間章 少女の『世界』は撥運見天とその色彩を変える
■□ハルバロ山森林部
【■■□■■】シルメリア=ビリーゼ
風を切り、大気は哭く。二人の魔族は高位の風魔術をいとも容易く巧みに操り、その身を地上へと下降させた。
「この辺りで構わないだろうか?」
「私は端からどこだろうと構いませんよ姫」
まだ朝が目を覚ましきれていない薄明の森の静寂に声は響く。
十数メートルの間合いを保って対峙するは二人の魔族。
幼さの残る顔立ちは凛と静かに洗練された美術画の様で、奥底に確かな光を宿す黒味を帯びた緋色の瞳を携えて少女は相対する男を見据える。
対して迸る紅蓮の瞳に宿るのは懐疑と警戒。しかしてその双眸に恐れなどなく、壮年の男は赤宝玉のメイスを少女に向け言い放つ。
「貴女に勝てるとは思っていません。だが、もしもの事が起きた場合は話してもらいますよ……何故、故郷をお見捨てになったのかを……!」
「理由などいくらでも話してあげるよ。ただ、それを主が受け入れるか否かの問題だよ」
少女は理解している。その『理由』が如何なるものであったとしても到底民が認めるものではない事を。
真実などはもはや過ぎ去ってしまった日々を覆すだけの効力を持たない。
王の崩御、王妃の病死、統率を失くした民を見捨て忽然と出奔した第一王女。それだけが事実だ。
残してきた妹弟に抱く罪悪の念が、幾年の歳月を重ねようと尚、昨日の事の様に胸の中に巣食う。
───だけど、後悔はしていない。
同時に一人の少年の顔が浮かぶ。とてもマイペースで、優しくて、いたいけな……彼との一ヶ月にも満たない日々を思い起こす度、何故だか胸の真ん中があたたかくなった。
たしかに後悔はゼロじゃない。むしろ当時は後悔しかなかった。いっそ抑え切れぬ魔力を暴発させて敵国に被害を与えれば……その中で散れば民に恨まれる事もなく、妹弟に負い目を感じる事などなかったのかもしれない。そんな風にも考えた。
───君がこの世界に生きていてくれて本当に嬉しい。
少年の言葉が何度も何度も蘇る。
たかが言葉一つ……されどそんな言葉一つで彼女の心に光が射した。暗く濁った世界が瞬く間に色彩を変えた。
『生』という監獄の檻の中に囚われたままの精神はそれだけで救われた気がしたから。
現在だからこそ、ようやくそんな風に思えるのは───閉じた瞼の裏側に生まれた少年は相も変わらず親指を突き立てて微笑んでいた。
「ふふ……まったく君って奴は……」
目蓋の裏に生まれた少年を想い自然と零れ出した言葉。
思わず零れたのは少女が『少女』として『現在』を生きている証。
生きている……そう実感する事の出来る微笑み。
些細な事かもしれないが、自分から微笑みが零れたのだと考えれば考える程に幸福感に胸が満たされる。その度、胸の真ん中があたたかくなる。
「貴女の笑み……現在の状況で到底理解に苦しみますな」
「なに……主に理解してもらおうとは思っていないよ」
たとえ、他人に受け入れられる事がなくても構わない。
少女はただ一人の少年の為───自分を受け入れてくれた彼の為だけを想う。
彼を想う度、この魔力は湧き上がる泉の様に温かな奔流で少女を包む。
全てを呑み込み傷付けるべく在った禍々しい魔力が現在は確かな力として内に宿る。
随分と長い時間が掛かってしまったが、ようやく自分と向き合えた。そんな自分を受け入れてくれた。
だからこそ語りたい、知ってもらいたい、聞いてほしい……自分の辿った『物語』を。たとえ受け入れてもらえなくとも……。
───嗚呼、早く君に逢いたいな。
「リューク……生憎再会を懐かしんでいる時間すら私には惜しいよ」
少女の言の葉に呼応するかの様に静かに大気は哭く。溢れ出す魔力の奔流が少女を包み込む様にして弾けて鳴く。
纏う邪竜の如き膨大な魔力は漆黒に揺れ、口元に微かな笑みを浮かべてシルメリアは呟いた。
「……さて、始めようかリューク───!!」




