文化祭
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例の事件で負った怪我もほとんど完治しかけていた。合計で十三針。今まで生傷をつくった経験が少ないので、これが多い数字なのかどうかは分からなかった。
怪我の功名というやつか、この件で邦武父から敵意を向けられることはなくなり、俺と美織はいわゆる「親公認の仲」という関係に発展した。
だが……。
「アンタ、別に美織ちゃんと付き合ってるわけじゃないんでしょ」
姉貴の言う通りである。邦武父がいくら俺を認めたとはいえ、当人たちの関係は実質「仲のいい幼馴染」以上ではないのだ。
「……そうだよ。だからこそ、明日の件よろしくね」
姉貴の部屋の前で、俺ははっきりとそう言ってやった。部屋の奥から「あいあーい」と適当な返事が聞こえてくる。お猿さんか。
「じゃ、明日うちに来るのは勝手だけど、俺には絡まないでね」
最後にそう言い残して自分の部屋へと戻る。机の上に置かれた卓上カレンダーの一マスには大きく赤丸がつけられていて、その内部にはこれまた赤い文字で『文化祭当日』と書かれていた。
高校最後の文化祭。俺のクラスはステンドグラス……という名のセロハン工作を展示することになっている。暗幕を貼って教室を闇で覆い、ライトで照らされた各種作品を楽しんでもらおうという企画だ。手間も大してかからないし、クオリティが低くても来場客からはバレにくいため、非常に効率的な出し物と言える。やる気と団結力のないクラスに強くオススメ。
そして美織のクラスは『カフェ・ショコラーデ』という喫茶店をやるらしい。その名の通りチョコレート菓子がメインで、飲み物もココアがオススメだとか。甘党スイーツ女子にはもってこい。
また、食べ物だけではなく教室の飾りつけやウエイトレスの衣装にも気を配ってるのだとか。いったいどんな衣装なんだ。商品や内装なんかより、美織が当日どんな格好をするかだけに興味がある。ここはやはり王道のメイド服? それとも何か別のコスプレか? アニマル系もよし。ゴシックロリータも捨てがたい。和服メイドおおいに可。ナース……飲食店には相応しくない気もするけど全然アリ! 水着の場合、やはり学校である以上はスクール水着だろ。旧スクも旧旧スクもどちらも用意して、名札には当然ひらがなで記名、『みおり』。……となると、体操服という案も必然的に出てくるな。体操服かスクール水着か、そのどちらかを選べということか……。だがそんな血の滲むような難問、俺には難しすぎる。争いは何も生みやしない。和平だ、和平の道を探すんだ! 和平、中立、二つの融合……。
……上体操着の下旧スク。
それだッ!
……いや、「それだッ!」じゃねえよ。
いかんいかん。こういう妄想をすると思考だけが地平線の彼方へ突っ走ってしまう。
そんな文化祭で、俺は美織と一緒に出店や展示を回る予定を立てているのだ。
『カフェ・ショコラーデ』で美織が担当する仕事が終わり次第、落ち合うことになっている。それまでの仕事と仕事の合間では友達と過ごすのだそうだ。
その間、俺はどうするのかって?
そんなのは決まっている。デートコースの下見だよ、一人で。
*
「いらっしゃいませー!」
文化祭当日。
うっすらと紅に染まってきた木々には色とりどりの装飾が施され、透き通るような青空の下で生徒たちの活気あふれる声や野外ステージで弾き語りをするアコースティックギターの音、放送部による各クラスの出し物紹介の説明などが入り乱れている。中庭にズラッと並んだ屋台からはたこ焼き、焼きそばといったメジャーなものから、『揚げアイスクリーム』といった奇天烈な看板が立ち、その図はまるで戦国時代の合戦のようである。
とりあえず、一個百五十円の『揚げアイスクリーム』バニラ味を注文してみた。眼鏡の二年生から渡された拳大のそれは、言われなければ中にアイスが入ってるとは全く分からない巨大な揚げ玉のような見た目だった。
恐る恐る、一口。カリッとした衣は火傷しそうなほどに熱い。だがすぐにその熱さが相殺された。間髪を入れず、冷気、そして甘さがやってくる。なるほど、これが揚げアイスクリームか。
これは気に入った。あとでまた美織と来るとしよう。
そしてお化け屋敷、自主製作映画、占いの館等々の下見を済ませた俺は
「よし、寝るか」
究極の手抜きクラスである一年一組『休憩所』にて、余った時間を潰すことにした。
午後一時五十分。約束の時間の十分前。俺は三年八組『カフェ・ショコラーデ』に来ていた。入り口にいた制服姿の女子に案内されて足を踏み入れると、そこには予想だにしなかった光景が待ち構えていた。
一昨日までは質素だった教室の周りにはブラウンとピンクのレースが垂れ下がり、部屋の隅に置かれたCDプレーヤーからはBGMが雰囲気づくりに貢献している。黒板には大きく「Let`s Breaktime!」と書かれ、それを囲むようにクラス全員の名前がひらがなで踊っている。
それはいいんだ。それはいいんだが……。
「どうして……回転寿司風なんだ?」
教室の中央には回転寿司特有のあのレーンが鎮座していた。これもまた、教室の内装と合わせてピンクとブラウンのチェック柄。チョコレートケーキやチョコレートボンボン、チョコクッキーにチョコバナナなどがお皿に乗ってグルグル回っている。中にはチョコ煎餅やチョコあられなんてものもある。
「あ、カジカ来てくれたんだ」
名前を呼ばれた方向を見ると、コスプレをした美織がお茶を運んでいるところだった。
ねじりハチマキに七分袖の白衣、腰に巻いた紺のハーフエプロン。つまり、寿司職人のコスプレで。
CDプレーヤーからひっきりなしに聞こえる「ソーラン節」は確かに、この異様な雰囲気を作りあげるのに貢献していた。
「美織、ここってホントにスイーツ喫茶、なんだよな……?」
「うん、そうだよ。オススメはチョコクッキー」
空になったお盆を持って美織がこちらに寄ってくる。
「和洋折衷にしたって、もっと別の方法があっただろ……」
「あー、それは私も思ってたんだよねえ。若干和が少ない気がしてさー」
「いや、これ以上和を増やしたらとんでもないことになると思うぞ……」
「駄目だね。まだまだパンチが足りないよ」
「パンチ力のある喫茶ってなんだよ!」
ひと時も落ち着けない喫茶店って問題だろ!
「実は……店名を『チョコレートアンダーグラウンド』に変えるかどうかでもめた時期があってさ。それが無ければもっとカオスなのが出来たんだけどねー」
「もめるポイントそこかよ」
苦笑しつつ、改めて店内を見渡す。これも十二分にカオスだと思うが、美織の理想像はいったいどんな混沌空間なんだろう……。
「でも……意外と繁盛してんだな」
「文化祭だからね。出オチでインパクトを与えたもんが勝つんだよ。じゃ、休憩とらせてもらうから待ってて」
美織はそう言って、クラスのリーダーと思しき生徒のところへ行った。
俺は一番人気らしいチョコレートクッキーを貰い、制服に着替えた美織と共に『カフェ・ショコラーデ』を後にした。
*
「カ、カジカぁ……どうしても行きたい場所って、ここぉ……?」
「ああ」
「どうしても?」
「どうしても」
「私が泣いて頼んでも?」
「泣いて頼んでも」
「入ったら一生口きいてやんない」
「……お化け屋敷、そんなに苦手だったの?」
「…………いや別に。だけど――」
「でもとっくに予約しちゃったから」
「は? え、なにそれ待って!」
「ほら次だぞ」
「やめてええええええ!」
*
「次。イチゴ大福」
「はいはい。……あのう、美織さん」
「何? あ、次リンゴ飴ね」
「そろそろ小銭入れが軽くなってきたような気がするんですが……」
「コインが無ければお札を食べればいいじゃない」
「人間じゃねえよそれ」
「間違った。コインが無ければお札を使えばいいじゃない。あ! ねえ『揚げアイスクリーム』だって! 『揚げアイス』!」
「了解です……。まさか高校の文化祭で五千円使うとは思わなかったよ」
「オレンジジュースも追加でー」
「売り切れだって」
「じゃ午後ティー」
「アイアイサー。……そろそろ機嫌、治った?」
「まだだ。まだ私の不機嫌は終わらんよ!」
「……で、午後ティー何味にすんの?」
*
「映画っていうと、思い出すね」
「……ああ、夏休みのか」
「そうそう」
「でも、あの時見たやつはアマチュア映画じゃなかった」
「役者の滑舌が悪すぎて何言ってるか分からない、ってこともなかったし」
「カメラがブレブレ、ノイズ入りまくり、なんて出来でもなかった」
「何より、二次元と三次元の差があるからね」
「それが一番デカいなー」
*
「あの占い師、絶対俺たちのこと付き合ってるって思ってたよな」
「『より強い愛の力があらゆる苦難をしりぞけるでしょう』とか言ってたもんね」
「言ってから軽く舌打ちしてた」
「え、私気付かなかった」
「してたよ。でも正直、ああいう人間らしい占い師の方が好感が持てるって思わないか?」
「同感。一年生だっけ? 年下だとなおさら信じてあげたくなるよね」
「じゃあ……信じてみよっか」
「『より強い愛の力があらゆる苦難をしりぞけるでしょう』ってやつ?」
「そう」
「『信じてあげたくなる』と『信じる』ってのは別だと思うけど?」
「同じさ。信じたいものは、それが何であれ結果的に信じちゃうんだよ」
「それが嘘でも?」
「そう。でも今回は嘘じゃないから、問題ないだろ」
「じゃあ、何が嘘じゃないって言うの?」
「好きだ」
「え?」
「……いや、絶対聞こえてたでしょ」
「いやいや、聞こえなかったわけじゃなくて。ただ……」
「ただ?」
「ここでかー、って」
「駄目だった? ステンドグラスの中」
「駄目とまでは言えないけどさ……」
「暗くて人もあんま来ないし、聞かれる心配はしなくていいぞ。穴場だよ穴場」
「暗いから、見えない」
「どういうこと?」
「普通こういうのは男の方が言いそうだけど」
「えーっと……?」
「だからさ……」
「?」
「カジカの顔、見れないじゃん。馬鹿」
「あー、それは」
盲点だった。
*
唇の感触、というものを知らない人間はいない。
それが二対のもので、普段から触れ合っているから、みんな意識していないだけなのだ。
それがどんな柔らかさで、どんな温度で、どんな滑らかさか、人々はみな知っている。
――だが、ある経験を踏むとその考えは間違いだということに気づく。
誰かの唇は、自分の唇と決定的に違う。
その違いは自分と誰かとの違いに比例している。
だから彼女の唇はとろけるように柔らかく、融けるように熱く、それはまだ感じたことのない柔らかさで、熱さだった。
とろけて、融けて、唾液を届ける。
それがキスだった。
俺のはじめてのキスだった。
……そういうことにしておこう。




