傘寿
祝われる日は、煮られる日
この村では、八十歳を迎える者は特別な祝福を受ける。
池田ハツは今朝、目を覚ますと、枕元に紫の日傘が立てかけてあった。艶やかな薄紫の布は朝の光を吸い込み、まるで淡い藤の花びらのように見えた。
傍らには黄色いちゃんちゃんこが畳まれ、袖口に金糸で鶴が刺繍されている。
村の掟に従い、彼女はそれを羽織った。生地は柔らかく、肌に優しくまとわりつく。
「ハツさん、おめでとうございます」
玄関を開けると、村人たちがすでに集まっていた。笑顔が並ぶ。子供たちは手を振り、若い母親たちは花束を差し出す。誰もが祝福の言葉を口にする。
ハツは微笑み返しながら、胸の奥に小さな棘のような違和感を覚えていた。
それは長年、村に生きてきた者だけが知る、ほんのわずかなざわめきだった。広場では宴が始まっていた。
朝から酒が振る舞われ、膳には村の特産である山菜や川魚が山盛りになっている。
ハツは上座に座らされ、次々と杯を差し出された。強い焼酎だった。
喉を焼くようなその酒を、村の若い男たちが「どうか、今日は遠慮なく」と笑いながら注いでくる。ハツは素直に飲んだ。
八十年の人生で学んだのは、抵抗しても無駄だということだった。
周囲では皆が涙を流していた。幼なじみのトメさんがハツの手を握り、声を震わせる。
「長い間、ありがとうね…本当に、ありがとう」
その声は優しかったが、どこか別れを告げる響きがあった。中には嗚咽を漏らし、地面に突っ伏して泣き叫ぶ者もいる。
若い者たちはそんな者を抱き起こし、酒を飲ませて黙らせる。
やがて広場は酔いの熱気と、奇妙な高揚に包まれた。誰もが自らを見失い、笑い、泣き、歌う。
ハツも次第に意識がぼやけていった。体が熱い。肉が、骨が、じんわりと疼くような気がした。
(この酒は…)
ハツはふと思った。昔、母が八十歳を迎えた日のことを。
母もこうして酒を浴びるように飲まされ、柔らかい笑顔で「幸せだったよ」と言って、皆に抱えられてどこかへ連れていかれた。
あのとき、ハツはまだ若かった。祝いの席でただ泣きながら、母の背中を見送った。
今、彼女は母と同じ場所にいる。宴が最高潮に達した頃、村長がゆっくりと立ち上がった。穏やかな声で告げる。
「いよいよ、傘寿の儀でございます」
ハツは支えられるようにして立ち上がった。足元がふらつく。
紫の日傘を手に、黄色いちゃんちゃんこをまとったまま、村人たちに囲まれて広場の奥へと進む。そこには古い石造りの建物があった。
村では「温め処」と呼ばれる場所だ。湯気が立ち上り、鉄の匂いがする。他の八十歳を迎えた者たち、十五人も同じように連れてこられていた。
皆、酔い潰れ、目が虚ろだ。ハツだけが、わずかに意識を保っていた。長年の勘が、彼女に最後の醒めを与えていたのかもしれない。
村人たちは皆、穏やかな顔で彼らを見守っている。子供たちまでが、好奇心と畏怖の入り混じった目で。ハツはようやく理解した。
この村は、八十歳を寿命と定めている。口減らしのためだ。
食糧が限られる山間の土地で、老いた者が生き長らえることは村全体の負担になる。だが、ただ殺すのは忍びない。だから祝う。
祝福の名の下に、肉を柔らかくする。筋張った老人の体を、強い酒でほぐし、恐怖で血を巡らせ、涙と汗で味を整える。
そして――煮る。大きな釜が、すでに火にかけられていた。湯が激しく沸騰している。
村人たちは丁寧に、しかし確実に、ハツたちをその中へ導いていく。
ハツは抵抗しなかった。八十年の人生は、すべてこの瞬間のための準備だったのだと、今、悟った。
熱い。痛みは一瞬で、酒と諦めがそれを和らげた。意識が遠のく中、ハツは最後に思った。
(私の肉は…少しでも、村の役に立つだろうか)
後日、干し肉が村中に配られた。
薄くスライスされ、丁寧に塩と山椒で味付けされたそれは、保存食として冬を越す大切な糧となる。
村人たちはそれを噛みしめながら、今年も無事に傘寿の儀を終えたことを喜んだ。
ハツの肉は、意外に柔らかかったという。
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