世界崩壊宣言
*
車は急に止まれない。
これは大型自動車も大型特殊自動車も中型自動車も普通自動車も小型自動車も小型特殊自動車も大型自動二輪車も普通自動二輪車も原動機付自動二輪車も電車もバスも馬車もリヤカーも、そして当然自転車もそうである。
しかし、この標語に一つ問題があるとすれば「車『は』急に止まれない」と表記されている点である。
正しくは「車『も』急に止まれない」ではないだろうか。
よく考えてみてほしい。世の中で流動するあらゆるものは急に止まれるだろうか? 否、そのブレーキの効きに差こそあれ、大抵のものは急停止できない。
津波も急に止まらない。噂話も急に止まらない。皺の増加も急に止まらない。
では、何とかしてその奔流から逃れたくとも、慣性の法則には決して逆らえないのだろうか。
それは違う、と俺は思う。
どうしても今を受け入れられないのなら、それとは逆方向の力を、今の流れよりも強く吹きつけてやればよいのだ。
ほんの出来心で職と名誉を失うように。いじめっ子がいじめられっ子に成り下がるように。
人はそれを見て「台無しだ」と肩を落とし、また一方で「形勢逆転だ!」と歓声を上げる。
まあ、そんなことは今更言うまでもない事実なのかもしれないけど。
とりあえず今言えることは、俺が自損事故を起こして公園で療養中だということだ。
慣性の法則、恐るべし。
「痛ててて……!」
「大丈夫? オニーチャン」
俺が患者なら、この少女がナースというところか。であるのなら、今寝転んでいる木製ベンチは真っ白のベッドということになる。
少女から貰った絆創膏は右膝に三枚、右肘に一枚、そして右頬に一枚貼られている。膝の傷は特にひどく、表面がほんの少しえぐれていた。
もちろん絆創膏を貼る前に公園の水道で傷口を洗ったが、これがひどく痛くて、背骨が痺れる衝撃が走った。年をとって痛みを味わう機会が減った分、それに対する耐性も失ってしまったのかもしれない。
少女は俺の頭のすぐ近くに座り、声をかけてくれる。
そういえば最近の子供は外でも3DSとかやってるんだってな。そういう点では、怪我する機会が多かった俺の世代は幸せというべきか……。
俺は少女を下から覗き込みながらそう思った。覗いた、と言っても変な意味じゃない。
「オニーチャン、名前は何て言うの?」
微妙に違和感のある発音でそう訊かれた。
「俺は……つっ!」
答えようとした瞬間、膝の痛みが電撃のように走った。体がまたビクンと震える。
こんな小さい子に情けない姿を見せちまってるなあ……。でも超痛いんだ、許してくれ。
俺は木製ベンチが入院ベッドにならないように祈った。
「俺What‘s? なに、記憶喪失なのオニーチャン?」
「いや、別にそう言ったわけじゃ……」
少女は俺の顔をまじまじと見つめ、チラリと膝の方に目を移した。どうやら察してくれたらしい。
「大丈夫?」
「ああ、全然大丈夫。平気平気」
俺は(おそらく引きつっているだろう)笑顔で答えた。
「俺は真撫カジカ。君はなんていうの?」
「なきにしもあらず」
……ん?
聞き間違いか?
それとも訊き方を間違ったか?
「ごめん……もう一回言って?」
「なきにしもあらず。『なきにしも』が苗字で『あらず』が名前だよ」
聞き間違いでも訊き間違いでもなかった。
すげえ名前だ。
今後一生、このレベルの珍名とは出会わないだろう。
どういう字を書くのか気になった俺に、『あらず』ちゃんはフルネームを地面に書いて教えてくれた。
亡二下 非
女の子らしく、丸みを帯びた可愛らしい字だった。
これ、初見なら確実に読めないな……。
「非ちゃんか。珍しい名前だね」
「オニーチャンも中途半端に珍しい名前だね」
そりゃあ君と比べたらほとんどのDQNネームは中途半端だろうさ。
「小学生……だよね。もう家に帰らないとお母さんが心配するんじゃない? ほら、俺なら一人でも大丈夫だから」
「いい」
「そ、そっか」
非ちゃんはじっと俺の目を見つめている。小学生に見下ろされるなんて体験、よく考えたらこれが初めてかもしれない。
「じゃあさ、なんでさっきは急に声を上げたりしたの?」
「そのことは我輩が先に言おうとしてたの。オニーチャンは――」
「ちょっと待ってごめんストップ」
一々会話をぶつ切りにして本当にすまないと思う。
だけど、だけどさ……。
喋り方は普通なのに一人称だけが『我輩』ってなんだよ!
キャラ強いよこの幼女!
「どうしたのオニーチャン、痛むの?」
やはり『お兄ちゃん』の発音が変だ。どこか別の言語のような、呼ばれているはずなのに呼ばれていないような感覚を味わう。
見たところ黒目黒髪だけど、外国育ちだったりするのだろうか?
「いや、もう治まったよ」
「なら良かった。じゃあオニーチャン、タントーチョクニューにきくよ。最近不思議な出来事に出くわしたりしてない?」
「また急な質問だね」
正直に答えるべきだろうか。
見つめる先にいるのはまだ年端もいかない少女一人。話したところで大した影響はないように思われる。
「うん。何故だか知らないけど俺、自転車の鍵を……何て言えばいいのかな、無視して乗ることが出来るんだ」
適切な説明とは思わなかった。端的に語っても事細かに解説しても、子供に正確に伝わるはずないと思っていた。
だが少女は
「ふーん。それならビンゴだね」
と、疑問の余地なく納得したようだった。
「やっぱりこの町に現れてたんだ。ええと、『真撫カジカ プロフィール』でggってと……」
「え? なに、君この説明で納得したの!?」
思わず上半身を起こして言う。
膝の痛みはもう気にならなかった。
「そうだけど? ……あー、ごめんねー我輩のせいで迷惑かけて」
「待って待って、君のせいってどういうこと? この能力のこと何か知ってるの?」
「たはあ……。もう、せっかちだなあオニーチャンは」
混乱する俺をよそに、非ちゃんはベンチから腰を上げた。そしてくるっとターンを決めて顔を向けた。
夕日はだいぶ傾き、目元は陰ってよく見えなかった。
「我輩は世界を滅ぼすんだよ」
ニっと笑う歯だけが不自然に、空間の中を浮いているようだった。
「あと半年。それが『世界の所有者』亡二下非の定めた世界の寿命なんだよ」
*
妄言だ。
そう思った。そうとしか思えなかった。
小学生なんてある意味では思春期より多感な時期だし、漫画とかアニメの影響でちょっと早めの中二病を発症してもおかしくはない。
だが、何故だろう。
目の前の彼女からは、そんな偽りは感じ取れなかった。
まるで本当に世界を手中に治めているような、世界を滅ぼせるような自信。
だけど、俺は一人の良識ある大人としてこう言う。
「嘘だろ」
「ホントだよ」
即答。まるでそう聞かれることをあらかじめ予想していたようだった。
「仮に本当だったとして、それが俺の能力とどう関係してるんだよ」
まさか……俺に世界を滅ぼせとか命令するつもりじゃないだろうな。
おままごとでも付き合うのはごめんだ。俺は今の日常で十分満足しているんだから。
どうしてもというなら今すぐ三原山にでも行って来い。
というか、俺が自転車パクって滅ぶ世界ってなんだよ。貧弱すぎだろ。
「それはね……それは」
ここで非ちゃんは困ったように俯いた。
「我輩、地球の自転制御をぶっ壊して地上の何もかもを空の彼方へぶっ飛ばそうと思ってたんだよ……」
「冗談にしても、スケールのでかいことを考えるなあ」
「それで、自転を抑えるあらゆる要因の効果を少しずつ弱めて結果的に自転速度を増加させるプログラムをしたつもりだったんだけど、間違って自転車の方にそれを施しちゃったっていうか……ケアレスミスっていうか……」
「ドジっ子かよ」
まったく、この年頃の子供の想像力は豊かだなあ。
それとも、これと同じような設定の漫画が流行っていたりするのだろうか? 女子小学生のブームなんて微塵も知らないから、もしかしたらそうなのかもしれない。
「あ、信じてないでしょオニーチャン」
「当たり前だろ。ほら、君もそろそろ帰んないと」
「そんなことはいいの!」
非ちゃんは強い口調で言い放った。
「それと、我輩は『君』じゃなくて『亡二下非』。ちゃんとそう呼んで」
「フルネームは言いづらいな……。非ちゃんでいい?」
「うん。それでオーケー」
そう言ってから、非ちゃんはこめかみに人差指を当てて「う~ん」と唸り始めた。目は閉じられて、口はぎゅっと結ばれている。
「どうしたの非ちゃん?」
「あー、今オニーチャンの情報が届いたとこ」
「届いたって……どこからどうやって?」
見たところ飛脚や黒猫のプリントされたトラックは来ていない。
「アカシックレコード。方法は……説明する必要がなければすっとばしてもいいかな。口じゃ伝えにくいんだもん」
俺はなんとも言えなかったので、とりあえず首を縦にだけ振っておいた。
アカシックレコードを知っているとは、今時の小学生は中二病化が進んでいるなあ。
ここでアカシックレコードへのアクセス方法を十万ちょいの魔導書とか不可視境界線とかにこじつければ完璧だ。
そんなどうでもいい心配をしていた俺だが、次の瞬間、続く彼女の言葉に意識を持っていかれることとなる。
「真撫カジカ。一九九六年一月二十二日金曜日、真撫健馬と真撫久美子の間に生まれる。姉は真撫コジカで、年の差は二歳。K県立内川高校三年二組十二番。席は前から五番目・右から二番目」
非ちゃんは早口でまくし立てた。
あまりに突然だったので、俺は何の反応もできずに素直に聞くだけだった。
「好きな食べ物は豚骨ラーメン。嫌いな食べ物はもずく酢。趣味はミステリー小説を読むこと。小学校時代は一時期『カジカんちが火事だ!』とからかわれていた。中学校の卒業文集での将来の夢はサラリーマンだが、実際は特に何も決まっていない。己の『こんな将来は嫌だ』リストが増えるばかりで、理想の将来としてはせいぜい結婚願望が存在する程度。好きな有名人はミスター・ビーン。好きな漫画は『ジョジョの奇妙な冒険』の第四部。
小学校一年生のころ毎週欠かさず『おジャ魔女どれみ』を見ていたが、同級生には秘密にしていた。二年生では教室で女子のおっぱいを触り女子全員から罵られたことがあるが、決して故意ではなかった。前述のからかいもこの時期から言われ始めた。三年生になると運動できるやつがモテるようになり、運動会前にはこの公園を何周も走って特訓した。
四年生のとき、授業中担任に怒られて教室のど真ん中で泣いたことがある。五年生では友達と喧嘩して相手を殴り、校内でちょっとした問題になったことがある。六年生のとき、誰かが自分の机に置き忘れた定規の持ち主が分からず、そのまま自分の物にしてしまったことに今でも罪悪感を抱いている」
その声に感情などは込められておらず、彼女はただ淡々と『読む』という行為だけをしているようだった。
その内容は、赤の他人が知るはずもない情報。
個人情報とかいうレベルじゃない……なんだこれは?
「中学に入ると小説をよく読むようになった。中学一年のころ、授業開始前に保健体育の教師が自分に向かって『なに読んでるんだ?』と訊いてきたことがある。真撫カジカがブックカバーをめくると教師は『下らなさそうな本だな』と嘲笑した。その時の本は宮部みゆきの『ブレイブストーリー』だった。真撫カジカは憤りを感じたが、じっと封じ込めた。
中学二年から成績が格段に伸びた。特別な勉強をしたわけでも、塾に通い始めたわけでもなかった。ただ普通に課題をこなしていただけだったが、その理由を本人は自覚していなかった。実はこれは、姉である真撫コジカが睡眠学習の効果を試すために夜な夜な実験を行っていたからだった。この睡眠学習は四月の新学期から五月三日まで継続的に続いたが、それからも度々夜の実験は行われたため真撫カジカの中学時代はそこから一貫して好成績を維持し続けた。
中学三年になり、周りが受験一色になっても余裕を保っていた。三年生の部活動停止に合わせて放課後の自主勉強時間が導入されたが、真撫カジカはそれには参加せずブックオフに通い詰めた。ジョジョを読んだのはその時である」
言葉の羅列――いや、真実の羅列が非ちゃんの口からとめどなく流れ出す。
俺の過去を洗ったというのか。どうやって? 聞き込み? ネットサーフィン?
まさかとは思うが、超能力とか?
「高校入学を機に、真撫カジカは自分を変えようと努力し始める。髪型、私服、コミュニケーションの取り方等の知識と技術を春休みに身に付ける。これにより高校からは友人の数が急激に増える。とは言っても、親友と呼べるような存在はできなかった。
高校二年の修学旅行では長野県に行き、スキーをした。班の中で自分だけがうまく滑れず、インストラクターの手を煩わせた。しかし、班の友人たちは表立った文句を言ってくることはなかった。東京観光では秋葉原で時間を忘れるほど楽しみ、案の定集合時刻に遅れた。
高校三年。成績が伸び悩み、第一志望合格のために夏の特訓を決意する。だが塾は自分の性分に合っていないと判断したため、幼馴染と二人だけの勉強会を開くことにする。その女の名前は邦武美織。小学校に入る前、親同士が公園で知り合ったことがきっかけで遊ぶ仲になる。小学校は二年生と五年生の頃を除いた四年間をクラスメートとして同じ教室で授業を受けた。中学では奇跡的に三年間同じクラスであり、高校では残念ながら一度も同じクラスにならなかった。しかし、クラスは別でも昼休みや休日にはよく遊んでいたため、真撫カジカと最も多くの時間を供にした人間は、家族を除けば彼女ということになる。また、真撫カジカは邦武美織のことを――」
「やめろ」
ピタリ、と暗唱の声が止んだ。
夕日はもう沈みかけている。カラスの鳴き声と周囲の家々から漏れる子供の声だけが辺りに響く。うなじを伝う汗は、多分夏の暑さのせいだけじゃない。
「もう十分だ。君は――非ちゃんは只者じゃない。それは十分理解できた」
それが果たして世界滅亡予定の証明となるのかは、また別だけど。
彼女はただの小学生じゃない。いや、そもそも小学生なのかどうかも不明であると言える。だって俺はまだ非ちゃんの口から年齢について聞いていないのだから。
「まあ、こうしてオニーチャンの全て――過去と未来、そこから繋がるありとあらゆる多元宇宙まで知ったわけだけどさあ……」
非ちゃんは呆れたような表情を浮かべた。
ちっぽけな虫けらの死骸を見下すような、そんな顔。
「オニーチャンの人生って、くっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっそツマンナイねえ」
そう吐き捨てて非ちゃんは走り出した。
アラレちゃんみたいに手を水平に広げて、公園内を縦横無尽に駆け回る。
「もしもこれが物語なら、自伝小説なら、退屈で退屈で仕方ない、出版されて速攻ちり紙交換に出される駄作中の駄作だよ!」
非ちゃんは砂場をまき散らしながらグルグルとそう叫ぶ。
「ここまで読んでくれた読者がいるとすれば、ソイツは間違いなく変人だね! 他人が幼馴染と延々イチャコラしてるの見て面白いわけないじゃん! それを楽しむのはアンタ一人だけだよきっと多分絶対百パー!」
非ちゃんは滑り台を逆側から上り、階段を二段飛ばしで降りる。
「我輩は分かってるんだよ! 全部全部分かってるんだよ! オニーチャンがしたいこと。それは突き詰めればセックス! オニーチャンは邦武美織ってオネーチャンとセックスしたくてしたくてたまらないんだ! 勉強中も帰り道も、会話に隙間が生まれた途端にセックスへの持っていき方を考えているんだ! ベッドへの道をシミュレーションしているんだ!」
非ちゃんはブランコを手に持ち、そのまま思い切り上に投げる、ブランコの鎖は空中でジャララと音を立てる。
「でもオニーチャンはそんな自分を認めていない! ド変態だってことは認めても、オニーチャンはオネーチャンとセックスしたい自分を心のどこかで認めていない! だから一生童貞! どうしようもないくらい惨めで女と関わる権利なんて持ち合わせちゃいない変態童貞!」
非ちゃんは公園の中央で、つむじ風のようにクルクルと踊る。
「でも……いや、だからこそオニーチャンは我輩に感謝するべきなんだよ! こんなつまらない人生だけど、我輩の介入でちょびっと面白くなったんだから! 世界は滅ぶけど、残り少ない人生で我輩っていう別次元の存在と出会えたことは凄いことなんだから! それがオニーチャンにとって幸せなことかどうかは関係なくね!」
ふと遠くを見ると、太陽が山の後ろに沈むところだった。
公園の真ん中に目を戻すと、非ちゃんはいなかった。
砂場にも滑り台にもブランコにもいなかった。
非ちゃんは嵐のように暴れ、煙のように消えたのだった。
怪我の痛みは消えていた。
俺は自転車に乗って帰った。