予言
*
十月三十一日。
正真正銘、恋人同士となった俺たちは駅前のハロウィンイベントを見に行くため、いつもの公園で待ち合わせをしていた。
約束していた時間の二十分前、十二時五十分には到着したが、すでに美織は木の柵に腰かけてスマホを弄っていた。新しく買った水色のミキスト車は道路際に立っていて、新品特有の輝きを誇っている。
俺は――あの事件のあと邦武父よりプレゼントされた――黄色のタイムトライアルバイクを手押しして、傍に近づく。隣にきたところで美織が顔を上げた。
「また私の勝ちだね、カジカ」
やはり時間厳守において、邦武一族に敵う者はない。
そんな彼女はシルクハットにマントを背負い、口元には小さく逆三角形に切られたボール紙を貼り付けている。そして体にはブカブカの学ランを身にまとっていた。袖も裾も内側に大きくまくり上げられているようで、その恰好はひょっとしなくてもかなり動きづらいんじゃないだろうか。
「これ、おとーさんのお下がりなんだ」
どうりでブカブカなわけだ。
「似合ってるじゃん、吸血鬼」
「そっちも中々きまってるよ、狼男」
美織のコスチュームに対し、俺の仮装は狼男のマスクを被っただけという手抜き感満載のものだったので、少し恥ずかしかった。
一応狼男の雰囲気を出すため、上はグレーのTシャツ、下はダメージジーンズにしているんだけど。
「そろそろ行く?」
吸血鬼がそう尋ねるが、俺は狼の首を横に振ってその隣に座る。
「まだ時間はあるし、少し喋ってから行こうぜ」
「そうだね」
亡二下非がこの公園で現れてから三か月余り経った。つまりそれは、あの時語った『世界の滅び』の猶予が半分を切ったということ。
もちろんそれを完璧に信じちゃいない。……だけど、信じられないし、信じたくもないけど……あの言葉を無視することはどうしてもできなかった。
美織を見る。頭の上に「?」マークを浮かべ、首を傾げる。その拍子にシルクハットがずれて慌てる姿に、クスクスと俺は笑う。
「なあ。もしも、あと三か月で世界が終わるって言われたらどうする?」
「急だね」
「いいから」
「まあ、理由によるよねー。彗星とかなら分かる。あ、でも私、彗星に核爆弾埋め込む作戦が成功する方を信じるから、やっぱ信じないかも」
「映画の見過ぎだ」
「そんな質問してくる方が、映画の見過ぎだって」
それに関してはぐうの音もでない。
「じゃあ、たとえば地球の自転が速くなって、人も動物も何もかもが宇宙に放り出されるとしたら?」
「それ、カジカが考えたの?」
小馬鹿にしたような目つきでそう言われた。
「俺じゃないけど。近所のガキんちょ」
「ふーん。変なこと考えるねー近頃の若者は」
まったくだ。心の底から大いに同意する。
「でも、地球がベイブレードみたいに高速回転するなんて、ちょっと想像つかないなあ」
「まあ、そうだな」
軽く溜息を吐く。そう、あの幼女の言う破滅論には根拠もクソもないのだ。自転が急速に速くなる? そんな話、少なくとも俺は聞いたことがないし、納得なんてできるはずがないのだ。
「自転車なら……」
ふと、美織がそう言った。
「自転車なら、できるんじゃないかな。世界の滅亡」
「自転車が?」
美織の目はある一点を見つめていた。新品のミキスト車。細いフレームは女性らしさを思わせ、直線的なフォルムは乗り手の芯の強さを表しているようだ。
「滅亡って言っても、物理的なやつじゃなくってさ。もしカジカの持つ超能力が世界中に広まって、あの犯人みたいな自転車泥棒がたくさん出てきたらさ、法律とかモラルとかがメチャクチャになるんじゃない? で、世界中がだんだん無法地帯みたいになっていって、全世界の自転車屋さんも廃業。競輪選手も廃業。そんなこんなで世界は核の炎に包まれる……」
「北斗の拳かよ」
「こういうの、何て言うんだっけ? ほら、デスなんとか」
「ディストピアのこと?」
「そうそう!」
まさか自転車一つでそんな大事に発展するわけないだろう。そう呆れる一方で、美織の想像力は大したものだと思った。
「言うなれば、チャリパク・パンデミックだよ」
「なんだか安っぽい名前だなあ」
「じゃあ略そう」
「どうしてそうなる」
夏休み、美織が言った言葉が脳裏に浮かんだ。
――最近、何でもかんでもアルファベットや四文字で表す風潮があるじゃない。
頭の中で聞こえたその声にぴったり合わせて、現実の美織が呟いた。
「リパクパ」
その言葉は耳の奥で反響を繰り返しながら神経を歩み、ゆっくりと俺の脳にたどり着いた。
「リパクパ」
無意識に俺は反復した。
「うん。『チャリパン』だと、なんかエッチじゃない」
まあ今の私はパンチラする心配ないんだけどねー、と美織はブカブカの学ランをはためかせる。
俺はどこか機械的に笑顔を浮かべたまま立ち上がり、そろそろ行こうか、と催促する。
美織はそれに呼応し、新たな愛車の元へと駆け寄る。
「もしかしたら、私もなってたりしてね」
そう言って自転車にまたがり、右手で学ランのポケットを探る。が、神妙な面持ちをしたかと思えば手を止め、そのまま右足でペダルを踏んだ。ハンドルはまだ、握られていない。
俺はただそれを見ていた。
「え?」
大きな驚愕が込められた小さな声が、確かに聞こえた。
自転車は動いていた。何故か。ペダルを踏んだからだ。
普通、自転車はペダルを踏んで動くものだからだ。
それはある条件下では適応されないこともまた、俺は知っている。
「え?」
遅れて聞こえたのは、俺自身の口から出た驚愕だった。
トラックが近づいていた。その大いなる影と美織の小さな背中が重なっていた。
何が起きているのか分からない。
そして、瞬時に振り返った美織の顔もまた、同じく何も分かっていないという表情だった。
そこには死への恐怖も生への執着もなく、ただ「どうして?」だけがあった。
ブレーキ音。
バランスが保てずユラユラと亡霊のように揺れる自転車。
車は急に止まれない。
自転車は美織を乗せたままバランスを完全に崩した。だが、そこはトラックの真正面。
よくテレビでやってるよな、トラックの下をくぐって生き延びたラッキーボーイとかさ。
だが、そんな希望はあっさり塵と化す。
車は急に止まれない。
が、急に曲がることはできた。
重なる。真っ黒のタイヤと――
最初は頭だった。
シルクハットがこぼれ、あらわになった美織の頭が四トントラックの下敷きになる。かつて夏の風になびき、綿帽子のように揺れた黒髪はタイヤと地面との隙間に飲み込まれた。うつぶせなった最期の顔はどんな表情をしていたのか、知ることはできない。
次は背中だった。自転車に乗って走る美織は本当に風のようで、俺はその背中をいつも見てきた。それも今は、羽織った黒マントとトラックの影に隠されて、上から何番目の背骨がひしゃげたのかなんて当然分からなかった。
その次は尻だった。自転車のサドルに乗っけるお尻。家で勉強するときに正座するお尻。欲情したこともあるけれど、結局俺は生涯、そこに触れることはできなかった。
最後に足が踏まれると思ったけど、その前にトラックは美織の体から降りた。そして世界全体が軋むかのような音を立てて道路を滑り、そのままガードレールを突き破り、止まった。
視界が白い靄に包まれる。
美織が見えなくなっていく。
駆け寄ろうとしても、指先ひとつ動かせない。
そのまま、何が起こったのかついぞ理解できないまま視界は突然ブラックアウトして――




