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風啼き

作者: なつ

 女はただ、るる、と。

 途切れ途切れに音を紡ぐ。耳元を抜ける風に合わせて、独り、ただ、るる。目は空ろ、その瞳が何を見ているのか分からない。幾重にも巻かれているように連なる綿の帽子から、細く棚引く三つ編の飾りが、女の音に合わせるように揺れる。先には小さなアクセサリィがちょんとあり、まるで女の頬を野原とするよう、跳ね回る。

 女はただ、るる、と。

 その頬の細く、かつての張りを失い、白く。顔を支える首も針のように。肩から覆うように掛けられたケープの色は鮮やかで、房飾りの乙女らしく装飾され、胸元に施されているは、鳥の文様であろうか、風に踊るよう軽やかに。ケープの下から覗く腕も、白く、まるで、三日月のように互いに曲がり、膝の上に手を揃え。

 女はただ、るる、と。

 その紡ぎだされる音の悲しく思われるは、やはりもはや存在しないからなのか。揃えられた右手の指に、ビロゥドよりも透きとおる、清らかな指輪のアクセサリィ。天然のものであろうか、中に捕らえられた、小さな虫の、こちらをまっすぐ見つめている。

 この悲しい旋律を、あるいはこの虫は知っているのであろうか、女が紡ぐのは、いつのことであろうか、どうしてであろうか。

 るる、るる、るる。

 壊れたオルゴォルのように、折吹く風にのみ合わせ、女は続ける。

 ああ、その小さな宝石に囚われた、さらに小さな虫の瞳はすべてを見ていたのであろうか。深く透きとおる緑の石のその中に、長き時を留めていたのであろうか。



 汝、問うものよ。

 我は見ていた。

 故に我は答えることができる。

 何が故、女が悲しい旋律を奏でているのか。

 すべてはその問いに集約されよう。

 だが、あるいは知らぬがよいかもしれぬ。

 ただそれでも美しき調べと、同じように美しき姿とを、

 その記憶に留めておくがよいかもしれぬ。

 汝、問うものよ。

 覚悟があるならば、聞くがよい。






 すでに魅せられ、囚われたものよ、聞くがよい。

 この女よりも、我は遥か先に生まれたる。

 幸か不幸か、我は囚われの身となった。

 幸か不幸か、何億という夜を我は見てきた。

 汝に語るも、女に出会うも、我の中では、最末尾。

 我とすれば少しの過去のこと。

 思い出すに苦労はない。

 女の名前を我は知らない、我には発音の適わぬ音であった。

 日の光を浴びるにいたり、幾多の手を渡り、我は最後の女の指へと納まった。

 その前は、女にその指輪を捧げたる男の元にあった。

 男と女はそれにより、以前より深く繋がったかのようだ。

 我には分からぬことであるが。

 あるいは、汝ならばその意も分かろう。

 女は日に幾度も我を撫でた。

 そのか細い指で、我を繰り返し撫で返した。

 やがて男は女を訪れ、女は男に抱かれる。

 およその日々はこの繰り返した。

 だが、そうならぬ日もあった。

 どれだけ我を撫でようとも、男の現れぬ日もあった。

 そのような夜、女は我を両手に握るようにして眠っていた。

 日々は、男のある日とない日とが、少しずつ混ざるようになった。

 いや、やがて、男の現れぬ日が増えた。

 女の我を握るは、強く、強く。

 我はいつか、この戒めを解かれるのではないかと、打ち震えたものだ。


「次はいつ会えるの?」

 女は、その質問が最後になると知らず、そう男に問うた。

 朝、別れの際であった。

 偶然か、我は男の姿を見ていた。

 女と違い太くたくましく、その手には男の丈を越えるかのような、槍のような獲物を持っていた。

「明日かも知れぬ、一年後かも知れぬ」

 男は答えた。

「耐えられませぬ、そのような時を」

「だがこれですべての決が得られよう」

「どうしても行くの?」

「俺が行かず、誰が行く?」

「あなたが行かなくてもよいではないの?」

「分かってくれ」

「分かっているわ、それでも」

「俺のすべてはその指輪に込めてある」

「分かっているわ、分かっているわ」

「どうか泣かないでくれ」

 女が動いたのであろう、我の視線から男は消えた。

 それから幾度か視界が揺れて、男の気配も同じく消えた。

 後にも先にも、我はこれから続く一月ほどのときを、長らく留めたいと思ったことはなかった。

 それほどまでに美しく、甘く、我にとってかけがえのないときの連鎖であった。

 女は幾度となく我に口付けをくれた。

「ねえ、お前」

 そして女は我に語り始めた。

「愚かでしょう、浅はかでしょう、それならばすべて火にくべてしまえばいい。そうすればすべて失われてしまうのだから。そうね、願いはするでしょうよ、でも、願いだけ。醜く卑しい願いだけ。わたしはただ甘えたいだけなのだもの」

 女はわたしを頬張り、舌先で転がす。

「ええ、分かっているわ、分かっていますとも。わたしの力なんて、小波にさらわれる小石よりも小さいもの。あの人は、わたしとは違いとても偉大な方ですもの。こうして今までわたしと交わっていてくれていたことのほうが遥かに奇跡的なことなのですもの。わたしだって、世間知らずのお嬢様じゃないのだから、今がどんなときなのか分かっていますもの」

 女は疲れて眠りに落ちるまで、我を愛撫し続けた。

 女はそうすることで、自らを慰めていたのであろう。

 一月も経てば、我にもことの状況を把握することができた。

 いやこれは、汝がよく知るところであろうが。

 東から、未知の力が攻めてきていた。

 遥か海を超え、侵略者たちは女と男が住まうこの地を征服しようと、多くの地を攻め滅ぼした。

 男が旅立つは、つまり、この侵略を止めるためであったのだが。

 男の獲物など、東からの侵略者らが使いたる兵器に太刀打つことなどできようはずもなく。

 我は、この女の最後の瞬間を、この目で見ていた。

 女はつまりこの場所で、ここに座り、自らの命を捨てたのだ。




 女はただ、るる、と。

 風が女の頬を抜け、口元から抜けるに合わせ、音を出す。肉もすでになく、白く汚れた骨も露に。

 四百年のときをただ変わることなく、高き聖地に座し。新大陸へと征服者らが荒れ狂うのを、神が与えたのか、ただ運よく逃れ。

 そのまさに奇跡をとらえ、ああ、なんと幸せなることか。

 女はただ、るる、と。

 風に合わせて啼き、歌う。


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