第十七話 少年と黒髪少女に『世界』は牙を剥く
かつて『世界』には原初の『人』である<古代人アクル>と原初の生命体『化身』との長く激しい争いがあった。
『世界』の主導権を握るべくして繰り広げられた争いは幾星霜の時を経て『人』が勝利を治めたとされている。
以後、『化身』は姿を消したが、その残滓が『世界』に取り残された。
残滓は魔獣へと姿を変換え、尚も人に牙を剥け続ける。
この絶え間ない繰り返しこそが『世界』の流転であり、『摂理』である。
決して相容れない『対』の存在にして、手を取り合う事が出来ない明確なる『敵』。
双方、邂逅から現在に至り、未来にまで及ぶ宿命とも呼ぶべき定めである。
視界の先には虚無に集約された深遠。
実体のない闇が姿形を形成していく。
圧縮された闇黒はまるで卵にも子宮にも似て、その内からもがく様に拍動を届かせる『何か』がいた。
やがて『世界』を切り裂いたかの様に生まれた空間の亀裂───次元の狭間から蠢き出す様に、這い出たソレにかつてない身震いを覚えた。
俺はどこか疑問に思っていた。魔獣は何処から来て何処へ行こうとしているのか。そして何故絶え間なくこの『世界』に産み落とされるのだろうかと。
勝手な推測が辿り着いた先は───『人』への蹂躙。
意味などないのだ。それが『惑星』の意志であり、それこそが『世界』の『摂理』なのかもしれない。
排除されるべきは『人』という存在。『世界』に於ける異物を取り除くべく、『惑星』が取り得る防衛本能。
俺が『世界』の真理に触れようとした直後、頭の中は一瞬にして空っぽになり、目の前のソレに意識を持っていかれる。
虚無より飛来した者はどこか人にも似ていて、二足歩行でしっかりと両脚で地を踏み締めていた。
煤色の体躯は筋骨隆々としていて俺の四倍はあろうかという大きさだ。
額から生やす二対の角が悪鬼を思わせる。
仄暗い強膜に浮かぶ臙脂色の瞳は未だ揺蕩い焦点が合っていない様だ。
「シルメリア!ひとまず鉱山を出よう!こんな場所でこんなの相手に出来ないさ」
「……同意だな。魔術が制限されては私も力を出し切れないないからな」
「今のうちに行こうッ」
一刻も早くこの場を立ち去らなければならないとシルメリアの手を握る。産まれたての奴が未だ呆けている内に。
場所を変えなければいずれ必ず手詰まりになる。
「ユウキ、掴まれ」
握っていた手を一旦解かれたと思ったら次の瞬間俺はシルメリアの両腕に抱えられる事となる。
風の移動魔術を瞬時に発動させた彼女は一時的に重力から解き放たれ難なく男一人を担ぎ上げた。
決して広くもない鉱山の通路を風を薙いで逆走する。自分の脚で走るよりも遥かに速いスピードで高速浮遊する様はある種のジェットコースターにも似た感覚で爽快さとスリルを同時に感じる。
『───ガアアアァァァァッツ……!!』
一瞬地響きが起きたのだと錯覚する轟音が背後から轟いた。最奥から聴こえた魔獣の咆哮は奴の覚醒を意味していた。
シルメリアに抱えられたまま、思わず生唾を飲み込む。
「君は私が守るよ。絶対に」
俺の不安が伝わってしまったのか、抱き抱えるシルメリアが鉱洞の出口を睨みながら言葉を落とした。
「それはこっちの台詞さ。君だけは俺が守ってみせるよ」
「ふふっ……」
冷や汗を垂らしながらの強がりに彼女は口元を緩まして笑う。強がりだったとしても想いに嘘はない。
正直な話、魔獣の強さがあまりにも未知数だ。
人と比べてみてしまえば個体としての差は圧倒的にこちらが劣っているが多分それだけじゃない。今までに対峙した魔獣とは何かが違う気がする。
それは初めて見る人に近いタイプの魔獣だからなのか、『摂理』に触れ、奴が産み落とされる一部始終───『世界』が俺達を排除しようとする明確なる意志を目の当たりにしてしまった為か……。
考えても分からないし、きっと答えは出ない。
鉱山の出口が間近に迫ったところで背後から迫る足音に気付く。距離はまだあるがその足音が何かなど今更疑う余地もなかった。
鉱洞を抜けた俺達は少し離れた広めの場所で魔獣を迎え撃つ。
街外れの盆地は寝静まったアルビスタを背に夜の闇に撒かれていた。先程までの魔洸の灯りはなく、月光だけが世界を照らしている。
その<赤妖月>の赤黒い月光が降り注ぐ中、レナト鉱山から這い出した魔獣の瞳が更に深く濁った赫に煌めく。
「奴の体躯じゃ鉱道を抜けられないんじゃないかと淡い期待を抱いていたけどね……」
「ふふっ、生憎だったみたいだな」
「ははは……と、冗談はさて置いて実際どう相手しようかな……?」
「なに、難しい事はないさ。鉱山の外に出たんだ、全力で魔術を叩き込めばいいさ」
「全力……それは何とも心強い事で」
シルメリアの魔術に頼る戦法は大いに良策だ。俺と悪鬼との体躯の差では一撃が致命傷となり得る可能性が高い。相手の底が知れない中で迂闊に懐に飛び込んでいくのはかなりのリスクを伴う。
『…………ガァルゥゥゥ……!』
魔獣の低い唸り声が街外れに静かに響く。既にその臙脂色の瞳はこちらを捉えていた。
ゆっくりと悪鬼が確実にこちらへと進行する。
『───ガアアアァァァァッツ!!』
「───シルメリア、来るよッ……!」
突如上がった咆哮は開戦の口火を切った。
悪鬼は地を蹴り、こちらとの間合いを一気に詰めてくる。そしてその速度が思っていた以上に疾い事に少なくとも驚く。
ただ同時に隣のシルメリアの反応が速い事にも驚いた。
既に魔術の詠唱を完了していた彼女の両腕が紫黒の炎を滾らせている。
「───仄暗い闇夜に其身を照らし、焼き払え<黒ノ鴉>ッ!!」
即座に放たれたシルメリアの魔術は紫炎に染まった大鴉の如く一直線に魔獣へと衝突する。同時に───「哭けッ!」彼女の声に応え直後に爆散する。
どごぉぉぉぉぉん……!!
近くの空に野鳥が一斉に飛び立つには十分過ぎる爆発音を響かせ炸裂した魔術で砂埃が上がる。威力も申し分なかった筈だ。
……だけど、何だろうこの嫌な予感は……。
胸の内をドロっとしたものが重く流れては警鐘を響かせる。砂埃で不安定な視界が一層不安を募らせる。
───その直後!
砂埃を振り払うかの様に視界を切り裂いて現れた悪鬼の腕がシルメリアに掴まえようと伸びてきた。
咄嗟に俺は彼女を庇う様に抱きかかえ地を蹴った。
目の前で奴の掌が空を掴む……いや、握り潰すと言った方が正解に近い。あんなもんに掴まったら圧殺されかねない。
「すまないユウキ」
「いや、シルメリアが無事なら良かったさ」
シルメリアの魔術を正面からまともに受けても致命傷を与えられていない現状に冷や汗が頬を伝うが、今は出来るだけ余分な事を考えずにすぐ様体勢を立て直す。どんな攻撃であれ一撃でも貰ってしまえば窮地に陥ってしまう。
砂埃を払って再び悪鬼はその豪腕を振り払う。
俺もシルメリアも背後へ跳び、その一撃を躱す。そして俺は同時に腰の緋天棗月の柄を握りカウンターを放つ。
振り払った腕に合わせて跳躍しながら抜刀してすかさず距離を取る。
「おいおい、マジかよ……」
自然と自分の頬が引き攣った。弾かれはしなかったものの放った一撃は丸太の様な腕の筋繊維を斬り裂くには到底至らなかった文字通りの擦り傷。
「チッ……!」
舌を鳴らして次の一撃を回避する。豪腕によるシンプルな打撃だが、振り落とされた鉄球の様な拳は大地を割る。
「はあああああぁッ───!!」
咆哮と共に風の初級魔術で高く跳躍したシルメリアはその両手に携えた漆黒の魔力鎌を全力で振り下ろす。
人で言うところの肩甲骨を薙ぐがあまり効いた様子はない。
悪鬼の意識がシルメリアに向いたとほぼ同時に俺は奴の懐に潜り、ガラ空きな腹部に全力で抜刀するが手応えはあまりない。
当然、奴の意識は瞬時にこちらに切り替わる。立て続けに抜刀は危険だと判断し、背後に飛び退こうとした俺を掴まえようと奴の腕が伸びる。それをギリギリのところで躱し、更にカウンター!喉元を狙った突きが思いのほか綺麗に決まった。勿論致命傷は与えられていない。だが、少しばかり手応えがなかった訳ではない。筋繊維の薄い箇所への剣戟が全く通らないという訳ではないみたいだ。
「───其の不浄なる牙で穿て<禍ノ顎>ッ!!」
その言葉に応えてシルメリアが抱える魔力鎌はより深く紫黒へと染まりその刃は禍々しく肥大する。
その闇黒の大鎌を大きく振りかぶり、勢いよく振り下ろす。
先程とほぼ同じ肩付近への渾身の一撃は今度こそ強靭である魔獣の身を抉った。
魔術の重ねがけによって生み出された強力な斬戟によって受けた傷から鮮血が舞う。
「ようやく通ったか……!」
手応えを感じシルメリアの口角が僅かに上がる───そんなタイミングだった……。
鮮血と同時に悪鬼の額から生える二対の角がバチバチッと火花した。
『───グオオオオラアアァァツ───ッ!!』
同時に悪鬼の咆哮。それは感覚的に今までのものとはまるで別の、何かを解放するかの様な激昂にも似た猛り。
至近距離での咆哮の凄まじさに俺もシルメリアも一瞬身じろぎも出来ずに威圧された。
その直後、悪鬼の身体から溢れ出した膨大な魔力が熱量を伴い、周囲を爆炎と共に吹き飛ばしたのだった。




