女はひらりと飛び乗った。

「魔獣ってなんなの?」

「余計なことはしらなくていい。さあ、おまえも乗れ」

 女は裕哉の襟髪をつかむと、軽々と引き上げた。

 仕方なく、女の腰につかまると、鷲はフワリと宙に舞い上がった。

「振り落とされたくなければ、もっとしっかりとつかまれ」と、女はいった。

「いいの?」

  裕哉は不安そうに尋ねた。

 クラスの女の子は裕哉と躰がちょっと触れただけでも大騒ぎする。

「病気がうつったらどうすんのよ」と、睨まれたこともある。 落としたハンカチを拾ってあげたときには、目の前でゴミ箱に捨てられたこともある。

「何をためらっている。恥ずかしいのか?」と、女はいった。

「ううん」 裕哉は首を振ると女の背中に顔を付けた。とても暖かで、甘い香りがした。 鷲は高い空を目指して、羽ばたきを強めていく。不思議と寒さを感じなかった。鷲のは中空の一角に達すると、そこで上昇をやめ、ヘリコプターがホバリングするようにとどまった。


「下を見てみろ」と、女がいった。

恐々、背中から顔を離してみると、町の灯りが小さく足下に見える。山間のわずかに開けた隙間に張り付くように町はあった。

「あれがお前を虐げてきた者たちが住む町だ。そしてそれは今、お前の手の中にある」

「どういう意味?」

 女は袖口から玉を取り出し、裕哉に渡した。ソフトボールくらいの大きさのガラスの玉だ。覗いてみると、ガラスの中に 真っ赤な炎がとぐろを巻いていた。

「それはおまえの心のなかにある怒りや憎悪を封じ込めた炎だ。そいつをここから投げ捨てればいい。こんな小さな町なら跡形もなく 焼きつくしてしまうだろう。ばれる心配も一切ない。お前は別の町で人生をやり直せば良い」

  女は冷酷な笑いを浮かべていった。


 裕哉はもう一度、自分の手の中にある玉を覗いてみた。 押入れの中に閉じ込められて息を潜めている保育園児の自分が見えた。 次に見えたのは掃除用具箱に押し込められ、「死ね! 化物」と罵られている小学生の姿だった。 最期にみえたのはドラム缶の中に尻を蹴飛ばされながら、追い立てられる中学生の自分だった。 惨めな自分の姿に裕哉は顔を背けた。


「おまえには報復する権利がある。容赦はいらぬ。おまえの怒りをぶつけてやるがよい」


(そうだ。ぼくには権利があるんだ。ぼくをいじめた奴も、それを見て見ぬふりをした奴らもみんな死ねばいいんだ)

 裕哉は玉を両手で握りしめると、それを振り上げようとした。そのとき炎の中に微かな青い光が目に止まった。なんだろう、そう思って、顔を近づけてみる。


 今度は幼い自分が大きなバイクの前でしゃがんでいるのが見えた。

「カッコいいだろ? 乗ってみるか」 リーゼントの若者が後ろから声をかける。

「ほら、これがアクセルだ。絞ってみろ」

  若者は裕哉を抱き上げて、座席に乗せてくれた。


 小学校に通う道の途中にあるパン屋のおばさんに、元気よく「おはよう!」と挨拶する裕哉。 おばさんがあんぱんを裕哉のランドセルに入れてくれる。

「車に気をつけて、行くんだよ」と裕哉の頭を撫でてくれた。


 家を追い出されて、廊下で震えている裕哉を見つけると、部屋に招いて暖かいココアを飲ませてくれた、大学生のお姉さん。 卒業して、引っ越しいていくお姉さんの車に向かって手を振り続ける裕哉。


 最後に映しだされたものを見て、裕哉は嗚咽をもらした。

 自分とさほど歳の変わらない少女が小さなアパートの一室で、赤ん坊にお乳をやっている。

「お父さん、出て行ってしまったね。でも母さんは平気だよ。おまえがいるんだもん。がんばってみせるよ」

 少女は赤ん坊に頬ずりしながら微笑んだ。


 次に少女と赤ん坊は夜の公園のベンチに腰掛けていた。 泣きわめく赤ん坊を少女は懸命にあやしている。

「お願いだから、もう泣かないで……母さん、もう疲れちゃったよ」

 少女は一つため息をつくと、大きなバッグを持ち上げて、とぼとぼと歩きはじめた。その頼りなく儚げな後ろ姿に裕哉は思わずつぶやいた。

「おかあさん……」

(ぼくたちはどこで間違えてしまったの)


「どうした、やらないのか?」

 女の声で裕哉は我に返った。

「やっぱりぼくにはできない」

  振り上げた玉を静かに下ろした。

「ならば、私が代わりに天罰を加えてやる」

  女が裕哉の手から、玉を奪い取った。

「やめて!」 裕哉は必死で女の手に取りすがった。自分でもなぜなのかわからなかった。もみ合った拍子に、女の手から玉が滑り落ちた。

「あっ!」

  落ちていく玉に向かって、手を伸ばした拍子に身体がずり落ちそうになる。 「自分が死んでどうする」

  女が裕哉の腰のベルトを掴んで、引きずり上げた。

「でも、みんなが死んでしまう。いい人だっていっぱいいたんだ。母さんだって……最初からぼくが憎かったわけじゃない。きっと疲れ果てて、壊れてしまったんだ」

 裕哉は涙ながらに訴えた。

 女が突然、カラカラと声をあげて笑った。

「やさしいやつだな。心配するな。おまえの憎悪の炎はもう消えている」

  女はゆらゆらと落ちていく玉を指差した。


 今はもう宇宙からみた地球みたいな碧い色に変わった玉は中空にしばらく留まると、パチンと破裂した。その欠片が月の光を反射してキラキラ光り、降り注ぐ雪を碧色に染めていく。碧い雪はユラユラと舞いながら、小さな町を清めるかのように落ちていった。


 シャーベットブルーの雪に覆われた工事現場に女と裕哉は佇んでいた。

  「ごめんなさい。せっかくチャンスをもらったのに……」

 裕哉は項垂れた。

「謝ることはない。おまえは人として立派なことをしたんだ。誇るが良いよ」

  女は裕哉に歩み寄ると、その両手で頬に触れた。

「汚いよ」

 裕哉は腰を引いたが、女は頬を挟んだ手を離さなかった。冷えきった頬に血の気が戻ってくるような暖かさを裕哉は感じた。


「汚いものか。おまえの瞳の色はタロスの宝玉のように、いっさいの混じりけのない黒さだ。私はその瞳に惹かれたのだよ」

「タロスの宝玉?」

「私の故郷ノーラスにある島だ。そこで取れる漆黒の宝玉は気高い心の象徴と言われている。心の歪んだ者がそれを手にすると、たちまち灰色に濁ってしまうのだ。その目をけして濁らせるでないぞ」


  女はひとつ微笑むと、大鷲に跨がった。


「待って、名前、教えて」

 今にも飛び立とうする女に向かって裕哉は呼びかけた。


「私の名はエミリア、大魔導士エミリアだ。だが、もう呼んでも来ることはないぞ。おまえはもう一人で立派にやっていける。なんせ悪い魔女から、町を救った英雄なのだからな」

 エミリアは呵呵と大笑すると、大鷲を空に舞わせた。裕哉はその影が碧い月の中に吸い込まれて行くのを見続けていた。


 2

 少し土管で眠ると、裕哉は学校にでかけた。

 学校ではでは昨晩、降った碧い雪の話題で持ちきりだった。ニュースでも流れたらしく、いつもは主役のバレンタインデーも脇役に追いやられたようだ。 気象予報士の解説を得意げに話す生徒の脇を通りながら、ほんとうの種明かしを知っているのが、自分だけだという事実に、ひとりでに笑いがこみ上げてくる。


 教室に入ると長瀬たちの姿は見当たらなかった。昨夜のことがよほどショックだったのだろう。三人揃って休むとは、連中も意気地がない奴らだと裕哉は思った。そんな連中に逆らうことができなかった昨日までの自分が、不思議なほどに、今は遠いものに感じられた。


 今年も裕哉だけは義理チョコすら貰えなかったが、それでも去年のように惨めな気持ちになることはなかった。

 ぼくだっていつか、ぼくのためだけに用意したチョコをくれる女の子が現れるはずだ、そう思うと心が弾んでくる。


 放課後、教室を出ると佐々木舞が白い息を吐きながら、追いかけてきた。

「待って、安藤くん。話したいことがあるんだ」

「話したいことって?」

「昨日のこと、謝りたくて……私、安藤くんの財布を拾って、追いかけたんだ。でも安藤くんは工事現場に入っていったでしょ? 私怖がりだから、どうしても入っていけなくて、周りをウロウロしていたら、智樹たちに会ったの。こんなところで何をしているって、問いつめられて……話してしまったの……話せばどんなことになるかわかっていたのに……」

「大丈夫、ぼくは平気だったよ。イジメられることもなかった。いやもうこれからはイジめさせもしない。ぼくは強くなるんだ」

  裕哉は項垂れている舞にいった。

「安藤くんはえらいな。私、あんなことはもうやめてって何度も智樹に言ったんだ。でも、智樹に嫌われたくなかったから、強く言えなかった。私には勇気がなかったんだ」

「そんなことはないよ。佐々木さんはこうやってぼくに謝ってくれたでしょ。それだってすごく勇気のいることなんだ。みんながぼくの存在を無視していても、君だけは、いつもぼくに挨拶してくれたよね。とても嬉しかったよ」


 実際、それは大したことなのだと裕哉は思った。自分が付き合っている男の意に反してでも彼女は自分の真っ直ぐな心を曲げなかったのだから。


「ねえ、顔どうしたの?」

 舞が不思議そうに尋ねた。

「ぼくの顔がどうかしたの?」

「でき物がすっかり治ってる」

 裕哉はあわてて自分の顔をなぞってみた。岩みたいにでこぼこしていたはずの肌が、今は卵のようにツルツルしている。

「エミリアだ! 彼女が魔法で治してくれたんだ」

 裕哉は歓声を上げながら駆け出した。ひたすら走った。


 裕哉は工事現場を真ん中に立ち、辺りを見回した。昨日の雪は殆ど溶け、赤土が所々顔をのぞかせていた。

 エミリアがここに居るかもしれない、そう思ってやって来たが、その姿は見当たらなかった。

 諦めて帰ろうとしたとき、土管の上に赤い包みが置かれているのに気づいた。そしてその上にはカードが一枚貼り付けてあった。開けてみると、癖のある丸っこい文字で、こう書かれていた。


 “勘違いするなよ!これは義理だからな!”


********************


エピローグ


「ぼくの話はこれで終わりです。仁井田さん」

 目の前の男はメモをとる手を止めると、大きく息をついた。

「すざまじい話だね。よく生きていたもんだ」

  彼はそういうと、コーヒーを一口啜った。

「運が良かったんだと思います」

「なるほど、運か……」


 彼と会うのは今日が初めてだった。ネットの小説投稿サイトに掲載された彼の作品に感想を書いたのが知りあったきっかけだった。やがてSNSを通じてメッセージを交わすうちに、彼はぼくの生い立ちに興味を持ってくれた。小説の題材になるかもしれない、一度会ってみないかと誘われた。

 お互いが知っている駅で待ち合わせ、近くの喫茶店でぼくは彼に今までのことを話した。

「こんなの小説になりますかね?」

「本人を前にしていうのもなんだけど、話としては興味深いよ。というか、どう自分を納得させていいかわからない話だね。勿論君の言うことを疑っているわけじゃないよ。うまくまとめられるか、いまいち自信がない」と彼は笑った。


 今まで他人に自分の生い立ちを語ったことはあまりない。それがなぜか今日はすらすらと洗いざらい話すことができた。時間が経って、自分を客観的に見る余裕ができたのか、それとも目の前の男の人を油断させてしまうような飄々とした雰囲気につい気を許してしまったのかわからない。


「とにかくまとまった形になれば、連絡するよ。今日はありがとう」

 仁井田はテーブルの上のレシートをつかむと立ち上がった。

  「ええ、楽しみにしています」とぼくは答えた。

「ところで、その魔道士、エミリアとはその後?」

「一度も会っていません」


  そう、あれっきり彼女は姿を現すことはなかった。いまどこで何をしているのだろうか。すくなくとも人並みには立派に生きている今のぼくを見てほしいと思う。彼女に出合わなければ、今のぼくはなかったのだから。


 仁井田と別れ、電車を待っていると駅の屋根を叩く大きな音がした。雨かと思えば霰だった。あの日と同じだなとぼくは思った。


 エミリアが去ったあとの次の日、ぼくは校長室に向かった。

 新しく代わったばかりの女の先生で、就任の挨拶のときに、「担任に話せないことがあればいつでも私のところに来なさい、校長室の扉はいつでも開かれています」と、話していたことが印象に残っていたからだ。

 新任の校長谷口由紀先生は、緊張しているぼくを微笑んで迎え入れてくれた。そして、たどたどしぼくの話を嫌な顔もせず最後まで聞いてくれた。

 途中何度か他の先生が呼びにきたが、「今は大切な話をしている最中です。後にしてください」ときっぱりいった。

 ぼくがすべてを話し終わると、先生は「辛かったでしょ。よく話してくれたわ。君はなにも心配しなくていい。あとは大人の責任なんだから」と、抱きしめてくれた。


 先生はその後、すぐに動いてくれた。 長瀬たち三人は警察の取り調べを受けた。書類送検という軽い処分で終わったのは、県会議員の父親が手を回したのではという噂だった。

 しかし、法の手から逃れられても、エミリアの下した罰からは逃れられなかった。 三人の頬には今でもくっきりと彼女の手形が残っている。

 石原は事件後、一家揃って別の町に引っ越した。高校に進学したものの一年で中退し、その後は不良同士の抗争に巻き込まれて、半身不随になった。 茅野は残りの中学生活で激しいイジメにあい不登校になった。今でも部屋に引きこもって外に出ることはないらしい。

 長瀬は別の県の私立中学に転校したものの、奇行が目立って退学となった。授業中の教室をブツブツと意味のわからないことを呟きながら徘徊する長瀬にはかつての仮面の優等生の面影はなかった。 ナルシストの彼にとって、両頬のあざはよほど応えたのだろう。何度か皮膚の移植手術を受けたが、しばらくすると、新しく再生した皮膚にも手形がくっきりと現れる。

 彼らが百万回の善行を積むまでは何をしたところで無駄なのだ。


 母は家裁から親権の停止を命じられ、ぼくは中学時代を養護施設で過ごした。

 卒業後は働きながら夜間高校に通った。学校をでたあとも、谷口先生は親身に相談に乗ってくれた。大検の資格を取りたいと話すと、家庭教師を買って出てくれた。その甲斐あってぼくは大学に合格し、卒業すると教師の道を選んだ。


「君の経験を活かして、小さな声でも聞き取ってあげられる教師になってほしい」という先生の強い薦めがあったからだ。

 今は故郷の中学校で教鞭をとっている。母とはその後会っていない。今は東京で働いていると、谷口先生が教えてくれた。きっと世話好きの先生のことだ。仕事を紹介してくれたのだろう。 母がぼくにしたことは今でも正直許せない。 でも玉が見せてくれたあの頼りなげで儚い背中を思い出すたびに、ぼくはやっぱり母さんを憎むことなどできないのだと思う。

 もうすぐぼくは父親になる。そのときは孫の顔を見せに母を訪ねてみようと思っている。すこしづつでも失われた時間を取り戻せたらと、切に願う。


 改札口を出ると、雨はもうすっかり雪に変わっていた。

「おかえりなさい」

 妻の美冬が傘を差して待っていた。

「迎えにきてくれたの? 大切な時期なんだから、無理しちゃだめだよ。転んだりしたらたいへんだ」

「わかってるもん。でも、今日はバレンタイでしょ。だからふたりで歩きたかったんだ」

 美冬ははにかんだようにいった。

「そっか」

 ぼくは彼女の手から傘を取ると、肩に手を回した。

「ガトーショコラを焼いたのよ。早く帰ってたべようね」と彼女はいった。


 十年前の同じ日、願ったことが叶った。ぼくだけのためにぼくだけのチョコレートを用意してくれる女性が隣りにいる。


「あっ、みて。この雪碧いよ」

 美冬が手に落ちた雪をみて、声をあげた。

 ふたりで見上げた空にはあの夜と同じ、碧い花びらのような雪が舞っていた。










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