バイクチェイス
*
目測で約五十メートル。
今から追いかけたところで、人や信号の少ない住宅街ではとても追いつける距離ではない。
でも、それはあくまで机上の計算だ。
地の利が勝敗を分けるということは、今も昔も変わらない。
ニット帽が乗るクロスバイクは、ずっと先に見える赤い屋根の家の手前で左に折れた。一見分からないが、その先は細い一本道となっており、途中で路線変更をするのは無理だ。
よって、ニット帽の行き先はおのずと一つに絞られる。俺は急遽Uターンして、後ろにある幅の広い交差点を右に曲がる。タイヤが地面を強く擦れる音がした。
ごめん美織、と謝る余裕はなかった。そんなことを一時でも思えば、犯人を逃してしまう気がしたから。
許せない。絶対に許してなんかやるものか。捕まえたらまずは土下座をさせよう。どうせなら真っ赤に焼けた鉄板の上で正座させてやりたい。服は着せない。遠目からでも分かる薄汚れたジャンパーや履き古したカーゴパンツも脱がせる。脛の骨が丸出しになるまで詫びを入れてもらって、しかしそれでも俺は許さないだろう。その次はどうしてやろうか。体の内側から滅茶苦茶にしてやってもいい。ズタボロの肉の塊にして現代風エログロアートみたいにしてやってもいい。そのためには、そのためには――どんな手を使ってもとっ捕まえる。
ペダルを漕ぐ、漕ぐ。俺は鳥になり、全力で獲物の気配を追う。
再び急カーブ。車体ごと右にぐぐっと傾かせ、アスファルトが頬すれすれまで接近する。ここで転倒なんてするわけにはいかない。全身の筋肉をフルに使って車体を垂直に立て直す。その勢いで今度は反対側に倒れそうになるが、左拳をブロック塀に叩きつけて阻止した。もうそろそろニット帽の通った道の出口が見えるはずだ。
アドレナリンがどぱどぱ分泌され、理性も彼方に吹っ飛んで、ただ敵を追い詰めることだけが最優先事項となる。
少し前の方でちんたら走ってるワンボックスカーを追い越す。邪魔だ。どうせ助手席の女とでも乳くり合ってんだろ。イライラしながら心の中でそう吐き捨てると、死角から対向車の軽トラが視界に飛び込んできた。
「――――!」
やばい、死ぬ!
いや、軽だから死にはしないか。でも打ち所が悪ければ死ぬかも。
走馬灯は流れない。ただ思い出したのは一つの記憶。
夏。公園。あの不吉な少女との出会い。
車は急に止まれない。
白の軽トラもオレンジのロードレーサーも、前に進むことを強制停止することもできず、物理法則に従ってゴツンとなるだろう。
そう、今にもぶつかりそうな二者(二車?)の力関係は誰の目にもはっきりとしている。
俺は復讐を果たすべき相手にたどり着くこともできず、ここで死ぬ(かもしれない)のだ。
タバコを吹かした五十過ぎのおっさん(驚いた、というよりは今自分の身に何が起きているのか理解できないといった表情)が運転する、黄色ナンバー4*‐**の、ところどころ傷のついた荷物なしの軽トラックに、すぐ近くの黒のワンボックスカーに乗る誰かさんに見守られつつ、夕焼けに照らされた住宅街の中、庭付き一戸建てで犬を飼っているらしい――玄関に「猛犬注意」のステッカーが貼ってあった――家の目の前で、もしかするとその家に住んでいるお父さんがお母さんか息子か娘かおばあちゃんかおじいちゃんか犬かその他に飼ってるペットにも見られながら、轢死する(かもしれないし、しないかもしれない。それは神のみぞ知る、少し先の未来の結果の話である)のだ。
……あれ?
なんで俺は、まばたきするほどの一瞬で、これだけの情報が分かったんだ?
感じるのは視覚情報のみ。耳からは奇妙なほどの沈黙が流れ込み、鼻からは……いや、呼吸をする感覚すらなかった。
今、目の前にある光景が写真で切り取ったみたいに見える。固定化された風景を、俺は隅々までじっくり観察しているのだ。
あー、何て言うんだっけこれ。ストップモーション? 違う、それはパラパラ漫画みたいなやつのことだ。じゃあスローモーション? 空気が固まっているような光景は実はゆっくりと動いていて、同じく俺も徐々に死に近づいて……いやいやだからまだ死ぬって決まったわけじゃないって!
多分脳内物質か何かがすごい勢いで働いて、俺の集中力が人外レベルに達しているんだ。
しかし、と俺は思う。
もしかしたら超能力なのか、これも?
時間を止められるとか、そんな新たな力が覚醒したのかもしれない。ジャンプ漫画かよ。というか、元の能力から発展し過ぎだろ。段階すっ飛ばしすぎ。
そんなことより、俺は何か別にやることがあったはずだ。ついさっきまで頭の中を支配していた感情があるはずだ。死に瀕して忘れてしまったか?
忘れるなんてこと、あってたまるものか。
時効なんて効きやしない、そんな怒りがあったはずなのだ。
じっくりと、舐めまわすかのように状況を観察する。すると、軽トラックの後ろに隠れるように、赤いジャンパーの一部が見えた。
見つけた。
そして湧き上がる殺意衝動憎悪憤怒暴虐願望、捕まえる殺す屈辱という屈辱を味わわせないと気が済まない絶対に死んで償ってもらう。
――誰に?
その瞬間、時間が動き出した。
ロードレーサーの車輪が地面を噛み、軽トラックが視野を覆う。
でも今は、そんな障害に阻まれてる場合じゃないんだよ!
俺がとった行動は回避でも後退でもない。さっきよりもずっと強く、前輪へと体重を載せる。
幸い助走距離は十分すぎるほどあったのだ。俺はただ、そのエネルギーの方向を曲げるだけでいい。なんだ、言葉にすれば簡単じゃないか。
「っぐ……っっぅぅうう!」
奥歯が擦り切れるくらい喰いしばる。
前輪が軽トラと、今にも接するというその時――
「ぅぅうおらあああああああっっ!」
右足で思いっきり地面を蹴り、左足をありったけの力で後部上方に上げる。
アイツを追うため自転車に乗ってからロクに減速もせずスピードを上げまくってきたおかげで溜まりに溜まったエネルギーは、ハンドルを握る両手を支点にして、俺を空へと持ち上げる。
鉄棒技で例えるなら、逆大車輪。
こ、怖ええええ!
ジェットコースターに乗ったときみたいに、内臓が瞬間冷凍されていくのを感じる。
慌ててハンドルから手を離すと、頭の上……いや下の方で何かが盛大に衝突した音。
それと同時に、空中浮遊に間に合わなかった肘から先に衝撃が走る。
でも目論見通り、俺の体は軽トラの上まで持ち上がったようだ。
「うぐへえっ!」
と思ったけど、やはり高さが足りなかったようで、俺は軽トラのルーフでゴム毬のようにバウンドした。
そのまま荷台を飛び越えて、陸に上がった金魚みたいな間抜けな格好で空を飛ぶ。
グルグルと回転する世界。体操選手やフィギュアスケーターならまだしも、一介の帰宅部生の三半規管は数秒も耐えることができない。
そんな狂った世界の中でも、俺の二つの眼は確かに捉えた。赤いジャンパー、カーゴパンツ、緑のニット帽。そしてお初にお目にかかる、口をあんぐり開けたその間抜け面。
まるで怪物でも見たかのようなそいつの顔はだんだん近づいてきて――
「な、なんだテメェー……っ!?」
と声が聞こえたときにはもう――
俺の初めては、奪われていた。
*
世間一般では、この行為をキス、または接吻と呼ぶらしい。知ってる。ああ知ってるとも。でもそれはあくまで知識としてであって経験としてじゃない。一秒前の俺ならきっとそう主張する。
また、言っておくが俺はホモセクシュアルじゃない。
これまで散々美織美織と言ってきた俺が実はホモだったとカミングアウトすれば、驚愕の事実発覚ということで第三者から見れば非常に面白いワイドショー的展開になるのかもしれないが、ともかく俺はホモじゃない。
これを機にそっちの道に目覚めるということもない、多分。腐女子のみなさんご愁傷様。
「……ぶはあっ!」「うえええっ!」
ニット帽の反応を見る限り、コイツもホモではないようだ。よかった、美織に捧げる予定のもう一つの初めては奪われずに済みそうだ。
「んだよテメェ! 誰だよ!」
乱暴な喋り方。暴言とともに出たニット帽野郎の唾は俺の顔に飛び散り、届かなかった残りが奴の顔にも飛び散った。ここで俺は初めて、自分がニット帽野郎に馬乗りになっていることに気が付いた。ニット帽は俺を押しのけ立ち上がり、フラフラと落ち着かないバランスで立っている。俺の方だって足元がおぼつかないが、なんとか踏ん張って声を出す。
「そういうお前は誰なんだよ? ま、どーせお巡りさんから聞かれることになると思うけど、先に知っておきたいんだよ。お前を国家権力に引き渡す前にたっぷりお仕置きしなくちゃならねえんでな……!」
「アントニオ」
「は?」
「だから名前。アントニオ。アントニオ・リッチ」
しかめっ面しているその顔をよく見る。濃いあごヒゲは熊か浮浪者を連想させ、青くもなければ茶色ですらない真っ黒な瞳は細い瞼の間からこちらを睨んでいる。お世辞でも美男子とは言えない。肌色もアジア圏のそれだ。
「嘘つくならもうちょいマシな嘘つけよ」
「嘘じゃねえって。オレはアントニオ・リッチなんだよ。たとえアントニオ・リッチじゃなくても、これからアントニオ・リッチになってくんだよ」
「やっぱ嘘ついてんじゃないか」
「だから嘘じゃねえって。たとえ嘘だったとしても、どうせオレはアントニオ・リッチになるんだから嘘じゃなくなるんだよ」
だから誰だよ、そのアントニオ・リッチってのは。どこぞの小悪党か何かか?
「でも俺とアントニオ・リッチとでは決定的に違うところがある」
目線をどこか遠くの空に向け、ニット帽はとうとう独り語りを始めた。訳が分からない。ついさっきまで俺を支配していた怨念の場所は、いまや混乱に取って代わられている。
「それは神の加護を受けているかどうか、ってことだ。アントニオ・リッチは見放されたが、俺は違った」
ともかくこのイカれたクソ犯罪者を捕まえることが先決だ。幸い、なにかに陶酔しているようなヤバイ目つきからして、今のこいつは隙だらけ。
そっと体勢をなおし、足に力を入れて……いちにのさんで後ろから羽交い絞めしよう。大丈夫だ。ゲームでしかやったことないけど、相手がこんな状態なら俺でもいけるはず……!
いち――
「アントニオ・リッチとオレの決定的な違いはそれだ。でも、その違いがなんで生まれたって聞かれると……」
にの――
「分かんねえ。多分、前にクモを助けたかどうかとか、パンクロックの曲を聞いたかどうかとか、そんなことなんじゃねえのかなあー。なあ……」
さんっ!
「テメェもそう思うだろ!」
鼻っ柱に激痛。
「――!?」
やつの首を絞めようと伸ばした腕よりもはやく拳が鼻先にきていて、反応する暇もなくぶん殴られた。不意の不意を突いた裏拳がジャストミートで俺をノックアウト。さらには後ろのブロック塀に頭をぶつけて、そのまま尻もちをついてしまった。
つまり、こいつは全然隙だらけじゃなかったってこと。
「ロックダンスにはトゥエルって動きがあってよ、昔ダンスかじってたときにこう教えてもらったんだ。『後ろにいる人間をぶちのめすイメージだ』ってなァ!」
ニット帽はそう言い、ユラユラと体を揺らしながら歩き出す。そしてすぐ近くの民家……俺が軽トラにぶつかりそうになる直前に見たあの家へと向かった。
なんだ、あそこに住んでたのか。意外と近所じゃん。
ドロっとした生温かい液体が鼻からこぼれ、舌の先に鉄の味が広がる。
まずいな……。味覚的な意味でもだし、そうじゃない意味でも、まずい。
美織の自転車はメチャクチャだろうし、自転車泥棒は捕まえられないし、散々だ。
視界も徐々に曇っていく。頭から爪先までを眠気が覆う。
そういや、軽トラのおっさん、いなくなってるし。轢き逃げなんじゃないのそれ。あと黒のワンボックスもいない。せめてお前は助けろよ、血も涙もないのか。事なかれ主義ってやつか。
ああもう畜生。なにがアントニオ・リッチだ。明日にでもそこの家に押しかけてきっちりお礼を言ってやらないと気が済まねえ。あんな最低なイカれ野郎がこの町にいたなんて知らなかったのに。あんないかにも不潔な乞食みたいなやつが……。
不潔な乞食――が、庭付き一戸建て……?
そう思った瞬間、あのニット帽が通りへと飛び出したのが見えた。
恰好はさっきと何も変わらない。ただ一つ、また別の自転車に乗っていることが問題だった。
その銀のシティ車はやつ自身の物だろうか。
否、と俺の直感が告げる。
あいつは引ったくり犯、下衆な犯罪者なのだ。となればあの自転車も、今俺の横で倒れている自転車も盗難品に違いない。
確かに俺は満身創痍だ。だがそれはニット帽も同じこと。裏拳一発分の差しかない。
袖口で乱暴に鼻血を拭い、震える足で、紫のクロスバイクと一緒に立ち上がる。
さあて、追いかけっこ第二ラウンドの開始だ。
*
ニット帽との距離は前のときほど離れてはいない。だが差は少しずつ広がっているように思える。
疲労が溜まっていることもあるだろうが、主な原因はこの自転車にある。
先ほどのドロップアタックによってか、ハンドルがグラグラするし、チェーン部分が噛み合っていないのか金属同士が軋む音が耳をつんざく。
このままではアイツが逃げ切るのも時間の問題……。
「っざけんなよ……。悪いことしてお咎めなしだなんて、普通に許せねえからな」
もちろん、下手な正義感でニット帽を追いかけているわけではないことは自覚していた。
俺は正義の味方になったつもりで奴を追っているわけじゃない。ただの恨みで追っているわけでもない。美織の復讐の代替わりとして、だ。
――美織はそれを望んでいると思うか?
さあ。だが美織が望んでなくても、あいつにはその償いをする義務がある。
――その義務は、俺が鼻血出しながらも必死であいつにさせる価値があるの?
ないかもしれない。というか、償いなんて俺にはどうでもいいのかもしれない。
――誰も得なんてしない。誰も幸せにならない。
だろうな。多分そうなると思う。
だけど――
そういうのは、捕まえてから考える!
だから今はなんも考えない!
「おおおおおおおお!」
車体も頭もグラグラするけれど、それでもスピードは落とさない。
ただ向こうに見える赤のジャンパーに追いつくことだけを頭に入れて、他のことには一切執着しないようにする。
捕まえた後のこととか、ニット帽の言った言葉とか、美織のこととか、全部全部頭から捨てて軽くなって、スピードも上がる、差も縮まる。
マラソンでも、逃げる方より追いかける方が有利だって聞いたことあるし!
「待てやクソジャンパアア!」
二十メートル、十五メートル、十メートル、五メートル。
そろそろ追いつく。やっとだ。今度こそこいつの首を絞めてやる。
だが
「甘い甘い甘い甘ァァい!」
と、ターゲットことニット帽野郎は叫び――
自転車から、跳び下りた。
「あ」
当然奴の乗っていた銀のシティ車は失速し、倒れた。……俺のすぐ目の前で。
突然のことに反応が遅れたせいでブレーキも間に合わず、クロスバイクはハスキーボイスをあげながらシティ車の上に乗り上げる。ガシャアン!
「……うあっ!」
何考えてるんだアイツ!? 自分の自転車を妨害のために捨てて、それでそっからどうする気だよ! 馬鹿か!
しかしニット帽はそのまま、古ぼけた木造アパートの前に置かれている自転車に跨り、何のためらいもなく発進させた。
鍵がかかってなかったのか? いや、でも奴の迷いのなさはどちらかというと、鍵なんか問題じゃないといった感じだった。
まるで、世界中の自転車に乗れて当然で、ありとあらゆる自転車は自分の支配下に置かれているのが自然とでも言うような躊躇の無さ。
そして、先ほどのニット帽の言葉を思い出してしまう。
――神の加護を受けているかどうか、ってことだ。
神の加護って言うと、魔法とか魔術とかバチカンの秘密組織とかそういうイメージが少なからずあって、そこの人たちが異教徒に向かって火とか雷とか出したり、呪いをかけたりする映像が頭に流れる。
魔法。魔術。
それってある意味、超能力って言えるよな。
「まさか……」
だが残念ながら、深く考える余裕なんて俺にはなかった。ニット帽は新しい盗難車で逃走し、俺は一コンマでも早く奴に追いつかなければならない。追う理由についてはこの際もうどうだっていい。
俺は紫色のクロスバイクのハンドルを握りしめた。けれども、一呼吸入れてからその手を離した。
大きな音を立ててアスファルトに転がるクロスバイク。
俺は奴の捨てたシティ車に乗り換え、走り出した。
それからは、俺が追いつきそうになり、ニット帽が自転車を乱暴に乗り換えて、捨てられた自転車に俺が乗って、また追いつきそうになり……の繰り返し。
音で言うと、シャコシャコシャコシャコ……ガシャン! シャコシャコシャコシャコ……ガシャン! の無限ループ。だいぶ簡略化されていて、本当はもっとキキィ! とかガガガガ! とかいう音もしょっちゅう入るんだけど。
いつの間にか俺と奴は住宅街を抜けて、大通り、商店街、工場地帯等々バラエティに富んだコースを走っていた。
ニット帽が乗り捨てて、俺がリユースした自転車もとっくに二十を超えていると思う。最初から数える気なんて無かったけれど、多分そのくらいは乗ってる。
道中も能力に関する新たな発見がいくつかあった。一つはチェーンなどのロックも無効化できるということ。もう一つは、鍵に限らず、たとえば自転車と電柱を繋いでいる鎖だって無効化できてしまえるということ。もちろんこの力を実演したのは俺じゃなくてニット帽野郎なんだけど。
ペダルを漕いで漕いで漕ぎまくって、おそらく今後一生こんなに必死で自転車を漕ぐことなんてないだろうと思いながら進んで、とうとう日は山の向こうに隠れてしまった。
いつの時代のどんな泥棒も、闇に乗じて姿を隠す。きっと奴はこの時を待っていたのだ。
なんとしても、その前に決着をつけなければならない。
この時の俺にはもはや、怒りなんて湧いていなかった。無心。怒りも疲れも疑問も感じず、機械のように自転車を漕ぐ真撫カジカというロボット。
そんな俺をあざ笑うかのように、ある看板が目に入った。
《くにたけサイクル》
どうやら漕いで漕いで、ついにはスタート地点までぐるっと一周してきたらしい。
この角を左に曲がったところにある店先には、いかにも高級そうな一台の自転車が、ダイヤのような存在感を放っている。
――お、いいの入荷してるね。これ、タイムトライアルバイク?
――ん……ああ、そうだ
そんな会話が、以前ここであった。
今の俺が乗っているのは灰色の電動アシスト自転車。漕ぐのは楽だがいかんせんスピードがいまいち。ニット帽の乗っているのはたぶんママチャリだろう。遠目からだが籠が見えた。
ガラスの向こうには鮮やかなビビッドイエローのタイムトライアルバイク。絶対高価だろうし、絶対速い。あれに乗れば、廃材みたいになった俺の足で漕いでも稲妻のように道路を駆け抜けるに違いない。
だが……それは立派な泥棒じゃないか?
これまで俺はニット帽の盗んだ自転車を流用して追いかけてきた。しかし、ここであの自転車を盗むということは、言い逃れのできない犯罪行為じゃないか?
……いや、分かってるんだ。警官が犯人確保のために銃を持たされているように、有事の際には超法規的措置とやらが存在することを。ここで手元にあるのが拳銃だったら、俺は間違いなく引き金を引いていただろう。
だが、自転車を盗むということは……。
泣き顔が浮かんだ。美織の瞳から零れる大粒の涙が、脳裏をよぎる。
あの時、幼い自分が夕焼け空へ向けた怒りの眼差し。それが今の自分に向けられているような錯覚。
「でも、今はそんなこと……」
関係……ないッ!
俺はブレーキをかける。キキィィ! と前方を走るニット帽にも聞こえるような急ブレーキ。
ニット帽がこちらを振り向いた。暗闇がその表情を隠すが、きっとにやけているだろう。俺が諦めたと思って、自分が勝者だと確信して。
甘めえ。甘めえ甘めえ甘めえ甘めえ甘めえ甘めえ甘めえ甘めえんだよ!
ニット帽が近すぎず離れすぎず絶妙な位置となった時、俺は《くにたけサイクル》目がけ一直線でスピードに乗る。
店内は明るく、ガラス越しには邦武父の後ろ姿が陳列棚の隙間から見える。
そして店の前にきたところでブレーキ……ブレーキ……ブレ……え? ちょっと待ってストップストップ止まって止まってなんで止まんないのちょっとタンマヤバイってヤバイこれ!
ガシャアアアアン!
*
勝った。
「オレは勝ったんだ! アントニオ・リッチになった……いや、超えたんだ!」
足もくたびれて服も汗でビショビショに濡れてるけど、その分だけ達成感もすさまじかった。
今日は人生で最高のデッドヒートを繰り広げ、そして勝利した。すばらしい日じゃねえか!
正直なところ、ここまで疲れ切ってしまえば実質的な成果なんてどうでもいいわ、心底。
ただ、あの変な野郎、オレと同類なのか? ……多分そうなんだろうな。あいつも神様か何かに選ばれたとかいうやつで、ひょっとしたら他にも同類がいるとか。
「多分あれだな。味方五人で敵も五人の、合計十人いるパターンだな。……って何て少年漫画だよソレ! ぎゃはははは! 五人の自転車泥棒! 五人のアントニオだぜ、ぎゃははははは――――は?」
オレの今乗ってる自転車にはバックミラーが付いてる。見た目的にはややダサくなるけど、今回のレースでこれはこれで便利だと感じた。
で、そのバックミラーに何かが映ってる。暗いからよく見えないが、黄色の自転車、なのか?
「まさかアイツ……」
いや、そんなわけない。アイツはさっきダウンしたんだ、止まり切れずにガラスぶっ壊して。仮に、仮にだ、起死回生で立ち上がってきたところでもう十分に引き離したんだ。夜の闇も深くなってきている。追いつくのは絶対に不可能だ。
ふう、驚かせやがって。多分別の誰かだろ。夜道を自転車で走るやつなんて大勢いるんだから。
もう一度バックミラーを見る。黄色い影が大きくなっている。まったく、そんなに急いでどうかしたのか?
構わず走る。オレは勝者なんだ、細かいことなんか一々気にしてられっか。
後ろから激しい息遣いがする。だから慌てすぎだっての。こんなのが後ろにいちゃあ良い気分も冷めちまうってもんだ。ここはとりあえず追い抜かせて……。
その時、雲の中から月が出た。といってもオレは夜空をずっと見ていたわけじゃなくて、急に周りが明るくなったからそう推理しただけだ。
おかげでミラーの中の黄色い影も、はっきりと顔が見えた。
「な、な、なななななんだテメェはあああああ!?」
映っていたのは黄色だけじゃなかった。それより目立つ色があった。ただ闇に飲まれて見えなかっただけだったんだ。
真っ赤な血で染められた顔。
そいつが真後ろからオレを猛スピードで追いかけてきてた。
「うわああああああああ!」
なんだこれ、なんなんだよこれ! 都市伝説かよ!
霊? 妖怪? 聞いたことねえぞこんな化け物!
とにかく逃げねえと……! でもあっちの方が速いだろどう考えても!
ど、どうする?
「……いや、大丈夫だ」
オレにはこの力がある。なあに、相手が人間だろうが化け物だろうがオレのやり方は変わらねえ。
「甘いっ! せいぜいそこでずっこけやがれェ!」
オレの十八番、その名も『送りバント脱法』。乗っている自転車を妨害用として使い捨てる、最強の逃走方法。これを使って逃げきれなかった試しはない。
問題は代わりのアシが見つかってねえことだが、まあ心配ねえだろ。アイツが転べば逃げる時間くらいは作れる。
そう思って自転車から跳んだオレの耳に、ついさっき聞いたような声が飛び込んできた。
「甘えのはお前だイカレヤローー!」
何言ってやがる。誰がイカレてるって……ああ?
おいおい。
おいおいおいおいおい!
ア、アイツも跳んでやがる!
吼えるような、人間のものとは思えない声が響いた。
振り向いた頬に、唾か血か分からない液体が飛んできた。
ガシャアッ! と自転車同士がぶつかる音が後ろで聞こえた。
焦っていたのはオレの方だった。暗闇で距離感もつかめず、月明かりに突如浮かんだあの顔に仰天し、判断をミスったんだ。
そう気が付いたときにはもう遅い。空中に浮かんだまま、やべえ死ぬ、と考える間もなくグーが頭にめり込み、オレは思いっきり吹っ飛ばされた。