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リパクパ  作者: 藤本乗降
1 自転車
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真撫カジカと彼女

   1 自転車



 俺の目の前には、休みだというのに制服を着ている女子生徒がいる。肩口で切りそろえられた柔らかそうな黒髪が、滑らかな曲線美を描いて揺れる。普段は光沢を放つ肌も今日はほのかに焼けていて、その首にかけられているオレンジ色のタオルは、褐色の体によく映えていた。その外見からは日差しの下、自転車で風のように走りながら、夏ミカンのように甘酸っぱい笑みを浮かべる姿が想像されるようだ。

 真夏の太陽は徐々に傾きつつあり、その燃えるような赤い光がカーテンの隙間から漏れている。二階にあるこの部屋からは、カラスの鳴き声が水平軸上に聞こえてくる。そんな俺と彼女のいる空間はクーラーによって二八℃を保っているものの、どこかほっとする暖かさに満ちていた。

 ただ、この部屋は普段からこんな心地よい空気を漂わせているわけではない。おそらく、目前の外的要因によってそう錯覚しているだけなのだろう。

 俺と彼女の間にある使い古された卓袱台は、弱弱しい足でなんとか自重を支えている。いや、自重だけでなくその上に乗っかったペンや教科書、辞典等諸々をも支えているのだから、いやはや大したものだとついつい感心してしまう。

 だが、現代を生きる高校生の七畳間に何故古臭い卓袱台があるのかと言えばそんなことはどうでもよく、目の前に女の子がいるという疑いようのない事実だけが俺にとっては重要なのであった。

「超能力?」

 驚き二割、疑心八割で構成された彼女の声は、そんな部屋の中で発せられた。

「ああ。俺、超能力者になっちまった」

「いや、いやいやいやややや」

 彼女――邦武美織くにたけみおりはペンを挟んだままの右手を勢いよく左右に振る。まあその反応が当然だろう、クラスメートが超能力者だと暴露したのだから。呆れて帰らないだけマシかもしれない。

「カジカ、その……昨日の出来事の話は聞いたけどさ、それを超能力って言うのは……」

「ん。実のところ俺だって信じちゃいない」

「――――今ずっこけた」

 少々の間を置いてから、美織は静かにそう言った。

「は?」

「八十年代なら、私今ずっこけてた」

 それを真顔で言われましても。

「だからまあ、信じてもらわなくても別にいいよ。受験勉強の息抜きトークってことで」

「じゃあ信じない」

「淡白だなオイ」

「嘘。ちょっとぐらいは信じてあげる」

 ちょっと、とは一体何割ぐらいなのか。きっと謝罪会見する政治家の誠意ぐらいちっぽけな量なのだろう。

 俺――真撫まなでカジカはそんな期待値に嘆息して、卓袱台の上のノートと再び向き合った。


 美織と俺はいわゆる幼馴染という間柄である。

 小さい頃から親も交えて仲良しであり、家は少し離れているものの付き合いは盛んだった。

 出会って間もない時期から互いの家の中間点に位置する公園でよく遊んだものだが、自転車に乗れるようになってからは家でゲームをすることも増えてきた。

 だから俺は彼女の趣味をよく知っている。お洒落は人並みにするけど、好む漫画はけっこうマニアックだったりすることとか、球技は苦手だけどサイクリングがすごく好きなこととか。

 対して彼女も俺のことをよく知っている。今でこそ運動はしないけど、小学校のころはリレーでアンカーだったこととか、ファッションセンスはないけど、実際はどんな服装が似合うのかとか。

 喧嘩していがみあったかと思えば、次の日にはどちらも喧嘩の原因を忘れていた。

 他の男子にちょっかい出された美織が泣いていたときは、俺が文句言って返り討ちにもあったりもした。

 とにかく、思い出を一つ一つ挙げればキリがない。

 うん。これだけ聞けばなんとも爽やかな話だ。

 青春といえば百人中九十人はこんな関係を思い浮かべるんじゃないだろうか。

 そして今、お互いをよく知る幼馴染同士が夏休みに互いの家で勉強会を開いている。

 一人の得意教科はもう一人の苦手教科をぴったりカバーして、まるでキャッチボールのようにノートは進む。疲れたら下らない話で笑い、思い出話で盛り上がる。

 そんな日常。漫画やアニメでよく言われる「ありふれた日常」。

 山場も無ければオチもない。けれど素晴らしき日々。

 そんな日々の一部となるだろう今日、七月二十一日も日暮れを迎えた。六時、お開きの時間である。

 俺たちは背伸びしたり腰を捻ったりして体をほぐすと、適当に今日の感想みたいなことを語りながら教科書とノートを鞄につめた。

 それから数分後、俺と美織は自転車を押して橙色に染まる道を歩いていた。

 何人かの小学生が歓声をあげて走り回っている。家に帰るのが惜しくて、自分はまだ遊べる、自分はまだ遊びたいと夕日にアピールしているのだろうか。そんな姿を見て、俺と美織の思い出話にも花が咲いた。

「あははは、あったねーそんなこと」

「そんなに笑わなくたっていいだろ……」

「いいじゃんいいじゃん、最後くらい笑わせてよ。もう公園着いちゃったし」

「そうだな」

「じゃあ、明日は私んちでねー」

「おう。気いつけて帰れよー」

 夕方になると、必ず二人で自転車を押しながら帰る。そして例の公園にたどり着いたら「さようなら」。

 これが、いつの間にか決まっていた二人のルールだった。

 幸せな毎日。

 そりゃあ嫌なこともたくさんあるけれど、総合して計算すればきっとプラスに傾くだろう日々。これこそが俺、真撫カジカの日常であった。

 世の中不幸にまみれた人が大勢いるのは知っている。そんな人たちに同情こそすれ、自分のありふれた幸福を噛みしめずにはいられない。人間とは往々にしてそういうものである。

 現状で満足しているし、充足しているし、できるだけ維持したい。

「ずっと今日みたいな日が続けばいいと、本気でそう思っちまうよなあ……」

「ウソつけ変態」

 なにげない独り言のつもりだったが、不意に背後からツッコミがあった。

 俺は前を向いたまま答える。

「いつからいたのさ……お姉ちゃん」

「今北産業」

「え、なに? 説明を要する状況なのこれ?」

 『幼馴染・さよなら・また明日』

 とか、そう言う解説が求められているのだろうか。

「なーにが『今日がずっと続けばいいのに』だ。お前は乙女か。変態乙女か。お前みたいなのは永遠にエンドレスジュライトゥエンティファーストしとけっつーの」

 相も変わらずキツイ物言いをする人だ、と俺は呆れた。

 振り返る必要はない。この甘さ控えめビターテイストな、ベテラン俳優のように渋みの効いた声を俺は知っている。

 真撫コジカ。ソンケーすべき我が姉君である。

「で、どうしたのお姉ちゃん。なんか用?」

「いんや。コンビニ行った帰りにたまたま知った顔を見かけたから、ちょいと興味本位で尾行してみただけ」

「いい趣味してるね」

「ありがとさん」

 それだけ会話して、俺と姉貴は黙り込んでしまった。クチャクチャという音が背後から聞こえるが、おそらくガムでも噛んでいるのだろう。その音を聞きながら、背中をじろじろと見つめられているのを肌で感じる。第六感で感じる視線はとても強烈で、まるで俺が振り向くのを力ずくで押さえつけているようだった。

 ……いったい何なんだこの時間は。何がしたいんだこの人は。貴公の目的と行動理由を答えよ。

「アンタってさあ」

 間延びした言い方で姉貴は言う。カラスの鳴き声がうるさく響く中でも、その声はちゃんと聞きとれた。

 しかし姉貴の言葉はそこで停止し、先ほどとは調子の違う声でこう話しかけてきた。

「ま、いーや。アタシは先帰っとくから、アンタも遅くなんないうちに来なさいよ」

 そう言ってまたクチャクチャと音を立てる。姉貴は歩き出したようで、足音は後方へと遠ざかっていき、やがて自動車の音に紛れてしまった。

「アンタってさあ」に続く言葉。それを想像するのは容易だった。なにせ十七年間も同じ屋根の下で同じ釜の飯を食らってきたのである。美織同様、付き合いは長いのだ。

――アンタってさあ、美織ちゃんに告白とかしないわけ?

 正答率八割五分、といったところか。


   *


 美織と別れたところで、俺の今日は終わったも同然だ。

 お互いに携帯は持っているものの、ほぼ毎日会っているせいか連絡はほとんど取っていない。まあ美織が機械音痴だというのもあるが、そんなことせずとも明日また会えるという確固たる事実が俺にそうする必要性を与えないのだ。

 自転車に鍵をかけ、家に帰り、飯を食い、シャワーを浴び、適当にテレビを見たり小説を読んだりしてベッドに入る。

 大学受験を控える身としてはあるまじき姿だろう。でもまだ七月なんだから、少しくらいは大目に見てやってくれよと思う。

 そういうわけで家族団欒とか風呂とかを済ませてから自室に入った。

 昼前から夕方まで美織のいた部屋。その残り香が微かに鼻腔をくすぐる。

「学校ある日はこうもいかないからな……。ありがとう夏休み。ありがとう受験勉強。この機会をよこしてくれて」

 受験に感謝するなんて夏休み前なら考えもしなかった行動だ。以前、担任が「いつかこの苦労を思い出して感謝する日が来る」と言っていたが、まさかその日がこんなに早く訪れるとは。

 この世に存在するあらゆるものに感謝の念を伝えたい気分だ。

 俺は卓袱台に顔を伏せ、頬が擦り切れるくらい頬擦るだけ頬擦った。揺れる卓袱台からギシギシと軋んだベッドのような音が鳴り、それが何となくいやらしい。高校生の部屋には不釣り合いな古い卓袱台だが、美織の匂いが染み込んだこの品をどうして捨てることができようか。

「はあ、はあ……ふう、ふっふふふふふふふ」

 そして……そしてそしてそして、次に俺の目が捉えたのは美織がずっと腰にしいていたふかふかクッション! 駄目だ、にやけを抑えることなんて不可能だ。しかしここは誰からも邪魔が入らない閉鎖空間。密室。クローズドサークル。鍵のかかった部屋。このテリトリー内において自分を抑える必要はない!

 ああっ! 俺は今! 美織の座っていたクッションに顔を埋めている!

 あの控えめな自己主張をするお尻をさぞ堪能したであろうクッションが心底羨ましい! 妬ましい! 生まれ変わるなら彼女の自転車のサドルの次に、このクッションを第二希望として申請しよう! それに比べれば東大だってハーバードだって内閣総理大臣だって第一億希望くらいだ!

 頭の中を美織のイメージがぐるぐると回る。チカチカと脳裏に美織のシルエットが浮かんでは消える。それは過去に見たことのある恰好だったり見たことのない恰好だったりと千差万別だった。なぜだろう、たまらなく気持ちが良い。さすがにやったことないけど、違法ドラッグを飲んだらこんなポワワ~ンって感じになるんじゃないか? 今にもクッションの中の世界に入り込んでいきそうな、重力から解放される感覚。なんだかこのまま、息をするのも面倒になってスウっと消えてしまいそうな……。

「って死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!」

 慌ててクッションから顔をあげると、酸素がこれでもかというほど肺まで入ってくる。

「げほゲホっ、ぐ、おえ……。はあ……うっ、はあ、はあ」

 胃から夕食の冷やし中華が逆流しかけ、急な呼吸で頭もフラフラする。

 片想いの幼馴染の匂いを嗅いで窒息死とか、八十年代の漫画でもそんな馬鹿な死に方はない。

 ドンッ!

 唐突に向こう側から壁が叩かれる音が聞こえた。

 俺の部屋に隣接する、ここよりちょっとだけ広い部屋を寝床とする人物は一人しかいない。我が姉君、真撫コジカだ。

 うちの姉弟においては壁ドンが来たときの対処法が明確に決まっている。俺は叩かれた壁の方まで近づき、手で作ったメガホンをくっつけた。

「……ごめんなさいお姉ちゃん」

 壁ドン一回につき謝罪一言。

 姉貴が中学に上がったころに誕生したルールである。

 あまりにも騒々しい場合は十回二十回もこの台詞を言う羽目になるというわけだ。今日は一回なので、俺はすごすごとクッションのもとへ戻る。

 次からはあまり音を立てないように堪能しなければ……。

 そう思っていると、またすぐに背中の方から壁が鳴らされた。

 壁ドン一回は謝罪一言で解決。そして今の俺は何も迷惑をかけていないはず。これは不当な謝罪要求である。

 壁の向こうに向かって、今度は謝罪ではなく文句を言ってやろう。

「なんだよお姉ちゃん。もうさっき謝っただろ」

 耳を当てて向こうからの返事を待った。すぐにくぐもった声が聞こえてくる。

「いや、アンタの気持ち悪い姿を想像しただけで鳥肌が立ったから、なんとなくもう一発入れただけだけど?」

「なにその理由!?」

「それよりほら。はよはよ」

「……ったく」

 姉貴の傲慢は今に始まったことではない。俺は早々に諦めて、先ほどの台詞を繰り返そうとした。が

「あ、やっぱいいや。そもそもアンタがキモイから壁ドンしたわけで、ここでアンタが何か言ってもアタシの気が害されるだけだし。そしたらまた壁ドンして謝罪して壁ドンして謝罪して……ってこれ無限ループじゃんか!」

 酷い言われようである。

 姉貴の毒舌も今に始まったことではないけれど、何回聞いても慣れることはない。

「壁がもたないなー。いや、アタシの自慢の拳が壊れるのが先か? いやいやそんなわけねーよな、あっはっはっは」

 一人で勝手に笑っている。

 こんな奴は放っておいて、もうここから離れよう。部屋の対角線に避難しよう。

 去る前に俺は、壁の向こうに聞こえるくらい大きな溜息を吐いた。

 しかし、姉貴がそれに反応した気配はない。クスクス笑いが微かに耳に入るだけだ。

 さっきまでの興が削がれてしまった。仕方ない、こんな夜は早く寝て、翌朝早起きして、美織と早く会う準備をするのが一番だ。

 壁から背を向けてベッドへ向かおうとしたとき、またもや声が聞こえた。まるで俺が会話を打ち切るのを見透かしたようなタイミングだった。

「アタシは知ってるんだよ。アンタが純情な恋する乙女男子じゃねえってこと」

 ピタリ、と足が止まる。

「アンタは美織ちゃんと付き合ってベッドでチョメチョメしたい……だけじゃないだろ?」

 からかうというよりは、神経を逆撫でするような口調だった。

「知ってるんだよ。アンタが実はコスプレエッチの妄想が大好きなマスかき猿だってことは。……そんなアンタが、あんな純真無垢な子と付き合うのは――まあ別に構いやしないけど、見ていて滑稽だよね、なんか」

 ドンッ!

 今度はこちら側からだった。

「ごめんなさいカジカ」

 ちっとも反省していない不快な声が聞こえてくる。

 俺は電気を消してベッドに直行した。

 思いの外よく眠れたのが、なんとなく救いであった。



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