月
*
「ほら、着いたよオニーチャン」
「は? え? なに、ここどこ?」
気が付いたとき、俺は見たこともない場所にいた。
コンクリートで固められていた地面は石と砂しかない不毛の土地に変わり、周辺にあった廃墟もバス停もきれいさっぱり……まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
山も無くなったおかげで、夜空は三六〇度に広がる地平線の先の先まで俺を囲んでいる。
そして何より奇妙なのが――
「これ、地球?」
地平線の先に見える夜空で一番大きい星。今まで見た星の中で、比類ないほど巨大な惑星。
地球は本当に青かった。
「うん、なんかぶつくさ言っててウザかったから、勝手に月まで運んでおいたよ」
非ちゃんは裸コート姿のままで、その手には例の耳なしタイムトライアルバイクのハンドルが握られていた。
「まず確認ね。オニーチャンは世界を救うでファイナルアンサー?」
「ファ、ファイナルアンサー」
まだ例の謎の答えは出てないから、そう答えるしかなかった。
これを聞いた非ちゃんは満足そうに頷いたあと、顔を執拗に近づけることはせず、あっさりと次の解説に入った。
「ここは月」
「……はぁ」
「ムーン、モンド、ルーン、ルーナ。ウサギも蟹も髪の長い年増女もいないけど、月」
「なんで月にいんの?」
「それはオニーチャンが地球を回すため」
「俺がやるのはいいとして、でもどうやって?」
「これは自転車から始まった出来事。終わりもやっぱり自転車じゃないとね」
意味が分かっていない俺に、非ちゃんは自転車のハンドルを強引に握らせた。
「漕いで」
「え?」
「まずは赤道のちょうど真上になる地点まで歩いて移動して、東向きに漕ぐの。そしたら月が右回りに回転するから、我輩特製スケルトンチェーンで月と繋がれた地球は逆方向に回転するってわけなんだよ」
解説されてもさっぱり理解不能なその理屈に首を傾げると、非ちゃんは頬を餅みたいに膨らませて怒り出した。
「もうっ! だから要するに地球と月を繋いで一台の自転車にするの! てか、したの! 地球は海があるから自転車で赤道一周はできないでしょ!? だから月の方を回すの! そして地球はもとの自転速度を取り戻して一件落着! 何か質問がある!?」
「ごめん、もう一回聞かせて。どうやって月を回すの?」
「だーかーらーじーてーんーしゃーをーこーぐーの!」
頭から蒸気が出てるんじゃないかと心配になるほど、非ちゃんはヒートアップしていた。
いいのか『世界の所有者』? キャラ変わってるぞ。
落ち着いて話を聞いたところによると、今の地球と月には、普通の人間には見えないし触れることもできないチェーンがかけられているのだそうだ。
だから月の自転を利用することで、足りなくなった地球の自転を補うのだ。
しかし質量の差から考えて、それだけだと月の自転も地球につられて止まってしまうのがオチだ。そこで俺が月面に降り立ち、自転車で月を回すことになったのだ。
「そこまでは分かったんだけど……でも普通に考えて、自転車一台で月が回るわけないだろ」
「普通の自転車ならね。でも今のお兄ちゃんには私が直接力を譲渡してるから、あらゆる障害は極限までカットされるの。それプラス、自転車の座標を固定させて、タイヤと地面の摩擦係数を……ああもう、とにかく!」
あれ? 非ちゃんの話し方に、少し違和感を覚える。
「地形に合わせて重力調整! 漕いだ力は無駄なく運動エネルギーに変換! 漕げば自転車じゃなくて星の方が動いてくれる、私カスタム・スーパーアシストサイクル!」
「なあ、さっきから一人称『私』になってないか」
「ひぇっ!?」
すっとんきょうなその反応を見た限り、どうやら聞き間違いではなかったらしい。
真っ赤な顔でコウモリみたいにコートをばたつかせる姿を見ていると、さっきまであった憎しみや悲しみが煙のように消えていく気がする。
いや、もしかするとそんな感情はもうとっくに消えていたのかもしれないと、記憶まで捻じ曲がってしまうような。
非ちゃんはコホンと咳をして気分を落ち着かせると、再びセールストー……説明に戻った。
「酸素や宇宙服も不要だからね。ここに連れてくる途中、ぶつくさ言っていたお兄ちゃんの口に、この『一口適応! アストロナッツ』を放り込んでおいたから。これを食べれば体内で酸素が生み出されて宇宙服を着ているのと実質同じ状態に!」
コートの内側から、英語の書かれたチョコレート箱のような物体を取り出す非ちゃん。
「ドラえもんで似たようなの見た覚えがあるんだけど」
「それと、水と食料は私が地球から持って来てあげるから。健康管理、最低限の環境確保には責任を持つよ。トイレは……悪いけど自分でどうにかしてね」
「ああ、分かった。……なあ非ちゃん、一つどうしても気になることがあるんだけど」
「ん、何?」
人を見下す目線はどこに行ったのか、普通の女の子の普通なリアクションで非ちゃんは聞き返した。
「いくらスーパーアシストとは言ってもさ、秒速463メートルだっけ? そんなスピードで走り続けるなんて流石に無理なんじゃないか?」
「……」
非ちゃんは何故か顔を下に向けて押し黙った。
どうしたんだろう、人の不幸を嬉々として話す非ちゃんには珍しい沈黙だ。
荒廃した岩と砂。果てのない夜空(とさっきから言っていたが、よく考えたら昼なのだ。青空が無いために錯覚を起こしてしまう)。SF映画も顔負け、リアル宇宙の一角に俺と非ちゃんがいて、一方が黙れば完全な静寂が訪れる。
「相対性理論」
非ちゃんはいきなりそう言った。子供のくせによく知ってるな、と軽口を叩こうとしたが、彼女の真剣な眼差しを見て口をつぐむ。
「――じゃないんだけどさ。時間の流れを変えるんだよ。これは私が出来る範囲でも最高難度の技術。お兄ちゃんの時間と宇宙の時間をずらして、短時間でのエネルギー生産効率を数百倍にまで引き上げることができるの。地球にいる他の人間が一日だと感じても、お兄ちゃんにとってそれは何百日にもなる。時間の流れが違うから、私ぐらいとしか話すことはできない……い、いいんだよ別に。ここで止めてもさ。特別にク、クーリングオフしてあげるよ……」
非ちゃんの肩は雨に濡れる子犬のように震えていた。
ザリザリと自転車を押すと、小さい重力のせいか砂が煙のように舞い上がる。そのまま彼女の方に近づくと、砂は俺と非ちゃんの間に壁をつくった。
うっすらとしか見えない。目の前の人物がどんな顔して、どんな風に泣いているのか。
ゆっくりと煙が晴れ、非ちゃんの顔が露わになる。
その彼女の素顔を見て、俺は言った。
「で、非ちゃん。赤道と平行になる場所ってのはどこなんだい?」




