『未来テレビ』
一週間無料の未来テレビ。けれど、その臨場感は少し本物すぎました。
『未来テレビ』
「さぁ、今日はワールドカップの決勝戦よ」
のり子は、テレビの前にお菓子とジュースを用意して陣取っている。
テーブルの上にはポテトチップスに炭酸飲料。完璧な布陣だ。試合開始を今か今かと待ち構え、リモコンを握る手にもじわりと汗がにじむ。
「今日勝てば、世界一よ。がんばれジャパン!」
のり子がテレビの前でそわそわと足を揺らしていると、突然、間の抜けた電子音が響いた。ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴ったのだ。
「もう、誰かしら? こんな大事なときに……」
時計を見ると、キックオフまであとわずか。舌打ちしたい気持ちを抑え、のり子は玄関へと向かった。
覗き窓から外を窺うと、そこには仕立ての良いスーツを着た、やけに爽やかな若い男性が立っていた。ドア越しに声をかける。
「はい、どちら様ですか? 今、手が離せないんですけど」
「突然の訪問で失礼いたします! 私、新型家電プロモーションの『水谷』と申します!」
男はハキハキとした声で、胸元から名刺を取り出して覗き窓にかざした。
「本日は、まるでスタジアムの特等席にいるかのような臨場感を体験していただける、最新型テレビのご案内に伺いました!」
「テレビ? うちのはまだ壊れてないから結構です!」
「いえいえ、買い替えのお願いではございません! 実は、本日決勝戦を迎えるワールドカップに合わせて、地域の皆様にその圧倒的な映像美を実際に体験していただきたく、特別なキャンペーンを行っておりまして……」
「悪いけど、もうすぐ試合が始まるの。忙しいから帰って!」
のり子がピシャリと言い放っても、水谷という男は怯まなかった。それどころか、覗き窓の向こうで満面の笑みを浮かべる。
「まさにその試合です、奥様! 日本中が熱狂するこの歴史的な一戦を、そちらの小さなテレビでご覧になるのは、あまりにももったいない! 私どもの新型テレビでしたら、選手の流す汗、ピッチの芝生の匂いまで届くような大迫力がお約束できます。今ならなんと、一週間の『無料お試し』期間を設けております。気に入らなければ、一週間後にそのまま引き取らせていただきます。費用は一切かかりません!」
「奥様ではないし・・・え?無料お試し……?」
のり子は足を止め、自室のテレビを振り返った。確かに、普段ニュースを見る分には十分だが、ワールドカップの決勝を大画面で観られたら、どれほど興奮することだろう。
チクタクと、リビングの時計の音が秒針を進める。早くしないと、選手入場が始まってしまう。
「本当に、一週間でタダで持って帰ってくれるのね?」
「もちろんでございます! 設置も私どもで迅速に行いますので、キックオフには十分に間に合わせます!」
水谷の自信に満ちた言葉に、のり子はついに誘惑に負けてしまった。
「……じゃあ、一週間だけよ」
そう言って、玄関の鍵を開けた。
「ありがとうございます! では、さっそく運び込ませていただきますね!」
水谷が無線で外の仲間に合図を送ると、すぐにトラックから巨大な梱包箱が運び込まれてきた。のり子は、運ばれてくる「それ」を見て、思わず目を丸くした。
「ちょっと、それ……大きすぎない?」
「ご安心ください、これこそが我が社の誇る次世代スタンダードサイズです!」
男たちがドタバタとリビングに運び込み、設置を完了させたテレビは、のり子の想像を絶する大きさだった。
デカい。
まるで、玄関のドアを丸ごと一枚外して、横向きに寝かせたかのような圧倒的なサイズ感だ。いつも使っていたリビングのローボードからは完全に左右がはみ出し、部屋の壁一面を真っ黒なガラスの板が支配してしまっている。
「どうですか、この存在感!」
水谷は満足げに胸を張ったが、のり子はテレビの放つ妙な威圧感に、ただただ圧倒されていた。
「それでは私はこれで。どうぞ、素晴らしい体験をしてください。きっと、いや……絶対に気に入っていただけると思いますよ」
水谷は何度もそう繰り返しながら、深々と頭を下げて玄関から出ていった。パタン、と静かにドアが閉まる。
嵐が去った後のような静けさの中、のり子はリビングにぽつんと取り残された。
目の前には、まるで映画館のスクリーンをそのまま引きちぎってきたような、不気味なほど真っ黒で巨大な板。画面には、窓から差し込む夕光に照らされたのり子自身のマヌケな立ち姿が、等身大に近い大きさでぼんやりと映り込んでいる。
「な、なんなのよこれ……本当に一週間で持って帰ってくれるんでしょうね……」
あまりの威圧感に気圧され、しばらく茫然と立ち尽くしていたのり子だったが、ハッと我に返った。
壁の時計の針は、すでにキックオフの時刻を指そうとしている。
「大変、のんびりしている場合じゃないわ! すぐにチャンネルを合わせなきゃ!」
のり子はテーブルの上に放り出されていた、見慣れない巨大なリモコン――テレビと一緒に置いていかれたものだ――を慌ててひったくった。ボタンはたった一つ。中央に赤く輝く電源ボタンがあるだけだった。
じわりと手に汗がにじむのを感じながら、のり子は巨大なテレビに向けて、そのボタンを強く押し込んだ。
カチリ、と硬いボタンを押し込む音がリビングに響いた。
一瞬の静寂の後、巨大な黒い画面が、まるで意思を持ったかのように、奥底からじわリと青白い光を放ち始めた。
「……あ」
次の瞬間、のり子は思わず耳を塞ぎそうになった。
地鳴りのような大歓声が、リビングの壁、床、そしてのり子の肌を直接震わせたのだ。
それは、単にスピーカーの音量が大きいというレベルではなかった。まるで、自分が今まさに八万人を収容する超巨大スタジアムの真ん中に放り出されたかのような、立体的な音の濁流。前後左右、あらゆる方向からサポーターたちの怒号と口笛、太鼓の音が押し寄せてくる。
画面いっぱいに映し出されたのは、ワールドカップのきらびやかなオープニング映像だった。
「な、何これ……綺麗すぎる……」
のり子は言葉を失った。
これまでのテレビとは、色彩の「濃さ」がまるで違った。
どこまでも深く、吸い込まれそうな夜空の青。まばゆいカクテル光線に照らされ、文字通りエメラルド色に輝く芝生のピッチ。フィールドを疾走する選手たちのユニフォームのシワ、飛び散る汗の粒、筋肉の躍動が、驚くほど滑らかに、かつ鋭い輪郭で描き出されている。
さらに奇妙なことに、のり子は顔に「熱」を感じていた。
それは興奮による火照りだけではない。画面の向こう、赤々と燃え上がるサポーターのフレア(発炎筒)の光や、スタジアムを包む南国の夜の熱気が、まるで巨大な画面を通じて、熱風となってリビングに吹き込んできているかのような錯覚だった。
「本当に……芝生の匂いまでしそう……」
息を呑んで見つめるのり子の前で、オープニング映像はいよいよクライマックスを迎えた。
CGと実写が融合したダイナミックなカメラワーク。フィールドの主役であるスター選手が、こちらに向かって猛然とドリブルで突き進んでくる。
「え、ちょっと――」
カメラが極限まで選手に近づいた瞬間、選手は不敵な笑みを浮かべ、強烈なボレーシュートを放った。
真っ白なボールが、ものすごいスピードで画面の奥から手前に向かって弾き出される。それはまるで、画面というガラスの壁を突き破り、のり子の顔面に直接飛んでくるかのような、凄まじい立体感だった。
「きゃっ!」
のり子は悲鳴を上げ、ソファの上に思わず体をのけぞらせた。
どさりと背もたれに倒れ込み、きゅっと目を閉じる。
一秒、二秒。
もちろん、ボールが部屋に飛び出してきてのり子の顔に当たるはずもない。
おそるおそる目を開けると、画面の中では何事もなかったかのように、スタジアムに選手たちが整列し、国歌吹奏の準備が始まっていた。
のり子は、激しく波打つ胸を手で押さえながら、ぽかんと口を開けた。
そして、じわじわと込み上げてくる興奮に、体中の産毛が逆立つのを感じた。
「すごい……。何これ、信じられない……!」
もはや、早く帰ってほしいと願っていた水谷の不気味さなど、のり子の頭からは綺麗さっぱり消え去っていた。
「こんなテレビ、見たことないわ……!」
興奮冷めやらぬまま、のり子はポテトチップスを一枚口に放り込み、炭酸飲料をごくりと飲み干した。
ピピィーッ!
画面の中で、主審がホイッスルをくわえて右手を高く上げた。
ピーッ、と高らかに響くホイッスルの音とともに、運命の決勝戦が幕を開けた。
対戦相手は、鉄壁の守備と鋭いカウンターを誇る欧州の強豪「グスタフ公国」。
ピッチを駆ける両国のイレブン、そして超満員のスタジアムが一体となって生み出す巨大なエネルギーが、画面を通じてのり子のリビングへ容赦なく流れ込んでくる。
「が、がんばれ……日本……!」
のり子はソファの端に腰掛け、祈るように画面を見つめた。
試合は、立ち上がりから一瞬も目の離せない緊迫した展開となった。
グスタフ公国の屈強なディフェンダー陣が、日本の素早いパスワークをことごとく跳ね返す。逆にグスタフがカウンターを仕掛ければ、日本のミッドフィルダーが身を挺してスライディングタックルで阻む。
この巨大なテレビは、その激しい激突の衝撃さえもリビングに運んできた。
選手同士が激しく体をぶつけ合う「ドスッ」という重い鈍音が、まるで隣の部屋で家具が倒れたかのようなリアルな地響きとなってのり子の足元に伝わる。ピッチを駆けるスパイクが芝生を削り取る音、激しい呼吸の音までが、のり子のすぐ耳元で聞こえるかのようだった。
「うそ、危ない……!」
前半35分、グスタフ公国のエースストライカーが、日本のペナルティエリア手前で鋭いシュートを放った。
ボールはキーパーの指先をかすめ、わずかにゴールポストの右に外れてネットを揺らす。
「ひゃああっ!」
スタジアムを揺らすグスタフサポーターの、大地を引き裂くようなため息と大歓声。
あまりの音圧にリビングのガラス窓がカタカタと震え、のり子は思わず心臓が止まるかと思った。
日本も負けてはいない。
前半ロスタイム、日本の中盤からの鋭い縦パスが前線に通る。フォワードがゴール前でフリーになり、シュート体勢に入る。
「いっけえええええええ!」
のり子は思わず立ち上がり、拳を握りしめて叫んだ。
しかし、相手ゴールキーパーの決死のファインセーブに阻まれ、得点ならず。
その直後、前半終了を告げる長いホイッスルが二度、三度と鳴り響いた。
「ふううぅぅぅぅ……」
のり子は、自分がいつの間にか呼吸を忘れていたことに気づき、肺の空気をすべて吐き出すように深く息をついた。
日本、グスタフ公国、ともに一歩も引かない、0対0の緊迫した展開。たった45分間とは思えないほどの精神的疲労が、どっとのり子を襲う。
喉の渇きを覚え、のり子はふと、自分の右手を見つめた。
「あら……?」
手を開こうとしたが、なんだか皮膚がべったりと張り付く。
のり子の右手には、試合開始直前に口へ運ぼうとしていたポテトチップスが握られていたはずだった。
しかし、そこに残っていたのは、完全に粉々になって文字通り「粉末」と化した黄色い破片の山だった。
のり子が試合の緊張のあまり、無意識のうちに力を込めすぎて握りつぶしてしまったのだ。手のひらは、じっとりと冷たい汗で湿り、細かくなった塩と油の粉が皮膚に張り付いて、なんとも言えない不気味な感触を残している。
「わたし、こんなに力入ってたのね……」
のり子は苦笑いしながら、テーブルの上のティッシュで手のひらを拭った。
しかし、興奮で火照った体は、もう冷めそうにない。
テレビの画面では、ハーフタイムの解説が始まっている。画面の向こうの熱気は、今も静かにリビングの空気を暖め続けていた。
残るは後半の45分。
世界一をかけた戦いは、ここからさらに過酷なものになっていく。
手のひらにこびりついたポテトチップスの残骸を濡れティッシュできれいに拭き取ると、のり子はキッチンへと急いだ。
「やっぱり、お菓子は必要よね。これがないと、この大一番は乗り切れないわ」
のり子は棚の奥から、今度は「かっぱえびせん」の袋を取り出した。
一度食べ始めたら「やめられない、とまらない」あのサクサクとした軽い食感なら、さっきのようにガチガチに力を込めて握りつぶしてしまうこともないはずだ。
袋を開け、お皿にそっと移してリビングに戻ると、巨大な画面には前半戦のハイライト映像が映し出されていた。
「あぁ、やっぱりここ、本当に危なかった……」
スローモーションで再生されるグスタフ公国の強烈なシュート。
キーパーの指先がわずかにボールの軌道を変えた瞬間が、超高精細な映像で克明に映し出される。
実況と解説の熱いトーンが、のり子の胸に前半戦のあの痛烈なヒリヒリ感を再び呼び起こした。画面から放たれる熱気は、ハーフタイム中も衰えることなく、リビングの空気をじりじりと支配し続けている。
そして、運命の後半戦、その開始を告げるホイッスルが鳴り響いた。
ピーッ!
スタジアムのサポーターたちのボルテージが一気に跳ね上がる。地響きのような大合唱がリビングの床を激しく揺さぶった。
ハーフタイムの15分間で、両陣営は完全に相手の出方を分析し合っていた。
日本の監督がベンチ前で鋭い指示を飛ばし、グスタフ公国の選手たちがフォーメーションを微調整する。お互いの動きが分かった上での、心理戦と肉弾戦。文字通り、世界の頂点を決めるための、残された最後の45分間が始まったのだ。
のり子は、ソファのど真ん中に姿勢を正して座り直した。
膝の上にはかっぱえびせんの皿を抱え、大画面のちょうど中央を真っ直ぐに見据える。
もう一瞬たりとも、よそ見はできない。
のり子は息を呑み、フィールドを駆ける青いユニフォームの背中へ、祈るような視線を送り続けた。
ピーッ!
後半戦が始まると、試合の温度は前半戦の比ではないほどに沸騰した。
ピッチのあちこちで肉体と肉体が激しくぶつかり合い、レッドカードギリギリの際どいタックルが飛び交う。ボールを奪っては奪い返され、攻守が一瞬で入れ替わる目まぐるしい展開。
どちらのチームも、世界最高峰と謳われる鉄壁のディフェンス陣。あと一歩、本当にあと数センチのところでゴールネットを揺らすことができない。
ソファの上ののり子は、膝の上のかっぱえびせんを食べることも完全に忘れ、ただただ息を呑んで大画面にしがみついていた。
一瞬でも気を抜いた方が負ける。最後まで、集中を切らさずに攻め続けた方が、世界の頂点に立つのだ。
じりじりと時間だけが過ぎ、後半も40分を過ぎた、そのときだった。
日本のミッドフィルダーが、相手のパスを劇的なスライディングでカット。そのまま電光石火のカウンターへと繋げる。
前線へと送られたロングパス。グスタフ公国のゴール前に、ほんの一瞬、ぽっかりと不自然なエアポケットのような「空間」が生まれた。
そこへ、美しい軌道を描いたボールが上がっていく。
「い、いけええええええええーーーー!!」
のり子は思わずソファから身を乗り出し、喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。
その瞬間。
リビングを照らしていたテレビの青白い光が、ぐにゃりと視界全体に広がった。
「え……?」
次の瞬間、のり子の鼻腔を、むっとするような生々しい「青草の匂い」と「湿った土の香り」が貫いた。
足元が妙に冷たい。見下ろすと、履いていたはずのスリッパはなく、自分の足にはなぜか青いサッカーシューズが輝いている。そして、そのスパイクは、ライトに照らされてキラキラと輝く本物の芝生をがっちりと踏みしめていた。
頭上から、鼓膜を物理的に破らんばかりの、八万人の大歓声が降り注ぐ。
空気に含まれる圧倒的な熱気。飛び散る汗。ここはリビングではない。巨大なスタジアムの、まさにゴール前だった。
「え? え? え? なにこれ、どういうこと!?」
のり子がパニックに陥り、その場に棒立ちになった瞬間、目の前に、綺麗に回転しながらバウンドするサッカーボールが、絶好のタイミングで転がってきた。
目の前には、白くそびえ立つ世界一へのゴールポスト。
そして、その前に立ち塞がる、グスタフ公国の巨大なゴールキーパー。
キーパーは一瞬、「なぜここに……?」と言わんばかりの絶望に似た表情を浮かべたが、すぐにプロの顔つきに戻り、鉄壁の守りの構えをとってのり子を鋭く睨みつけた。
スタジアム中から、地鳴りのような大声援がのり子の一点に集まってくる。
「いけええええ! そこだアアアア!!」
「決めろおおおおおおお!!!」
「何が起きているのよ、誰か説明してーー!」
のり子は訳が分からず、きょろきょろと周囲を見回した。
しかし、スタジアムの誰もがのり子を見つめている。なかなかシュートを放とうとしないのり子を見て、敵のキーパーがボールを奪おうと、重心を低くしながらじりじりとのり子の方へ近づいてきた。
恐怖に駆られたのり子は、助けを求めるように後ろを振り返った。
そこには、テレビで何度も見慣れた日本代表のイレブンたちが、泥と汗にまみれた必死の形相で、のり子に向かって手を振り、叫んでいた。
「蹴るんだ!!」
「いけーーー!! 決めろーーー!!」
敵のキーパーが、鋭い目つきで猛然とのり子の足元に向かって飛び込んでくる。巨大な体が迫り、その手袋をはめた大きな手が、のり子の足元に触れようとした、その瞬間――。
「いやあああああああああああ!!」
のり子がパニックの極限で、迫り来るキーパーから逃れるように目をきゅっと閉じて蹴り飛ばした右足。
ずしり、というボールの重みがスパイクを通じて脳天まで突き抜けた。
その瞬間、スタジアムを包んでいた地鳴りのような大歓声が、一瞬だけ、奇妙なほど静まり返った。
恐る恐るのり子が目を開けると、スタジアムのスピーカーから、割れんばかりの実況の絶叫が響き渡った。
『お、おっとぉーーーーーー!? なんだ今のキックはーーー!!』
実況アナウンサーの声は、興奮のあまり裏返っている。
『のり選手、ここでまさかの、フェイントキックだああああああーーーーーっ!!!』
「え……? ふぇいんと……?」
のり子はぽかんと立ち尽した。
『信じられません! 敵キーパーが猛然と突っ込んでくるギリギリの極限状態、スタジアムの誰もが力強い強振を予想したその瞬間! のり選手は完全なるノーモーションから、あえて力を抜ききった超低速のグラウンダーを放ちました! なんという冷静さ、なんという恐るべき頭脳プレーだ!!』
のり子の放ったヘロヘロの、しかし絶妙に力の抜けたボールは、完全にタイミングを外された敵キーパーの指先をすり抜け、まるで意志を持っているかのように、コロコロと無防備なゴールマウスへと転がっていった。
白くそびえ立つゴールポストの間を、ボールがゆっくりと横切る。
そして、静かに、ゴールネットを内側から揺らした。
ピピピーーーーーッ!!!
試合終了、そして日本の歴史的初優勝を告げるホイッスルが、夜空に高らかに響き渡った。
『ゴーーーーーーーール!!! 決まった、決まりました日本!! 世界の頂点に立ったのはジャパンだ!! 交代直後の本能的な動きから、最後はキーパーをあざ笑うかのような芸術的なフェイント! 勝利の女神は、間違いなく「のり選手」に微笑みました!!』
「わあああああああああーーーーーーっ!!!」
八万人の大歓声が爆発した。スタジアムが物理的に激しく揺れる。
ピッチの上では、力尽きたグスタフ公国の選手たちが芝生に突っ伏し、がっくりとうなだれている。
対照的に、日本代表の若きイレブンたちは狂喜乱舞しながら、のり子を押しつぶさんばかりの勢いで一斉に飛びかかってきた。
そこへベンチから控えの選手たちも一斉にピッチへなだれ込み、お祭り騒ぎの輪がさらに大きく広がっていく。
「やった! やったぞのり選手!」
「信じられない、本当に世界一だ、のり子!!」
選手たちはのり子の背中や肩を興奮気味に叩き、彼女が放ったあの「奇跡のフェイントキック」のヘロヘロな動きを真似し合っては、大爆笑して抱き合った。
さらに、誰かが持ち込んだボトルから、歓喜の水が勢いよく飛び散った。
「冷たっ! ちょっと、やめなさーーーい!」
のり子が叫ぶ間もなく、周囲の選手たちから次々と頭から水を掛けられ、彼女は一瞬でびしょ濡れになった。
見上げれば、スタジアムの夜空に金銀の紙吹雪がキラキラと舞い散り、大歓声の嵐の中で光り輝いている。
肌を濡らす水の冷たさ、飛び交う歓声、全身を震わせる勝利の興奮。
(最高……! なんて素晴らしい瞬間なのかしら……!)
のり子はいつの間にか、自分が観客であることも、ここがどこであるかも完全に忘れ、泥と汗、そして水にまみれたイレブンたちとガシッと肩を組み、一緒になって声を枯らして笑い、ピッチの上で何度も何度も飛び跳ねた。
熱狂が最高潮に達した――その瞬間。
ふっと、スタジアムの光景がぐにゃりと歪み、テレビの画面へと吸い込まれるように遠ざかっていった。
「え……?」
気がつくと、のり子は激しく呼吸を乱しながら、自分のリビングの真ん中に立ち尽くしていた。
耳元を揺るがしていた八万人の大歓声は消え失せ、テレビの画面の中では、スタジアムで優勝カップを掲げてお祭り騒ぎを続けるイレブンたちの姿が、無音に近い静けさで映し出されている。
しかし、のり子の目の前に広がる光景は、あまりにも悲惨だった。
「う、うそ……なにこれ……」
のり子は、自分の右手に炭酸飲料の空のペットボトルをしっかりと握りしめていることに気づいた。
頭からは滴る冷たいジュースが、頬を伝ってリビングのカーペットにポタポタと落ちている。スタジアムで「頭から水をかけられた」と思っていたのは、興奮の極限に達したのり子自身が、ジュースを勢いよく振りかざして自分の頭から一気にぶちまけた結果だった。
さらに足元を見れば、お皿からこぼれ落ちた「かっぱえびせん」が、床一面に粉々にばらまかれて無惨に踏み潰されている。
髪に張り付いていたキラキラ光る金銀の紙吹雪は、のり子自身が狂喜乱舞しながら引きちぎって投げ散らかした、かっぱえびせんとポテトチップスの「袋のアルミの裏地」の破片だった。
それだけではない。
「世界一へのゴールポスト」を目がけて蹴り飛ばしたはずの右足の先。
のり子が何度も壁を蹴り飛ばしたのだろう、リビングの壁紙には無数の生々しい蹴り跡と、凹みがぽっかりと穿たれていた。
お気に入りのソファはひっくり返り、ガラステーブルも傾いて見るも無残な姿をさらしている。
「もう……なによこれ……」
のり子は、激しく波打つ心臓を押さえながら、あまりの惨状にガックリと膝をついた。
テレビの「臨場感」は、確かに本物だった。
本物すぎて、のり子の脳を完全にスタジアムへ拉致し、我を忘れさせてしまったのだ。
「臨場感がありすぎだわ……本当に、すごすぎるわよ、このテレビ……」
のり子は涙目になりながら、じっとりと濡れた手袋のような不快感を放つ右手を動かし、床にしゃがみ込んだ。そして、無数に散らばったかっぱえびせんの残骸を、ぽつり、ぽつりと寂しく拾い集め始めるのだった。
「はやく、このテレビ引き取りに来てよ・・・」
のり子は、ぼそっとつぶやいた。
おしまい




