前編
1
「今日は時間もあることだし、処刑場にしようぜ」
長瀬智樹が薄い唇を歪めていった。
「処刑場か、いいね。ひさしぶりにテンションあがるわ」
茅野がさも興奮したように大げさにガッツポーズをした。
「おまえらも好きだよな。まあ、俺も好きだけどさ」 石原が大きな体を震わせて笑うと、長瀬と茅野が爆笑した。
朝方の雨は霙がまじりはじめていた。時々チラッとこちらを伺うものもいるが、ほとんどはなんの関心も示さず通り過ぎていく。
校門のところで、三人がニヤついているのを見かけたときから、公園でサンドバック代わりに殴られる程度は覚悟していた。教室でやられていることの延長だし、女子の目のない分、そっちのほうが気が楽だった。 女子たちからクスクスと笑われるのは体の痛みより、惨めな気持ちになる。
しかし、処刑場となると話は別だ。あそこに行くと、こいつらは歯止めが効かなくなる。ひょっとしたら今日は死ぬかも知れないなと裕哉は思った。
前回連れて行かれたのは冬休み前だった。石原が大きなドラム缶を見つけてきた。長瀬がこれに裕哉を入れて、堤防の上から転がせばおもしろいだろうといった。残酷ないじめを思いつくのはいつも長瀬だった。三人の中のボスで、自分で手を下すことはめったにない。
寝かせたドラム缶に裕哉を押し込めると、石原が蓋を締めた。
「地獄落し!」
長瀬が叫ぶと、茅野がドラム缶を蹴った。
ドラム缶は急坂を加速度をつけながら転がっていった。段差にのって跳ね上がる度に三人は歓声をあげた。
顎と頭を切って、血まみれの裕哉が泡を吹いているのをみて、三人はまた死ぬほど笑った。
それ以来、裕哉は強烈な頭痛に襲われるようになった。痛みは不意にやってくる。頭の中が空っぽのバケツになって、それを棒でガンガンと叩かれてるみたいに騒がしく、授業中でもじっと座っていられなくなる。 たまらなくなって先生に保健室に行きたいと告げると、「また仮病か。しょうがない奴だな」と面倒くさそうに早く行けと手を振られる。 大抵の教師がそうであるように、彼も足並みを乱す生徒を好まなかった。たとえそれがいじめの被害者であったとしてもだ。
軽いイジメなら小学校の頃から受けてきた。 それが本格化したのは中学生になり、この三人と同じクラスになってからだ。
彼らは裕哉のことを汁男と呼んだ。小学校六年のとき、顔にポツポツと湿疹ができはじめた。中学生になるとそれはは顔中に広がっていった。赤いブツブツからは黄色いリンパ液が滲みだしてきて、裕哉の顔はいつもてかっていた。
医者はストレスが原因だから、適切な治療を受ければ治るはずだと言ったが、母は面倒がって、二、三度通院したきりで止めてしまった。医者から色々と裕哉の日常生活について聞かれるのが鬱陶しかったのだ。
症状が酷くなるにつれて、イジメも酷くなった。頭を張られたり、蹴られたりすることから始まり、次第に暴力はエスカレートしていった。クラスで彼の味方をしてくれるものは誰も居なかったし、教師は見て見ぬ振りをした。
母に話すことは最初から論外だった。 母は裕哉のことを出来損ないと呼ぶ。彼が母親から聞いた最初の言葉がそれだったかどうかは思い出せなかったが、少なくとも覚えているのはそれが最初だった。
母が裕哉を生んだのは十六のときだった。愛情もお金もない両親のもとで育った彼女は中学を卒業すると、逃げるように家を出て、勤め先のガソリンスタンドで知り合った男とすぐに同棲を始めた。
妊娠したのがわかると、男は堕ろせといった。
男の愛情が冷めかかっているのを知っていた母は、産むと言い張った。子供の存在が男を引き留めてくれると考えたからだ。結局、裕哉が生まれたときには、男の姿はなかった。すでに他の女と暮らしていたのだ。生まれ落ちた瞬間から、母を失望させた裕哉を母は「出来損ない」と呼ぶ。
「おまえを産んだのは、とんでもない失敗だったよ」
繰り返し繰り返し、そう言われ続けているうちに、裕哉も自分自身を出来損ないだと思うようになった。
「処刑場へゴー!」
長瀬がふざけた調子でいうと、石原と茅野が両腕をつかんだ。
「ほんとにおまえって臭いよな。風呂はいってるのか?」
石原が鼻をつまんでみせた。
「汁つけたら、ぶっ殺すからな」と茅野がすごんだ。
「おまえの母ちゃん、キャバ嬢やってんだろ。いくら指名がすくないババぁでも風呂ぐらい家にあるんだろ?」と石原がいった。
湿疹が全身にできるようになってから、母は裕哉が湯船を使うのを嫌がった。だから母が仕事に出ている間に、こっそりとシャワーを浴びていたが、それも最近では面倒くさくなっていた。
「お前ら知らねぇな。こいつのおふくろはネグレクトなんだぜ」
前を歩いていた長瀬が振り返った。
「ネグレクト?」
「育児放棄ってやつ。つまり自分の子供を愛せない鬼母ってやつさ。担任の諸星がいってたんだ。家庭訪問したとき、ピンときたんだって。さすがプロだよな」
「それ虐待ってやつ? 学校で俺らにいじめられて、家じゃおふくろからいたぶられるってマジ地獄!」
大げさに笑った茅野を通行人が振り返った。
「バカ、人が見てるだろ。気をつけろ」と長瀬が短くいった。
商店街には大人たちが行き交っている。
もし、いま自分が、「僕は彼らにいじめられています。助けてください!」と、叫んだとしたら振り返ってくれる人は何人いるだろうかと裕哉は思った。
仮に居たとしても、ずる賢い長瀬がうまく誤魔化すだろう。大人たちは臭くて、薄汚い裕哉より、小奇麗でハンサムな長瀬の言葉を信じるに違いない。
もっともそんなことをしたところで、明日からはもっとひどいいじめが待っているだけだ。
裕哉はゲシュタポに連行されるユダヤ人のように、肩を落とし、理不尽な人生を受け入れるしかないという表情を浮かべながら、夕暮れの商店街をクラスメイトたちと歩いた。
2
商店街を抜けて国道を歩き、橋のたもとを右に曲がると堤防に出る。そこを真っ直ぐ行けば、長瀬たちが処刑場と呼んでいるグランド跡がある。
元は河原の空き地を利用して作られたサッカー用グランドとテニスコートがあったのだが、三年前の大雨で浸水して以来、打ち捨てられたままになっていた。
天気の良い日は堤防を散歩する老人の姿を見かけることもあるが、霙混じりの雨が降るこの寒さでは出歩く老人も居ない。
要する長瀬たちにとっては人目を憚らず好き勝手ができる絶好のイジメ日和と言える。これはもういよいよやばいなと裕哉は思った。
「おい、あれ誰だ?」
河原へ続く階段を降りようとしていた長瀬が、雑草に覆われたテニスコートを指さした。
背の高い女が一人、サービスラインの真上に立っている。 シワひとつないシャンパンゴールドのスーツをビシっと着こなし、鮮やかなワインレッドのハイヒールを履き、腰に手をあて、ぐるりとあたりを見回していた。こんな田舎じゃ見かけることのないタイプの女だ。
女の視線が堤防の上の裕哉たちの方に向けられた。こちらを観察しているようにも見えるし、ただ単に堤防の上を見ただけなのかもしれない。
やがて女は階段ほうに向かってゆっくりと歩き始めた。 霙混じりの風に、長い金色の髪を靡かせ、顎を上げ背筋を伸ばしている颯爽と歩く姿に、裕哉は思わず見とれてしまった。陰鬱で気が滅入るようなさっきまでの処刑場の景色が一変した。
「外人かな? なにしてるんだろう」と石原がいった。
「きっと日本好きの外人だろ。最近は東京や京都に飽きて、ここみたいな田舎に好んで住む奴がいるのさ」 長瀬が訳知り顔で説明した。
「さすが、智樹。なんでも知ってるな」
石原はすかさず追従を入れた。 大柄で腕っ節も強い石原は長瀬の番犬のようにいつもその後ろに控えている。
「俺の英会話の家庭教師も古い農家を改造して住んでる。こんなど田舎のなにが楽しいのか知らねぇけどな」と長瀬は笑った。
「智樹、なにか英語で話しかけてみてよ」
石原がさも良いことを思いついたかのように言った。
「ハロー」
長瀬は口を変な形に歪めて、すでに階段を登り始めていた女に声をかけた。 女は反応を示さなかった。
「マイネームイズ、トモキ」 長瀬はさっきより大きな声でいった。
しかし、女は長瀬に一瞥もくれなかった。
彼女の眼差しはずっと裕哉に注がれていた。彼の赤く腫れた顔をマジマジと見ることは、この社会ではある種のタブーに属している。仕方なく目が合うと、大人たちは気まずい表情で慌てて視線を外す。
しかし、女の碧い瞳には軽蔑も憐憫も含まれていなかった。彼女は裕哉の外側ではなく、もっと内側の奥深いところを見つめているようだった。
3
「なんだったんだろう。あの女」と茅野がいった。
「きっと、頭がオカシイ奴だ。それより寒いな。淳二、火を起こせよ」と、長瀬が忌々しそうにいった。 いつも自分が目立っていなければ気の済まないナルシストの長瀬にとって、さっきの外人の女の態度は屈辱的だったのだろう。
石原が用具置き場につかっていたプレハブ小屋から、廃材をもってきて火を付けた。
「さて、今日の汁男のメニューはなんにする?」
長瀬はいこり始めた火に手をかざして、石原と茅野を見た。
裕哉はドラム缶という言葉が出ないことだけを祈った。もう一度あれをやられたら、正気でいられる自信がなかった。
「フリスビーはどうよ? まだ小屋にドッグフードも残ってるしさ」と石原がいった。
すこしほっとした。フリスビーは裕哉が犬になって、長瀬たちが投げたフリスビーを拾ってくるという単純なメニューだ。
もちろん犬だから、四つん這いで取りに行き、口でくわえて戻ってこなければならない。 決められた時間内に戻ってくれば、ご褒美にドッグフードを食べさせられる。タイムアウトの場合は、腹や尻を蹴られることになる。
何度もやらされた日には、階段も上れないほど足腰がだるくなる。 それでもドラム缶よりはましだった。
「フリスビーも飽きたな」と長瀬はいった。
「それよりさ、今日は新メニューでいこうぜ」
「新メニュー?」
茅野が目を輝かせた。
「いいから袋、袋を被せろ!」と長瀬が命じた。
石原が用意していた黒いゴミ袋を裕哉の頭に被せた。
脱げないように首のあたりでしっかりと紐で縛られる。
「こうすると、恐怖が倍増するんだよな」
長瀬が意地悪く言う。
鳩尾に体重の乗ったパンチをいきなり食らった。胃液がこみ上げてきて吐きそうになった。
「手も縛っとけ」
ふたたび 長瀬の声が聞こえた。
一体何をされるのだろう。見えないことが余計に恐怖を掻き立てる。
しかし、逃げたって無駄なのだ。学校という刑務所にいる限り、明日も明後日もこれは続く。
カラカラと金属の転がる音がした。
「まじかよ! 智樹」
「さすがどS、どっからそんな発想が次から次とでてくんだ。智樹、まじ天才」
石原と茅野のはしゃぐ声が聴こえる。
「おっしゃ、いい感じで赤くなってきたな。そんじゃそろそろ行きますか」
長瀬が笑いを噛み殺しながらいった。
いきなり襟髪を掴まれた。首の後ろに熱した手鍋が押し付けられる。
「あつっいい」 思わず逃げようとしたが、二人がかりで肩を抑えられて動けない。
「流しこむぞ!」 長瀬が叫んだ。
カラカラという音とともに、真っ赤に熱せられたパチンコ球が背中に流れ込んできた。 熱い鉄球が皮にはりつき、肉を焦がしながら背中の上を引っかかりながら落ちていく。
「ほら、汁男。川は向こうだぞ」 石原が袋を取った。
よろめきながらも必死に走っていく裕哉を見ながら、三人はゲラゲラと笑い続けた。