昔の話、と夏の終わり
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ここで昔の話を挟もう。
人という生き物は、あまりに信じがたい事象に直面するとそれを見なかったことにする習性がある。
いわゆる現実逃避、というやつだ。
その類に漏れず、俺は一時的に過去へと視点を向ける。
あれは小学校の五年生のときだった。
季節はちょうど今と同じくらいの時期。ギラギラした太陽は山の頂上にくっつきそうになっていて、風は街路樹をザワザワと揺らしていた。
そんな日曜日の夕方。
当時、俺と美織は途方に暮れていた。
五時をつげるチャイムがどこからか響き、道路を走る車たちの大半は帰路についていた。
今通り過ぎたミニバンの後部座席には小さい子供が眠っていて、運転席と助手席の夫婦は今日の出来事を思い返しているのか、と想像しながら、俺たちは歩いていた。
夕日が染めるのは馴染みのない道。俺と彼女を見下ろすのは、大人としか入ったことのない大型ショッピングモール。
「ごめんね……ヒック、私が遠くまで行こうって誘ったから……うぅ」
ヒック、ヒックと定期的にしゃくり上げる彼女は、俺と同じくらいの身長だった。だから悲しみと申し訳なさが五:五の割合で表れた表情がよく見えて、同じくらい悲しくなった。
そんな風にまっすぐ彼女を見ることができた昔の自分を、俺は羨ましく思う。
「だ、大丈夫さ。知らない町じゃないんだし、歩いていけば絶対に帰れるって!」
この時、新しい自転車を手に入れた彼女に誘われて、俺たちは隣町までサイクリングをしていたのだ。新品の車体はツヤのあるピンクで彩られ、軽く女の子でも運転しやすいように作られたマウンテンバイク。
隣町には大きなショッピングモールがあって、よく両親と来た町だったけど、子供だけで行くのは初めてだった。先生からは「子供だけで遠くに行っちゃダメです」と言われていたけれど、隣町まで行くことは当時の俺にとっては冒険に他ならず、小学生の冒険心を口だけで抑制することは困難であった。
俺と美織が無事ショッピングモールまでたどり着き、なけなしのお小遣いを使ってお菓子や文房具を買ったあとのこと。
自転車が盗まれていた。
うっかりしていた。なにせ俺は美織との初デートとも言える旅路で盲目状態だったし、彼女はこの時珍しく上の空だったから、二人とも自転車の鍵をかけ忘れていたのだ。
昨今ではすっかり姿を消した公衆電話を探し出し、家に電話をかけようともした。だけど買い物に張り切りすぎた財布には十円玉すらなく、彼女のピンク色の財布も同様であった。
美織が「疲れた……」と呟いた回数が六回に達したとき、太陽は既に山の向こうに沈んでいた。そして彼女の足は棒になっていた。動かない足を棒と称するのは乱暴な表現だと思うけれど、同時に適切すぎる例えだとも思う。
彼女を背負い、俺の足も軋みをあげていたけど、それでも止まることなく歩き続けた。
美織は背中で寝息を立てていた。呑気なもんだと思った。
結局、彼女を送り届けて家に帰ったころには八時をとうに過ぎていた。母に叩かれ、姉貴には暴言を吐かれた。父だけは笑っていた。
この日、心に決めたことが三つある。
一つ目は携帯電話をできるだけ早く買ってもらうようにすること。
二つ目は自転車泥棒を許さないこと。
三つ目は……いや、ここで言うのはよそう。
何を隠そう、俺は恥ずかしがり屋さん歴十八年のベテランなのだ。
*
亡二下非と名乗る少女と会った次の日も、俺の日常にこれといった変化は無かった。
家を交互に行き来し、勉強会は進んだ。
その次の日も、そのまた次の日も。
変化があるとすれば、古文単語や年号や英単語がインプットされたくらいである。
時には二人で映画を観に行くこともあった。デートといえばラブロマンスが定番であるが、俺たちの場合はアニメの劇場版だった。これは美織の趣味であり、俺も以前漫画を貸してもらったこともあったので、観賞後のトークはなかなか盛り上がった。そうそう、特典のストラップもバッグに付けたんだ。俺は緑の虎、美織は赤の兎。以来美織は、どこへ行くにもこのストラップを必ず身に付けて行動するようになった。
息抜きということで花火を見に行ったりもした。知らない男と肩を組むクラスメートの女子とすれ違うと、その女はニヤニヤしながらこちらを見て「フーン」と、わざわざ声に出す必要もなさそうな声を漏らした。俺はそんな女には微塵も興味はないが、人ごみの中でもはっきり聞こえたその声は妙に記憶に残っている。花火はとても綺麗だった。
正直に言うと、俺は美織に海やプールに行く提案をしたかったのだが、それは却下された。美織曰く「恥ずかしいから」とのこと。そう照れくさそうに微笑する姿は、なんとも可愛らしかった。
輝かしい一日一日も矢のごとく過ぎ去る。俺は忍者にでもなったかのようにその矢のキャッチを試み続けたが、時は無情に流れ、その矢の一本一本を脳裏に焼き付けるだけで精一杯だった。
そんなわけで、八月も終りにさしかかろうとする頃には、俺の頭は美織とのかけがえのない思い出プラス受験勉強ではちきれそうになっていた。出来ることならSDカードにバックアップを残しておきたいところだが、あいにく科学はそこまで進歩していない。しかし、本当の最先端技術というのは一般人の目の届かない場所で研究が進められているので、ひょっとしたら記憶保存技術は既に市販直前なのかもしれない。そんなわけない? そんなの時が来てみなきゃ分からないじゃないか。
高校最後の夏。俺は一生モノの思い出をたくさん作れたと自負する。
そりゃあアニメや漫画や小説にもできない、特に変哲もなくドラマ性のない日常だったけれど、でも俺にとっては幸福以外の何物でもない記憶なのだ。
美織と過ごす夏。ついでに脇役として度々登場しては日常にアクセントを加える邦武父や姉貴。
そんな日々を送りながらも、俺は亡二下非の存在を一瞬たりとも忘れなかった。
勉強会が終わってから公園付近の家の表札を見るのが俺の日課となった。だがしかし、「亡二下」なんて奇妙な苗字は見当たらなかった。公園に遊びに来る子供たちにも聞き込みをしたが、成果はゼロ。偽名を名乗ったのだと確信して、外見的特徴や「我輩」という喋り方をキーワードにして再度聞き込んだが、これも無駄に終わった。
仕方なく、あの少女はここらへんに住む親戚の家に数日間遊びに来ていたのだと結論付けることにして、捜索を諦めた。
そうこうしているうちにも時間は進む。
気が付けば八月三十一日。
あと一日で夏は終わる。
そして、あと五か月もしないうちに世界は終わる。
もしかしたらこの夏が人生最後の夏になるのかもしれないと不安に思ったが、一方で人生最後の夏としては相応しい日々なのかもなあ、とも考えられるのであった。