休日は外に出よう
*
我が姉こと真撫コジカと我が幼馴染こと邦武美織。
二人は意外と仲が良い。
一人っ子である美織からすれば本当の姉のように思えるのだろう。
『コジカねえ』
その呼び名も幼い頃からまったく変わっていない。
呼んでいる本人は「子どもっぽいとは思ってるんだけど……変えどきがわかんなくってさあ」と言っていたので、この呼び名もしばらくこのままだろう。
呼ばれている本人も「心地いいねえ、こんな可愛い子にお姉さん呼ばわりされるのは。美織ちゃんさえよければ本気でうちの娘にしちゃいたい……じゅるり」らしいので、要するに双方合意の上で二人は姉妹(仮)のような関係なのだ。
ただし、その仲を快く思わない人間が一人だけいる。
真撫カジカ――つまり俺自身だ。
世界一大好きな女の子と宇宙一嫌いな知的生命体が二人でキャッキャウフフと仲睦まじく歓談しているのを見ていて快く思わない人間がいるはずもない。
当然だ。
いたら是非教えてほしい。
そいつには三日三晩夜通しかけて俺の苦悩をみっちり聞かせてやろう。
ちなみに邦武父からは特に文句はないらしい。
女同士ならいいのか、女同士なら。
そんな表面上だけで人を判断するんじゃない邦武父。あなたは姉貴の本性を知らないんだ。
――そう訴えようとしたところで、彼が俺の言い分をまともに聞いてくれるはずもないし、そんな成功率の低い作戦に命をかけるほど俺は愚か者じゃない。
さて。
そんなわけで今日、美織がうちに来る。
姉貴に「なにか」を教わるために。
人間、秘密を隠されれば隠されるほど気になるものである。玉手箱もパンドラの匣も開けずにはいられないし、機織りの音を聞くと戸を開きたくなるのだ。
居ても立っても居られない俺は携帯の文字盤を人差指でポチポチと打つ。
『やっぱ迎え行こうか?』
一分もしないうちに携帯が震えた。
『だいじょうぶ。今家でたとこ』
そっけない文面だが、美織はだいたいこんな感じのメールしか打ってこない。
淡泊な性格がよく表れている。彼女が絵文字や顔文字を使うと不自然だから、これは俺に気を遣う必要がないという証明なんだろう。
自分勝手な解釈? ポジティブシンキングと言え。
今頃美織は自転車に乗ってこちらに向かっているはずだ。
それにしても公園での待ち合わせを拒むとは、なおさら秘密が深くなるばかりだ。
「そんなにも俺に知られたくないなんて……もしかして嫌われた?」
恐ろしい考えが頭に浮かび、つい口に出してしまった。
いかんいかん! 今さっきのポジティブはどうした俺。
「いや、俺のことが嫌いならそもそもここに来ようとすらしないんじゃないか?」
だとしたら安心だ! うん、俺のことを視界に入れたくもなくて匂いが漂うのも嫌で存在を一ミリでも感じ取れるのが嫌なゴミ虫以下のクズカスだと思ってるのなら、少々の無理を言ってでも別の場所で用事を済ませようとするはずだ!
……なんか、自分で言ってて死にたくなる。
とにかく、これで俺の不安は薄れた。
「一番の問題は、やはり秘密の授業か……」
この言い方だとAVタイトルみたいだな……。
今まで、俺に対する隠し事や秘密が無かったわけじゃないけれど……先日の美織の様子はどう考えても変だった。
いつもの美織なら、隠し事をしていてもあんな態度をとることはない。
たとえば
『なあ美織、さっきそこに置いてたイチゴ大福……』
『たべてないよ』
『や、まだ何も聞いてないけど……』
『たべてないよ』
『もしかして食べ』
『たべてないよ』
『……でもほら、俺がトイレに行ってる間にイチゴ大福が勝手に消滅するはずな――』
『そんなことより早く、ほらコントローラー持って。ワドルドゥ動かして』
『そんなことって……』
『もう押すから。もうスタートボタン押しちゃうから』
『待て待てやめろ! 死んじゃうから! そのままじゃワドルドゥ壁に押しつぶされて死んじゃうから!』
『許せワドルドゥ!』
『ストップ、ストーーップ!』
こんな感じで無理矢理有耶無耶にしてしまうことが多い。
「無理矢理有耶無耶って、漢字で書いても声に出してもすごい迫力があるな……」
そんなどうでもいい発見は置いておいて。
今回の件における美織は無理矢理有耶無耶にしようとはしていたものの、力強さというか、強制力みたいな力がぜんぜん足りていなかったように思う。
美織の弱点?
それならいくつか知っている。動物の死骸は全部苦手で、焼き魚の頭を食べたがらないこととか、泳ぎは全然駄目で水中で目も開けられないこととか。
そういう類の相談をしに来ている?
今日という日にわざわざ、姉貴のもとへやってきて?
しかし、そう考えれば辻褄も合う気がする。
「でも結局、なんにも分からないことに違いはない、か」
携帯をもう一度開く。電話もメールも届いていないけれど、画面右上に小さく映るデジタル数字を見て、もうすぐ美織が到着してもいい頃合いだなと気付く。
そのとき、砂利を踏んで歩く音が聞こえた。
噂をすれば、というやつだろうか。
ザッザッと小石の群れが断続的に踏まれる音。
ジャリジャリジャリ……と、こちらは連続して聞こえる音。
人と自転車。
俺は跳ねるように窓に近づき、眼下に見える美織の姿を確認した。
まず目についたのは、眩しいオレンジ色のロードレーサー。
パッと見はブラウン基調の地味目な服装。上には茶色のカーディガンを羽織っている。下はスカートではなくジーンズ。こちらも茶色のハンドバッグは、遠くから見てもはっきり分かるくらいパンパンに膨れていた。そんな何が詰まってるのか非常に気になる袋からブラブラと伸びてるのは……夏の思い出のストラップ。
自転車を停めようとしたところで俺のことに気付いたのか、こちらを見ながらベルを鳴らしてきた。
チリン、チリン。
蜜柑を半分に切ったような形のベルからは、柑橘系のように愛らしく、どこか甘酸っぱい音が聞こえた。
*
美織が好きだ。
何度も何度もしつこいようでそろそろ聞いてる方もうんざりしてきた頃合いだろうが、言ってるこっちは全然そんなことはないので悪しからず。
好きになることに飽きもしなければ、言えば言うほど好きになることもない。常に一定で常に最高潮の『好き』。だけど言えば言うほど好きになっていく感覚がするのもまた事実で、そんなとき俺は、端と端が繋がった階段の上を感情だけがぐるぐると上りつづけている光景を想像してしまうのだ。
騙し絵の階段に惑わされる感性の衝動を理性が抑えられるのも、時間の問題といったところか。
……いやしかし、常に最高潮の『好き』を維持しつつ、今現在それを美織に晒けだしていないということは、今後も感性のコントロールが乱れることはないということではなかろうか。俺の理性が優秀なのか、それとも感性がまだ真の力を隠したままだということなのか。
自分の中の二大勢力がよく分からない。
民主党と共和党。
保守党と労働党。
国や時代を問わず二つの強大な組織は存在するものの、俺は政治には明るくないのでチンプンカンプン。
一つだけ、今この場で判明していることがあるとすれば……。
美織が家に来てくれたというのに、俺は自分の部屋に一人いて――
「ドア越しで失礼、弟くん。先ほどの忠告通り君はそこで深海の貝のようにじっとしているかね。もしそうならマリアナ海溝からひっそり浮上する泡のような声で返事して頂戴。もしそうじゃなくて、部屋の窓からタケコプターも装備せずに脱出したというのなら……アンタ、分かってんでしょうねェ」
俺を部屋に縛りつけているものは優れた理性でも縮小された感性でもなく、ただの脅しだということだ。
「はいはい分かってる分かってる。その脅しの理由はともかく、内容はちゃんと理解してますから」
「うるせえ、貝がそんな饒舌に喋るか」
理不尽な返答。いつものことだ。
「じゃあ何て答えりゃいいんだよ……」
「カプカプ笑っとけ」
「クラムボンって貝だったの!?」
小学校からずっと抱いていた疑問に終止符が打たれるとは。
まあ真偽は置いといて、その擬音は確かに貝っぽいと思う。
「とにかくさっき言った通り、用事が済むまで部屋からは出てくんな。出たら一生カプカプとしか笑えない体にしてやっからな」
そんなお仕置き聞いたこともねえよ。
「あのさぁ、こういうことリアルで訊くのって人質みたいで恥ずかしいんだけどさあ……」
「どうした、チャウダーにでもなりたいか?」
無視。
「トイレはどうすればいいんでしょうか」
「ペットボトル」
「即答でその返事かよ!」
「あー、なに? アンタの部屋ティッシュは大量にある癖にペットボトルの一つもないの? まったく仕方ないやつだなあ」
「アンタ弟のこと何だと思ってるのさ!」
「『アンタ』……?」
「お姉ちゃん殿はこの卑しい愚弟の人柄をいかに捉えておられあそばせているのでしょうか」
「変態」
「死ね」
「…………」
ドア越しの声がピタリと止んだ。珍しく姉貴が黙ったようだ。
まずいな、ストレートに言い過ぎたのかもしれない。
「……まあ、石ころぼうしを被ったのび太くん並みに存在感を消せば、二階での移動は許可しないこともない」
人を馬鹿にする気色がずっと減った声でそう言うと、姉貴の去る足音が鳴った。
下へ下へと階段を踏む音がドア越しに遠ざかり、キッチンの扉が閉まる音が、遥か彼方から、かすかに聞こえた。
再び訪れた平穏だが、モヤモヤとした心はいっこうに晴れない。当然だ、美織が一つ屋根の下にいるのに顔を見ることすらできないなんて。これが生殺しというやつか。神は俺になんという試練を与えたんだ! ――いや、神ではない。試練でもない。俺をこんな軟禁状態に追い込んだのは実在する姉貴であり、これは悲劇に他ならない。十八年間過ごした俺の経験上、どう考えても姉貴≧神。極悪非道で完璧超人という、正義の味方泣かせの一般市民。
そんな奴に待機命令を出されたところで、俺の中の『美織に会いたい!』衝動は素直に従えるはずもないのだが。
すぐ手が届く場所にありながらも、それが許されない。
あれは酸っぱい葡萄なんだ、とでも思えば楽になれるのかもしれないが、美織のことをそんな風に思うなんてことは天がひっくり返ってもあり得ない。
苦しい。
こんな苦しみを抱えたままゲームや漫画や受験勉強をやることもできず、俺は貴重な休日の昼を悶々とし続けるだけで消費してしまった。
*
「囚人01010番、ただいま午後四時四十分を持って仮釈放を許可する」
そんな、弱火でことこと煮込まれているような苦しみを味わっていた最中、廊下から声が聞こえた。滑舌がはっきりしていて、かつ邪悪さを匂わせる声。聞き覚えのある……というか数時間前に聞いたばかりのボイスだった。
もちろん俺がいるのは牢獄ではないし、それどころか罪に問われるようなことすらしていない。まあ、脱獄に関してはアルカトラズ刑務所の方がまだ楽そうな気がするが。
「って、なんで仮なんだよ」
「だってアンタ、またここに戻ってくるじゃん」
「あーなるほ…………いや、その理屈はおかしい」
「とにかく出な、OTOTO(弟)番。今すぐ出ないと引きこもりの焼印を押すよ」
「焼印!? 烙印じゃなくて!?」
字で書くと似てるけど、受ける方としちゃ全然無視できない違いだ。
「あーもう、さっさとしな。ヒロインを一人で帰らす気かい?」
美織。
思い浮かべただけで背筋に電撃が走った。
そうだ、美織は? まだ帰ってない? 今は? 窓の外を見る。日が傾いてきている。そろそろカーテンを閉めないと。その前に送ってかないと! 俺が美織を送ってかないと!
「で、でもお姉ちゃん。もういいの? 来たときはああ言ってたのに……」
「だーかーら、いいっつってんの。つべこべ言わずに逝ってヨシ」
「微妙に古いスラング使うよね、お姉ちゃんて……」
急に軟禁が解かれただけでなく、美織を送っていけとは……やはり妙だとは思う。しかし今の俺に選択肢は一つしか残されていなかった。
鏡で身なりを確認。囚われの身のときに人差指で前髪を弄っていたせいで、超局地的にパーマがかかっている。瞬時に天秤を思い浮かべる。髪を直す時間と美織を待たせる時間、どちらが貴重か。
答えは決まっている。当然美織を優先だ。美織が待つのに飽きて先に帰った挙句、なにか事故にでも巻き込まれたらどうする。そう考えただけで足は自然と前に出て、手は脳の命令を待たずにドアを開ける。
階段をホップ・ステップ・ジャンプのリズムで跳び下り、廊下を疾風のように駆け抜けると玄関の先には美織の姿が。
バルコニーでジュリエットと再会したロミオもこんな気持ちだったのだろうか。
ロミオは裏の森からジュリエットのいるバルコニーまで、木を登って会いに行く。対して俺は、玄関にいる美織のもとへ階段を下りて会いに行く。位置的には真逆だ。でも気持ちだけは似ている。俺はロマンチックな言葉を平気で吐けないが、胸の中の温度だけなら、負ける気はしない。
「公園まで……っはぁ、送ってくよ」
息を乱して、超局地的パーマで現れた俺を見て、美織はどう思うだろうか。拒絶こそしないものの、心の中では引いてしまうかもしれない。
でも彼女は、とても自然に、いつもと何ら変わりのない口調でこう答えた。
「ん。お願い」
そんな気がかりは杞憂だよ、ということだろうか。
真撫家を出てしばらく右に進み、鈴原さん家の前で左に曲がり、少し歩いたところで今度は吉田さん家の前で右に方向転換。ここら辺は人通りも少ないため、夕日色した道路の上に、俺と美織と美織の自転車の影だけが長く伸びている。美織は少しお疲れの様子だったから、自転車は俺が押していた。多分今日の出来事と何か関係があるのだろう。
「それで結局、うちで何してたのさ」
「えー、秘密って言ってるじゃん」
「もう終わったんだから教えてくれたっていいじゃんか」
「終わってないよ」
「そうなの?」
「うん、私の闘いはまだ始まったばかりなんだよ」
「今にも打ち切られそうなセリフだな、それ」
他愛ない会話をしつつ、視線を美織の腰の方に向ける。別にいやらしい目的があってじゃない。決して。断じて。誓って。
間違いない。来るときにはパンパンに膨らんでいたはずのハンドバッグが、今ではすっかり萎んでいる。
そして次は服装に目を向ける。美織が着ているのはブラウンのカーディガンにジーンズ。首にはお気に入りだというネックレス。今は九月下旬なので、何ら不自然ではない恰好だ。――ある一点を除いて。
「美織、なんで手袋してるんだ?」
「え? えーと、その、これはだねえ……」
口ごもる美織。学校で話したときと似たような反応だ。黒い毛糸の手袋に見えたが、美織は慌てて片手をポケットに入れ、もう片方をバッグの陰に隠してしまった。
俺は更に追求しようとしたが、先に美織の方から言葉をかけてきた。
「寒くない? 夕方だしさ」
「いや全然」
「だってもう五時だよ。カラス鳴いてるんだよ」
「うん鳴いてる。でもそれとこれとは」
「関係ないとは言わせないよ!」
「言わせてよ……」
「カラスの発する超音波が周波数の関係で逆マイクロ波を生んで、特定の個体から熱を吸収することは学会で既に発表されているんだよ!」
「超能力者の俺が言うのもなんだけど、そんな突飛なことあるわけないだろ」
「じゃあホントのこと、告白するね」
「お、おう」
突然出てきたそのワードに、心臓がドクンと大きく揺れた。
「ずっと黙っててごめんね。カジカに知られるのがどうしても怖かったの。でも私、もう逃げないから。ちゃんと自分と向き合えってお父さんも言ってた。だから真実を話すよ。実は私…………冷え性なの」
「う、嘘だそんなこと! ――とでも言うと思ったか」
「言わせるよ!」
「言わせないでよ……」
「いいや、絶対に言わせてみせるんだから!」
「その熱意はいったいどこから来てるの?」
「私のあとに続けて、『嘘だそんなことー!』はいっ」
いつの間にかすっかり美織のペースに嵌ってしまっていた。でも俺は事態の展開についていくのがやっとで、既に当初の目的は忘却の彼方に消え去っていた。
「ウ、ウソダソンナコトー」
「感情がこもってない。抑揚がゼロ。もっとこう、ずっと尊敬してた先輩に裏切られたときのような感じで」
「ウ、ウソダソンナコトー!」
「違う。セリフをセリフとして意識し過ぎているね。滑舌とか気にしなくていいから。ほら目を瞑って……シチュエーションを思い浮かべて。……オーケー? そこから湧き上がるパッションに己のすべてを任せるの! さあ!」
「ウ、ウ……ウソダドンド――」
「ひゃあっ!」
ビャウッ!
と、風を切る音がしたかと思ったら、続いて衝撃音。
何かが俺たちのすぐ近くを猛スピードで突っ切るのを感じて、とっさに我に返った。
目を開けると、美織の背中、後頭部、夕暮れ色のショートカットが見えた。視界の……下の方に、バランスを崩した体が。
え、なにこれ。
と考える間もなく、脊髄反射で美織の腕をつかむ。
「大丈夫か美織!?」
俺の手から離れた自転車がガシャン! と音を立てて倒れる。
美織を抱き起すと、驚愕の表情がそこにはあった。
「怪我とかは? どっかすりむいたりしてないか!?」
「う、うん大丈夫。それより……」
確かに、倒れこむ直前のナイスキャッチのおかげか怪我はないようだ。
そこで気づいた。バッグがない。落としたのかと周りを見渡しても、辺りには砂利と空き缶とビニール袋が無造作に転がってるだけだ。
慌てて前方を向くと、自転車――派手な紫色のクロスバイクに乗って去る小さな背中が見えた。
深い緑のニット帽に赤のジャンパー。そして左手には……茶色のハンドバッグ。
「美織、自転車借りるぞ」
「え、あ、うん」
スーパーや各種専門店などが近くにある例の公園とは違い、ここの通りは人通りも少ない。
まさにひったくりには打ってつけの狩り場ってか。
脳裏に一瞬だけ、昔の記憶がよみがえる。小学生では自転車を盗まれ、高校生では自転車で盗まれるとは、俺たちもつくづく運がないよなあ。
「気を付けて帰れよ」
そう言いながら自転車を起こす。
「カジカ……」
息を吸い込み、ペダルを踏み込み、目標を睨む。
「待てやコンニャロオオオーー!」