中編
1
手足がちぎれそうになるくらい冷たい川から上がると、制服を脱ぎ捨て裸になった。足元に黒く焦げたパチンコ球がボロボロとこぼれた。
恐る恐る背中に手をやると、ぬるぬるになった皮がべろりと剥けた。
そのまま仰向けに倒れると目を閉じた。
落ちてくる氷の粒が、ヒリヒリする背中を冷やしてくれて気持ちがいい。このまま死んでしまえたら、どんなに楽だろうと裕哉は思った。
それでもすぐに寒さに耐えられなくなって、飛び起きると、びしょびしょに濡れた制服を着た。
とぼとぼと土手に向かって歩いた。驚いたことに土手の上にはまださっきの女が立っていた。
「ずっと見てたんですか?」
裕哉は女にいった。
「ああ」と女は短く答えた。
「見ていたのなら、どうして助けてくれなかったの?」
「そんなこと言わなかったろ」
女はすこし驚いたようにいった。
「あたりまえでしょ! そんなこと言ったら、もっとひどくやられるよ」
「そうなのか。あんな目にあってもお前は声一つあげなかった。だから私はなにか事情があるのだろうと手を出さなかったのさ」
「嘘つけ! ほんとはあいつらが怖かったんだろ」
裕哉は女を睨みつけた。
「なぜ大魔導師の私があんなガキどもを恐れなければならない? いいか、よく聞け、助けて欲しいならそう言え、誰も駆けつけてくれなくても、叫び続けろ。弱虫のお前でもそれくらいはできるだろ」
「あんたはなにもわかっていないんだ! イジメなんてそんなもんじゃないんだ」
裕哉は耳をふさぐと逃げ出した。
(やっぱり長瀬のいうとおり、頭がおかしかったんだ。大魔導師とかわけわかんない)
シャツが背中にくっついて痛い。
母はもう仕事に出かけている時間だ。早く帰って薬を塗ろう、そして今日こそは風呂に入ろうと裕哉は思った。
2
市営住宅の階段を駆け上がり、部屋の前までくると換気扇から肉を焼く匂いがした。いつもは消えている灯りが今日は点いている。
まだ母が居るのだろうか。
鍵は開いていた。でもチェーンが下ろされている。
細く開けたドアの隙間から、下着姿の母が顔をのぞかせた。
(あいつが来てるんだ。今日は家には入れないな)
その男は月に二、三度泊まりにくる。 母の店に居るボーイの男で、母よりずっと若い。
「これで晩ごはんを食べておいで」
母は財布から、千円札を一枚抜き出した、それから思い直したように、もう一枚抜き出すと「無駄使いするんじゃないよ」と、言って裕哉の手に握らせた。男が泊まりにくる日の母は機嫌が良い。少しはかわいそうだと思ってくれているのかもしれない。 薬を塗りたかったけれど、あきらめることにした。母の機嫌を損ねたくない。 裕哉は機嫌良いときの母が好きだった。いつもそんな風でいてくれるなら、ずっと外で寝泊まりしてもいいとさえ思った。
「じゃあ、行ってきます」 ドアを閉めようとすると、母が押し留めた。
「ちょっと待ちな」 母は言い残すと、部屋に入っていった。
男と二言三言交わす声が聞こえてきた。 もしかすると、今日は家の中で寝かせてもらえるよう男に頼んでくれているのかもしれない。 戻ってきた母が手にしているジャンバーをみたとき、裕哉はすこしがっかりした。
「寒いから、これを着ていきな」 ガチャリとドアを閉まると、チェーンを下ろす音が聞こえた。
母は濡れた制服のことをなにも聞かなかった。びしょ濡れの髪のことも、何一つ聞かなかった。
雨はもう雪に変わっていた。
3
雪はさっきよりも降り方がはげしくなっている。
しかし懐は温かい。久しぶりにハンバーガーを食べたかったが、お金はあまり使いたくなかった。
毎年、母の日にカーネーションを贈っている。その日だけは母は裕哉の顔を見て、微笑んでくれる。
裕哉は若くて、綺麗な母親が大好きだった。どんなに罵られても、叩かれても憎んだことは一度もない。長瀬たちとは違う。
(だって母さんは、僕の母さんなんだ)
それなのに、手持ちのお金が少なかったりすると、今年は止めようと思ってしまう自分のことを裕哉は嫌いだった。
しかたなく駅前のコンビニでパンを買うことにした。
店の中は暖房がよく効いていて暖かい。レジで肉まんを二つとホットレモンティーを買う。 後ろの陳列棚には綺麗なラッピングを施されたチョコレートが並んでいた。 そういえば明日はバレンタインデーだったことを思い出した。
去年のバレンタインデーにはクラスの女子が男子に義理チョコを配った。 男子の机にチョコを入れるため女子たちは朝早く登校した。中には本命のチョコをこっそりと意中の男子の机に忍ばせた子もいる。
朝の教室は大賑わいだった。 義理チョコを手にして喜ぶ男子もいれば、それしかなかったことを悔しがる者もいた。
「直接手渡しもあるだろうから、今年は記録更新確実だな」
長瀬は机の上に義理チョコより一回り大きく、ラッピングも派手な箱をいくつも並べて、ドヤ顔で取り巻きに自慢していた。
今日に限っては連中も裕哉に構ってくることはない。それでも用心してこっそりと席についた。
皆の視線が自分にないのを確かめると、裕哉は机の中を手で探ってみた。しかし、触れるものはなにもなかった。 それを見て、数人の女子がクスクス笑っているのに気づいて、裕哉は慌てて手を引っ込めた。 どうして女子は長瀬のような残酷な奴を好きなんだろう。裕哉は不思議に思った。
「あれ? 安藤くん。お買い物?」
いきなり声をかけられてハッとした。
同じクラスの佐々木舞だった。白いニットのセーターにジーンズ、赤いダウンジャケットを羽織った舞は教室で見るより大人に見えた。
彼女はクラスの女子の中でも背が高いほうで、中学一年生の平均からすればかなり小柄な裕哉と同じ学年にはとても見えない。白いセーターの胸の膨らみは母と比べても引けを取らなかった。 長瀬たちが舞の胸についてあれこれ話していたのを思い出して、裕哉は顔を赤らめた。
バレンタインデーのチョコを物欲しそうに眺めていたところを見られたのが、舞でよかったと裕哉は思った。クラスの女子から黴菌扱いされている裕哉に、毎朝きちんと挨拶してくれるのは舞だけだった。
もちろん彼女が裕哉に特別な感情を抱いているなんてことは絶対にないだろうけど、教室でいじめられている裕哉を誰もがニヤニヤしながら眺めている中で、舞だけはいかにも不快なものを目にしているという表情で顔をしかめていた。
もし他の女子に見つかっていたら、クラス中に言い触らされて、また長瀬たちに格好のいじめるネタを与えるところだった。
「安藤くんのお家はこのちかくなの?」
小首をかしげ、きれいに生えそろったまつげを瞬かせて裕哉の返事を待っている舞の顔を見ていると、顔が火照ってきた。
なにも言わずに背を向けると、出口に向かって走った。自動ドアが開ききらないうちに飛び出したものだから、したたかに肩を打ったが構わずそのまま走った。きっとお店の人は万引きと思ったかもしれない。怖くなった裕哉は振り向きもせずに走り続けた。