ある賢者の復讐
「何処で間違ったのか」
ある日、大国の王は魔導師へ問いました。神から授かった叡智と英断の祝福を持ち、かつて国を傾けていた王弟を失脚させ、国の病巣たる腐敗貴族を潰し、大国となるまで国の発展のため土地も技術も改善と開発に熱心だった王は、苦悩に満ちた表情で頭を抱えます。
側に仕える魔導師は、幼少の頃より王に仕えてきた魔導師です。異界より転生したと王に打ち明けており、魔法に関しても他に類を見ない力を持っています。
持ち越した異界の知識で国の発展と王への助言を支えてきました。
その二人が、揃って苦渋に顔を染めています。
「あの日、王の采配に間違いはありませんでした。王弟に連なる貴族と騎士の処断、優秀な者の内偵とその恩赦、どこにも間違いはありませぬ」
「ならば何故こうなっている!」
国を動かすには重要で必要な事です。国は王家と貴族のものではなく、民衆のためにあるものという考えも、二人は共通していました。
それを背負って国の最大利益を考えるという事も同じで、その為の圧倒的な武力、権謀術数、国民の支持、他国が羨む異界の技術と知識、そして神から得た強大な無数の祝福と数を数えるにも馬鹿らしい有利な要素を持った王と魔導師がこれまで国を支えてきました。
それがあったにも関わらず、この国は緩やかに衰退しているのです。どこかに害されている訳ではなく、他の国だけが堅実に大きく発展していく中、その恩恵がこの国だけ無いのです。
「…王も私も、優秀な子供でしか無かったのでしょう。大局を動かし、人心を掌握し、裏をかき、徹底的な力で勝つ事が得意な子供でしか」
「賢者の事か…、そうか、あの時既に」
「人の身では無理な話で…、ああ」
何かの気付いたかのような王の表情がそこにありました。
「そうだ。私であれば、拾う事ができたのだ」
「その、通り…です」
重たい沈黙が横たわります。生まれながらに得た祝福の内、軽い瞑想の後、自分への悪意を持った相手を見つける力。人の心を読む魔法を魔導師とともに開発した後は、まったく使っていませんでした。
もしもあの時、貴族たちの中でその祝福を持って選り分けていたなら?
大抵は同じ結果ではあったでしょうが、いくつかの家は生き残っていたかもしれません。そう、あの騎士と家族も。
ほんのすこしだけ昔、国の端にはかつて、名も付けられていない小さな村とそこを治める領主の館がありました。
領主は位の低い騎士の出ではありましたが、迷宮探索や魔物退治で少なくない財宝と名声を得て、その功績でささやかながら地方のその端に領地を得ました。
隣接する領地には、国の筆頭貴族の広大な領地があったため、その貴族の傍系の更に取り潰しになった家の娘が騎士の奥方となりました。
ほぼ平民と同じ生活をしてきた二人は、押し付けられた婚姻ではありましたがお互いに好き合い、仲睦まじく暮らします。
領地となった村の状況を改善すべく、自らも土まみれになって働きました。
筆頭貴族のほんの少しの、それでいて騎士にとっては大きな援助もあり、魔物の被害も少なくなり、村の状況が少しずつ改善し始めた頃、騎士を訪ねてきた男が居ました。
『お久しぶりです。念願の領地を得られたのですね』
「おお、ようやく来て下さいましたか賢者様」
『私はしがない技術屋です、なんとか役に立てるよう努力しますよ』
「所で、あの服は着ておられないので?」
『旅には不便でしてね、今はカバンの中です』
冒険の旅先で出会った、上下一体の不思議な服を着た老人とは、隣国の工房で出会いました。刃毀れのおきた剣を研ぎに出す脇で、道具の為の道具を直し、作る仕事をしていました。
「言葉ァ通じねぇんだが、ほら、こいつを見ろよ。爺さんから継いだ金槌だけどよ、こないだ壊れたこいつをあっちゅうまにきれいに治しやがった」
土妖精の血を引く鍛冶師は嬉しそうに笑っていました。酒飲み以外で、同族以外にこんな笑い方をするのは珍しい事です。
「おまけによ、鑢もふいごも器用に治して、しかも前より使い勝手が良いときたもんだ、喋れなくても教えるのも上手くてよ、とんだ拾いもんだわ」
「<通訳>の護符を持っているんだが、持たせてもいいかい?」
「お、そりゃいいな。あいつが何考えてるか聞いてみてぇ」
それが、鍛冶師の工房がその国でも指折りの名声を得るきっかけとなりました。
護符を得て、意志の通じるようになった老人は様々な知識を持っていて、噂に聞く異界からの「転移者」だと騎士は気づきました。
異界での知識を持ち、神からの祝福を得て生まれる「転生者」はこれまでの歴史上、何人も確認されていますが、祝福無くその身一つで紛れ込む「転移者」は珍しい存在です。
それはさておき「転生者」や「転移者」はその都度、新たな技術と知識を人族にもたらしました。
その御蔭で最弱だった人族が世界にあるいくつかの大陸の一つに落ち着けるようにもなり、また、数百年に一度現れる「魔王」との戦いに、人族が関われるようにもなっていました。
ここ千年の間では、全ての戦いの主導に人族が関わり、総じて「転生者」が「勇者」として立ち、勝利を収めてきました。
それだけ異界の知識は強力であり、それが原因で人族同士での戦争も起きたことがあります。
『成程。こんな年寄りの知識でも産業革命になると。小出しにするのは正解でしたか』
「産業革命が何かはわかりませんが、気をつけなければいけないのは事実です」
老人は既に自らの持つ知識と技術は急激な変化の元だと気付いてもおり、それでいて知識と技術の譲渡はどこにも別け隔てなく、それでいて緩やかに伝えるべきと老人は言いました。
そうする事で差異による争い合いを抑止し、人々の生活を豊かにするのが自分の数少ない命の使い道だと。
異界の知識を持つ老人は、国に連れ帰れば確かに高い功績となるかもしれません。ですが、騎士は今の自国の状況から貴族達の独占を危惧して、それを諦めました。
「では、大陸の旅で知識を伝え終わりましたら、我が国へ来て下さい。その時までには、なんとか家程度か領地を得て見せます」
給金は少ないですが雇わせて頂けますか、と騎士は言いました。老人は破顔し、是非ともと答えます。
『それは有難い事です。期待させて頂きますよ』
強い握手を交わし、騎士は今まで以上に強い意志を持って旅を続けました。
騎士の旅先では、一人の賢者が伝えた技術と知識で、農地の整備と開拓が進み、また異界から齎された様々な道具が出回るようになったなど、いくつもの事を風のうわさに聞き及びます。
賢者は季節ごとに住む国を変え、何人かの弟子を取り、技術と知識を伝えては旅立つ事を繰り返しました。
人族だけではなく、森妖精や土妖精、はたまた、山奥に棲む龍族にまでそれは及んだようです。
全体に、緩やかに。それは、ほんの少し人々を豊かにし、餓死する者が少なくなり、開放される奴隷が増え、商人は金貨袋が少し重くなり、平民は1つ食べ物が増え、貴族と王族は珍しくも美味い調味料が増える、そのような変化です。
どれだけの知識を持っていたのでしょう。余りにも分野が多岐に渡り、尚且つ、それを弟子に伝える教え方も持っていたのですから、騎士が驚くのも当然の事ではないでしょうか。
いつしか賢者と呼ばれた老人は、<変装>の護符を持ち、一つとして同じ顔では出歩かなくなったそうです。
『流石に調子に乗りすぎました。後はまあ、のんびり余生を過ごしたいです』
「何も無い土地ですが、妻も村人達も歓迎いたします」
騎士は賢者の苦労話を聞き終えると、この優しい顔をした老人が穏やかに暮らせる土地を目指そうと、いっそう奮起しました。
一年後、領主となった騎士と奥方の間に、女の子が生まれます。これまで産後の肥立ちの悪さで死んでしまう女や赤子が多かった中、賢者の知識はそこでも発揮され、村の産婆による取り上げで死ぬ女や赤子は殊更少なくなっていました。
出血が多く命が危ぶまれた奥方も、生まれた赤子も、賢者の知識で命を繋ぎました。
『…姉の出産を、家族総出で大騒ぎになって手伝ったんですよ。多少は子育ても経験していましたし』
騎士の感謝の言葉に首を振り、遠い目で優しげに賢者は微笑みました。
5年を経て、賢者はこの国の言葉を既に学びました。ただ、発音が不満だったのか、騎士から譲られた護符を使いつづけています。
「けんじゃさま、私はきにしませんよ?」
大きくなり、奥方譲りの美貌を受け継いだ少女は、勉強が一段落した部屋でお茶を飲みつつ賢者との歓談を楽しんでいました。
その最中、少女の前では<翻訳>の護符を外さない賢者を不思議に思い、質問してみたのです。
『お嬢様、正しい発音は他の方と話す際に、隙と見られない為に必要なのですよ』
「私は、けんじゃさまにきらわれているのですか?」
悲しげに言う少女に対し、賢者は優しげに答えます。
『私の喋り方が伝染ってしまうと、直す時が大変です。もう一度、勉強をやり直さないといけません』
少女は退屈な勉強を繰り返す苦痛に、ぷるぷると顔を振りました。
賢者が村に落ち着いてより10年。村は最初と較べて倍以上の大きさになり、畑も豊かで、村も余裕のある暮らしができるようになっていました。
しかし、国は不穏な影が覆っていました。国王が病に伏せると、王弟が実権を握り、税が徐々に上がってきたのです。
領主は身を寄せている筆頭貴族の騎士団の一人として不在となる事が多かったのですが、任務から帰る度に苦悶の表情で床に入るのを繰り返します。
一年が過ぎたある日、賢者に打ち明けます。
「私の言葉では、王弟陛下どころか、筆頭貴族様をお諌めする事もできない」
『今は耐え、ただご家族と村の事だけをお考え下さい。聞けば、第一王子が留学先から戻られ、国土の視察をされる予定と聞きます』
既に調べてあったのでしょう。視察先に、騎士の領地が入っています。賢者は暗に、王子へ陳情するように言っているのです。
「…私は、筆頭貴族様が後ろ盾に居る身。一度仕えた以上は、それを違える事はできない」
賢者は悩みました。領主が寄せる王弟の派閥は、いわば腐敗貴族の集まりです。もしも留学先から戻った王子とその参謀たる魔導師が優秀で強力となれば、情勢はひっくり返される可能性が高いのです。
それに、王子は王族たる辣腕さと聡明さ、そして伝え聞く所によれば「勇者」に匹敵する祝福をその身に受けたと言います。そして幼少より友人として右腕として使える魔導師は、国の成立以来、類を見ない優秀な大魔導師だと言う話です。
天の祝福を受けた、呪いとも言い表される英雄の運命を王子達は受けています。長らく退廃的に平和と惰眠を貪った王弟の派閥はそれを侮っているとしか思えません。
王弟派は風前の灯火と、賢者は思い、騎士に伝えました。
「それは解っている。が、恩義に報いるしか、取る道は無いのだ」
愚かな選択といえるでしょう。国の為と思えば、王子の側に付くのが最善手なのです。応じに弓引けば家の取り潰しどころか斬首もありえます。
『…せめて、奥方様とお嬢様だけでも』
「間に合わないだろう。明日の朝、全ての決着が付く」
『お嬢様はまだ、成人すらしていないのですよ!?』
「もういいのです、賢者様。私達は、覚悟をいたしました」
賢者が驚いて振り向くと、奥方と少女が立っていました。
「元はと言えば、お諌めできなかった私達の不始末です」
「賢者さま、泣かないで。私は父さまと母さまと、最後までいっしょです、さびしくなんてありません」
賢者と村人達とお別れする事だけが悲しいと、少女は言いました。何もわからず刑に処せられる訳ではなく、少女は理解して、父の選択に納得して居るのです。
「だから、ごめんなさい…。<睡魔>よ」
少女は睡眠を招く魔法を使いました。健康であれば少しだけ眠気が来る程度のものでしたが、ここ半月の出来事に疲労と睡眠不足に苛まれた賢者には、抵抗することはできませんでした。
次の日、傘下の騎士団と雇ったならず者で王弟一派は王子達の一団を奇襲しました。その中には、賢者と懇意であった騎士の姿もありました。
10名に届かぬ一団を押し潰すには十分な筈でしたが、王子の一撃は10を超える騎士をなぎ倒し、魔導師の魔法は地形すら変えて相手を屠りました。
そして二日後、目を覚ました賢者が処刑台に辿り着いた時、ほとんど全ては終わっていたのです。
腐敗貴族に仕える騎士とその家族の処刑が進められています。いくつか備えられた断頭台では、嘆き、泣き叫ぶ声がいくつもあります。
『どうしてだ、なぜだ! 旦那様も奥様も、お嬢様も、人々の為と働いてきたでしょうに!?』
兵士に取り押さえられた賢者は、眠るように目を閉じた騎士と奥方の首の前でこの世の終わりのように泣き叫びます。
「…使えた先を見極め、何か力を示していれば恩赦もあった。だが、それを怠った」
領地を得てからこれといった功績は無く、あからさまだった貴族の悪行を見て見ぬふり。それが罪だと判決が述べられました。
『旦那様は気付いておられました! だが守りの弱い村を守るためでもあった!』
保身もあったのでしょう。だけどそれは、未開発の土地近くに跋扈する魔物から村人たちを守るためでもありました。強い力を持つ貴族の援助が無ければ、立ち行かないほどに。
『もうおやめください、王さまは賢者さまと村のひとたちを罰しないとおっしゃいました。もう十分なのです』
『お嬢様、ですが!』
『村のひとたちを、幸せにして下さいね、賢者さま』
震えながらも、少女は気丈に微笑みます。そして、届かぬ指先で指切りの形を取りました。賢者は滂沱の涙を流しながら、宙に指切りをしました。
『はい、お約束します。必ずや、村人達を幸せにします』
『あんしんしました。これで、お父様とお母様のもとへいけます』
そう言って、少女は震える足を進め、処刑台の露と消えました。先に行った両親の下へ行けたのかは誰もわかりません。
国内の混乱が一段落し、関係者の最後の処断が終わった後、賢者は王様になった王子と魔導師の前に招かれました。儀礼的な挨拶を寸分違わず行った後、賢者は口を開きました。
『私はあなたたちを恨みます』
賢者は、王と魔導師の前で宣言しました。周囲の大臣達が顔を真っ青にしました。大臣達の中には、知識などで賢者の教えを受けた者も少なからず居たからです。
今まで見たことも無い、賢者の底冷えするような表情もそれに一躍買っています。
「ほう、堂々と叛意を示すか、相応の処断は覚悟しておろうな?」
「貴方はいわば私と同郷だ、そのような事は言わず、国の発展に協力を」
何度か賢者と対面し、賢者が同郷の更には人生においても先輩と理解するに至っていた魔導師は、半ば懇願するように言います。
『住む人々にもあなたたちにも害は及ぼさないと約束します。ですが私の正直な気持ちで、これは墓に入るまで変わりません』
不敬罪で処断されてもおかしくない物言いでしたが、老人の堂々とした姿勢に半ば気圧されてしまいます。異界からの「転移者」であるためか<読心>の魔法は効果がありません。久方ぶりに害意を見分ける祝福の力も使いましたが、賢者にはそのような意志は無いとわかりました。
『処断をされるなら、今すぐされるが良いでしょう。私が持つ技術が惜しくないというなら、どうぞ。作りかけの道具については、精々頑張って完成させて下さい』
魔導師以上に異界の知識と技術を豊富に持った賢者の力は、これからの国の発展に必要でした。王は二の句を継げず、代わりに魔導師が問いかけます。
「協力の見返りや何か条件はありますか?」
『私の弟子達の内、まだ未熟な者達を私が歩んだ道と国へ。私と技術を伝え収めた者達は、国の工房へ』
「技術と知識を流出させろと?」
『いいえ、未熟な者達の持つ技術と知識は、以前に私が旅先の国でも伝えた物です。既に他国の弟子達も持っています』
ご存知でしょう? と、魔導師に問います。今この国が抜きん出ているのは、魔導師と賢者、それぞれが持つ異界の知識とこの世界の技術を擦り合わせ、組み合わせたものが数多くあったからです。
「ならばなぜ?」
『私には魔法が使えません。今持つ技術は、旅先で学んだこの世界の知識と混ぜあわせたものです。未熟な者達には、それを身をもって学ばせなければ、新たな物は作れないでしょう。そして、他国には私の弟子が数多く居ます』
「なるほどな。ではそのようにしよう。だが賢者よ、お前の先の物言い、流石に処断をせぬわけにはいかぬ、工房での軟禁は覚悟せよ」
『寛大な処置に感謝いたします』
賢者の言葉が伝えられると、半年の間に元の村人達は殆どが家族と共にこの国を出て行きました。奴隷階級にあったものは、領主の遺言に従い平民となり、また彼らも出て行きました。彼らは皆、他国に居る賢者の弟子達のもとへ身を寄せる腹づもりです。
発展させた土地は惜しくもありましたが、残っても悲しみが増すばかりと村長が先だって土地を売り払うと、他の村人もそれに倣い、少なくない金銭へ変え、旅と向かう先の生活費に変える事にしました。
村と国に残ったのは、賢者の直弟子となる老人たち。元々は村での生活道具を作っていた技術を基に、それぞれに合った賢者の教えを受けることになりました。
そして魔導師と賢者の指示の下、到底真似できぬ精度の部品を作り出します。
部品は魔法の道具と相性が良く、また、国の騎士たちの装具の留め金にも用いられ、他国より何割もの軽さや使いやすさで騎士たちの精強さを支えました。
何度かの小競り合いはありましたが、その都度、魔導師の強力な魔法と、優秀な装備を持った騎士たちが戦い、大国の名を轟かせます。
強かった隣国を併合した所で落ち着きましたが、それは攻める価値が無く守りづらいという理由でしかありません。
そして国は広さも力も大国と呼ばれるまでに発展していきました。
魔王の復活が隣の大陸で起きた時は、精強な騎士団を送り出し、召喚された勇者に魔導師が同行する事で更に名声も高め、魔王を討ち果たした際は大国の名は周囲どころか他の大陸にも及びました。
賢者の最後の弟子達が老人である理由に、誰も気づく事はありませんでした。
「賢者様は、悔しく無いのですか」
『悔しいですよ、でもね、簡単な事では済ませたくないし、お嬢様から、皆の事を頼まれたのです』
ある日、弟子の老人の一人に問われた賢者は、表情の消えた顔でそう答えました。
『貴方達と他の国へ出た皆の事を考えたら、復讐なんてものは”後回し”ですよ』
「…申し訳ない」
『まあ、先に私が逝くでしょうから、あの世で種明かしします』
そう言って、意地悪そうな笑みを浮かべる賢者と弟子達の姿がありました。
「私が先に逝くかもしれませんし、先になったら、お館様達と、お茶をして待っていましょう」
『ではできるだけ、美味い茶葉と茶菓子の作り方も覚えてから逝くとしますか』
既に先が長くない老人達のやりとりに、工房に出入りする弟子のそのまた弟子達は気味悪そうに顔を見合わせました。
王弟一派が一掃されてより10年が過ぎたある日、賢者と呼ばれた老人は静かに息を引き取りました。年齢にすれば100歳。人族とすれば、この世界では十分な長生きです。
国に残った中で最初に逝ったのは賢者でした。見送った弟子達は皆、悲しみに涙しましたが、どこか晴れやかな表情で葬儀を終えました。
直弟子の老人達は他国に住む家族へ、賢者の死を伝えるべく賢者から託されていた特別な紙で手紙を書きました。紙自体には特別な所も魔法の痕跡も無く、また内容も殆ど同じだったため、すんなりと国外へ出されました。
手紙の端に意図的に付けられた、墨汚れに気づく者は誰もいませんでした。
ある日、若い騎士たちの訓練を見ていた魔導師は、違和感を覚えました。
「どうしたのだ、以前と較べて集中が甘いぞ?」
訓練を担当している壮年の騎士の側で言うと、騎士は頭をかきました。
「申し訳ございません。以前から使っていた収束具が壊れ、数を揃えようと新しい物を用意したのですが、出来が悪く…」
収束具とは、魔法を扱う際に魔力の集まりを助ける道具です。以前は杖が用いられていましたが、今は魔導師が考案した「銃」の形になっています。
魔力を集積し、狙った場所に撃ちこむには、この形は非常に優れていました。内部には賢者とその弟子達が完成させた部品が緻密に組み合わされていました。それでいて荒い扱いにも耐える耐久性と余裕がありました。…今までは。
「これは賢者の弟子の、その弟子の工房か。流石にまだ未熟なのだな。工房にはもっと努力をと言い渡しておく。すまないがそれに慣れてくれるか」
「わかりました」
この違和感を気のせいと忘れたことが、魔導師にとっての大きな失敗となりました。
周囲の小国と言えば、以前からの賢者の弟子と、村からの居住者達が出会い、賢者の教えを基に工夫して失敗してを繰り返していました。
後に届いた賢者の訃報に皆、涙しましたが届いた手紙を託されていた教科書に合わせ、墨の跡から言葉を読み取ります。
「賢者様もお人が悪い。だけどこれで、全ての最後の一つが皆、揃った」
「なんという事だ。賢者様は我らの悩みもお見通しだったのか」
これまで繰り返した失敗が、賢者が残した言葉で全てパズルのように組み合わさり、失敗だと嘆いていたものが実は完成品と気付く弟子達と元村人達がそこに居ました。
『国を出たらもっと算術を覚え、この式の意味を知りなさい』
賢者から皆に託されていたのは辞書というには薄い、言葉を覚えるための教科書でした。賢者が領主の奥方と共に、書き留め、整理し、村人達にも文字が読めるようにと送った物です。
賢者は、教科書と手紙と、数式の解き方で膨大な答えを残していました。それは、外に出た村人達が探していた、針の針先に弓に付けた針で穴をあけるような、答えです。
並べられた言葉だけではまったく意味を成さない、技術の為に何度も失敗してきた者達だけがわかる、ほんの一押しです。
小国に散っていた元村人達と弟子達は、自身の得た答えを数式で変えてまた手紙に託し、それぞれに共有しました。
元村人達を監視していた大国の間者は、行き交う手紙を手に入れて上に報告しましたが、内容がただの挨拶やらだれそれに子供が生まれたなど、重要には程遠い内容だったため、賢者が亡くなった頃には報告されることも無くなっていました。
それが、最後の機会だったにも関わらず。
ある日を境に、小国達は怒涛というには生ぬるい、技術発展を開始します。大国を超す装具を生み出し、それだけで満足せず、年々発展を繰り返していきました。
完成した道具を作る技術は、それを成す為の周辺技術も発展させ、そこから派生した技術はさらに別分野へ効果を生み出していきました。
小国達は豊かになり、技術は賢者の遺言通りに小国の間でだけ交換、交流され、さらに豊かさを生み出します。
奪い合いも起きましたが、それが起きている間に他の小国が発展を続ける事に気づき、そんな事をしている暇があったらと剣を収める事にしました。
小国達が豊かに発展していく中、隆盛を誇った大国は停滞が続きます。
自らを活かすには十分。されど、それ以上は望めない。
周囲の国は日々の糧に苦労する事無く、聞けば平民すら娯楽が手に入り初めていると言います。
不満と憤りは、王家と魔導師へ向けるには理不尽なだけに、緩やかに、されど毒のように、病のように広がり、大国を蝕んで行きました。
接触は何度も試みられましたが、以前までの態度が尾を引き、けんもほろろといった具合に断られ続けます。
なれば戦争をと準備を進めても、小国同士は結束を深めており同盟が結ばれています。一国が攻められれば四方八方から大国をつつく腹積もり。
結果的に小国のいくつかは滅びるでしょうが、勝ったとしても大国が得るもの以上に被害が大きい事がわかりきっていました。
「これが、賢者の復讐か」
執務を行う部屋で、大国の王は深い深い溜息を吐きました。手にした書類は、魔法の道具の生産についてのものです。
「…どうにか、ならないのか」
「他国の平民の間に出回っている部品や道具を手に入れ、同じものを作る為の過程や工具を調査しています」
魔導師は王の机の上にある、手に入れたいくつかの道具の一つを手に取ります。魔導師にとっては懐かしく、それでいてこの世界に即した形で作り上げられたものでした。
金物の蓋がついた細長い頑丈そうな小瓶です。中には紐が液体に浸されています。蓋を開けてほんの少しだけ魔力を込めると、露出した紐から液体が蒸発して火が継続して付くという道具です。
ランタンなども同じような仕組みですが、この道具は殊更小さくできています。所々の部品をよく見れば非常に精度が高く、滑らかに蓋が開け閉めできるように工夫されていました。
「かつての技に匹敵する職人は何名かおりますが…」
「他国は既に、遥か上を行っている、か」
高名な職人に頼めば真似自体は容易ですが、問題なのは、この道具が他国では当たり前のように安価に大量に作れるという事です。
大国に残っていた賢者の弟子たちは、師から教わった通りに部品は作れても、作るための技術を誰かに教えることはできませんでした。
完成したものが余りにも高度すぎて、途中の技術を覚えるための道筋を示す事ができないのです。異界からの発想は賢者も魔導師も持ちあわせていましたが、元は技術者であったという賢者の経験は、抜きん出ていました。
そして弟子たちは皆、力仕事のできぬ元農民の老人たち。寿命で年を超す度に一人減り二人減りと、今ではもう残っていはいませんでした。
精度の高い部品を揃えることができなくなり、年を経る毎に国の騎士たちの装具は新しくも劣化した物に置き換わっていきました。
気付いた時にはもう遅く、古い装具すら作れる者は残っていません。糧を失った古い職人達は、総じて周辺の小国に身を寄せていたのです。
ぽっかり開いた、技術の穴は深く、それを埋めようにも、大国に戻ろうと思う、技術を教えようと思う者はもう居ませんでした。
小国達のいくつかが、同盟から連合へとかかわり合いを変えた頃には飢える者が居なくなり、発展した装具のお陰で魔物の脅威も騎士団達が容易に退けます。
庶民すら娯楽に触れる機会が増え、娯楽の意味や内容を知りたいが為に、言葉と文字への理解が広がりました。
豊かになった小国の人々は、賢者の弟子たちを讃えましたが、弟子たちは総じて悲しげに首を振ります。
彼らの脳裏に思い浮かぶのは、祖国に残った老人達と厳しくも優しい賢者の笑顔、そして皆の為にと常に身を粉にして働いていた領主様とその家族の姿。
それはもう何処にもありません。元村人たちは異口同音にこう言いました。
「私達は復讐したかっただけです」
そうして、賢者の遺志は果たされていたのでした。