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第二話

  仄かな光が灯る狭い部屋。

  「……助けて……」

  少女の呟きは、誰にも届かず、ただ露のように消えていった。

  と、思われたのだが。扉一枚隔てた向こうで、その呟きを聞いていたものがいた。決意に満ちた目をして、苦々しい表情を扉の向こうの少女に向けながら、彼は決意する。

  ……助けよう。絶対に。

  そして三日後、その決意は行動に移される。







  

  「……ん」

  沙英は目を覚ました。事件が終わってから初めて、よい夢見だったと思えた。

  「……誰なんだろう」

  夢にも出てきた、自分を助けてくれた恩人。沙英は強く、彼の事を思い描く。美化しすぎないよう気を付けながら、思い出す。日本人らしい黒髪、黒い瞳。優しげな顔には、沙英を気遣うような表情が浮かんでいた。あまりに普通の服装だったので、彼の服装を沙英はよく憶えていなかった。それを悔しく思うのは、自分が彼を恩人だと感じている証拠だ、と彼女は安心する。

  「……今、何時だろう」

  ベッドのそばにある時計を見て、沙英は驚く。まだ朝の六時にもなっていなかったのだ。

  沙英はお弁当なんて作らず、昼食は学食で済ましてしまう。それに犬を飼っていたりもしない。朝にすることと言えば、シャワーを浴びる、朝食を採る、歯を磨く、着替える、以外のことが何もないのだ。つまり、六時なんかに起きてしまうと、どうしても暇になるのだった。

  「……とりあえず、シャワー浴びよ」

  沙英はバスルームに半分夢うつつのまま向かった。

  パジャマを脱ぎ捨て、洗濯かごに入れる。沙英はそこで、洗面台に写った自分の裸身を見る。ごく普通の体型で、胸は可もなく不可もなくの大きさである。沙英は自身の体が傷一つなく、青アザになっているところもないことを確認して、深く息を吐く。自分が気を失っている間にどうこうされた、ということはなさそうだ。そんな安心が沙英の心を少しだけ楽にした。

  「……♪」

  シャワーを浴び終わり、体を拭き終わると、制服に着替えて朝食の準備を始める。彼女が通う高校は、制服、特に冬服が可愛いと中学でも評判で、つい最近まで普通の人間だった沙英も、その評判に釣られて入学を志した。今からすればその冬服が可愛かったせいで攫われたのでは、とも一瞬思ったが、それを考えたら学校なんて行けるわけがない、と思いを振り払った。パンにバターを塗っただけの簡素な朝食を意図的にゆっくりと終わらせると、洗面台にに向かい、歯を磨き始める。

  「……よし、頑張ろう。大丈夫、大丈夫たがら、きっと頑張れるよ」

  歯を磨き終わった沙英は、鏡の向こうの自分に言い聞かせた。

  寝室にある鞄を手に持ち、玄関へ向かう。時計を見ると、時刻は七時を指していた。今から行けば、半にはつくだろう。いつもより四十分も早い。

  「いってきます、おとーさん、おかーさん」

  もういない両親に向けて挨拶をし、沙英は家を出た。彼女の家に仏壇はない。沙英の両親が死んだ時、天涯孤独になってしまった彼女は二人の死があまりき悲しく、葬式を挙げるだけで精一杯で、仏壇を買う余裕なんてなかったのだ。金銭面で不安があったのも、要因の一つだ。

 外に出ると、朝の日差しが街を照らしているのが沙英にもよくわかった。

  「……うう……」

  朝の街をしばらく歩くと、沙英の口から呻き声が漏れた。

  何もかもが怖い。もしかしたら電柱の影に誰かがいるのかもしれない。もしかしたら、また攫われるのかもしれない。何が起こっても不思議じゃない。

  まだ、事件が終わって三日。沙英は本来外に出れるような精神状態ではないのだ。溢れ出る恐怖を噛み殺して、約束通りに沙英は学校に向かう。早く。沙英は、嫌いな人でも友達でも誰でもいいから、同級生に会えばこの恐怖から逃れられるような気がしていた。

  「お?  ホントに来たの?」

  「……!  友!」

  後ろから声をかけて来て、沙英は身構えたが、それが友達だとわかると、一転して顔をほころばせて、そばに駆け寄った。友の腕に縋りつくように抱きつく。

  「無理して来なくてよかったのに。まだ学校でも、沙英のこと誤解してる人、結構いるよ」

  「……だ、大丈夫、だと、思う」

  「だから、無理しなくていいって。今からでも、家に戻る?」

  沙英は首を振った。快活で真面目だった沙英は、三日も学校を休むことに引け目を感じているのだ。攫われていた期間も含めると六日。それほどの期間を休むなど、事件の前の沙英ならばあり得ないことであった。

  「真面目なとこだけは変わんないんだね」

  「……私、変わった?」

  「ものっすごく変わった」

  沙英は首をひねる。自分が変わったなどと言われても、自覚がほとんどないのだ。

  「自覚なし?  まだ事件のこと忘れれてないからだと思うけど……」

  もし、事件のことを綺麗さっぱり忘れられたとして、沙英は元に戻るのだろうか。友はそんな不安に見舞われた。

  「おはようございます、日割さん」

  沙英たちが学校まで着くと、校門のところに、男女の二人組が待っていた。

  「……こんにちは、刑部さん、桜田さん」

  沙英は二人に頭を下げて挨拶する。

  「なに、沙英。この二人知り合い?」

  「うん。こっちの人が、刑部

 敬二さん。警察の人」

  沙英は男の方を手のひらで指して友に紹介する。男は軽く会釈。彼は白髪が少し目立ち、表情は厳しく引き締められている。着ているコートは機能的で、いろいろな小物が入っている。

  「こちらが、桜田  桂香さん。刑部さんのパートナーだそうです」

  「よろしくね」

  沙英に紹介された女は、微笑みを浮かべてそう言った。そろそろ暖かくなってきたこの時期にしては随分重装備の刑部と比べ、桜田は長袖のシャツにジーパンというラフな格好だ。二人を紹介された友は、彼らが本当に警官かどうかを真っ先に疑った。

  「……なんでそんな格好なんですか?  ちょっとそれで警官名乗るのは無理がありますよ」

  「なかなか優秀な警戒心ですね。関心です」

  「いいから、なんで?」

  友が妙につっかかるのには、理由があった。もし、自分が油断したせいでまた沙英が事件に巻き込まれてしまったら、それは自分のせいではないだろうか。そんなことにもならないためにも、自分が守ってやるべきではないのか?  そんな、義務にも似た感情が友の中にあったからだ。

  「沙英さんへの配慮ですよ。マスコミ連中が喚いているこの時分、あなただって先生方に嫌な心象を与えたくないでしょう?  それとも、目立つ制服で来た方が、よかったでしょうか?」

  「ぐ……」

  沙英のことを気遣ってのことだとわかって呻く友。

  「ま、まあ、気にしないで。私たちも嬉しかったのよ?」

  慌てて、隣の桜田が言い繕う。

  「沙英さんのお友達がこんなにもしっかりしてる子なら、安心できるからね。これからも、沙英さんのこと、助けてあげてね」

  「言われなくても、そのつもり」

  友は気恥ずかしさから顔をあさっての方向に向けながら言った。

  「あ、あの、なんのご用でしょうか?」

  人通りがだんだんと多くなってきて、通りかかる何人かが何事かと沙英たちを見る。こんな状況から早く抜け出したいと思い始めた沙英は、話を区切ってそう訊いた。

  「少しだけ訊きたいことがあってね」

 桜田の答えに、 沙英は眉をひそませた。助けられてから、警察に保護され、そこで根掘り葉掘り訊かれたことを思い出したのだ。特に酷い訊き方をされたわけではなかったが、それでも思い出したくない記憶を訊かれるというのは、気分のいいものではなかった。どうせ訊かれるなら、自分を助けてくれたあの警察官に訊かれたいな、と沙英は何度も思ったが、覚えていたのは声だけなのでどうしようもなかった。

  「……じゃ、じゃあ、ここじょなくて、もっと静かなところで……」

  「いや、そこまでして訊くようなことじゃないんですよ。このところ、あなたの周りにストーカーのような奴がうろついていませんか、とだけ訊きたかったんですよ」

  「……いませんけど」

  「そうですか。なら、私からはもう何も訊くことはありません。あなたから何か質問はありますか?」

  「……ありません」

  沙英は早くこの二人から逃れて教室に入りたかった。だからそう言ったのだか、刑部は驚いたような顔をした。

  「意外ですね。もっと訊かれると思っていました」

  「もう行ってもいいですか?」

  「ええ。時間取らせて悪かったわね。それじゃ」

  桜田は明るく手を振って、近くに停めてあった車に乗り込み、すぐにエンジンがかかり、どこかへと行ってしまった。覆面パトカーかな、と二人は思った。

  「……あんなのが警官?」

  「でも、私が会った中では、とてもいい人だよ」

  「あれでいい人の部類とは、日本の警察も終わってるわね」

  刑部  敬二、桜田  桂香。彼らが警察一の問題児であることを、二人は知らない。

  「そうかな。悪い人を捕まえてくれるなら、私はそれでいい」

  「……そうだね」

  二人は黙ったまま、教室まで歩いた。友の沈黙は気まずさからだったが、沙英の沈黙の理由は緊張からだった。自分が一体クラスでどう思われているのか。それが気になって仕方がなかった。もしかしたら、どこかのテレビ局がやっていた狂言誘拐説を信じている人間が、いるのかもしれない。

  「……どうする?  怖いんなら、保健室連れてってあげるよ?」

  「い、いいよ。頑張る」

  そうはっきりとした意思を示した沙英の胸には、事情聴取をした警察官の言葉がはっきりと浮かんでいた。

  『殺害目的で誘拐されて、助かった例なんてほとんどない。犯人が三日とか一週間とかかけるのは、君を攫った犯人のよう殺し方を調べるためじゃなく、大抵が、その、長く苦しめるためだ』

  だから、マスコミは助かった沙英が珍しく、標的にしたのだった。誘拐されて、助かった命。ただ怖いという理由だけで安全な家に引きこもっていては、恩人に申し訳が立たない。生まれ持っての正義感をもって、沙英はそう考えていた。

  「……無理しなくていいって言ってるのに」

  「あ、あの人を探さなきゃいけないの。もしかしたら、クラスにあの人のこと知ってる人がいるかもしれないし」

  「……やれやれ」

  沙英の意地を張るような言い訳に、友は肩をすくませた。

  「おはよう……」

  沙英は力なく教室の扉を開けた。教室にいるクラスメイトの視線が、一挙に集まる。もう殆どのクラスメイトは教室にいた。なぜ、こんな時間に?  そんな沙英の疑問はすぐに解決される。

  ……もう、こんな時間? 

  時刻は八時前。あの人たちの会話は手早く済ませたつもりだったのに、こんなにも経っていたなんて。沙英は降り注ぐ視線におののきながらそう思った。

  「はい、ぼーっと突っ立ってないで入った入った!  ほら、あなたの席はここよ」

  沙英の気持ちを引き上げるようにつとめて明るく振る舞う友は、沙英の手を引っ張り、沙英の席まで連れていき、着かせる。

  「ほら、ここがあなたの席。覚えてるでしょ? 学校も、私たちも、 何も変わってないわ。だから、安心して」

  私たちは、変わらずに接する。友はクラスメイトを代表して、その意思を沙英に示した。

  「沙英ちゃん、休んでなくて大丈夫?  まだ三日よ?」

  沙英と仲のよかったクラスメイトが一人、近づいてきてそう言った。

  「そうそう。もっと寝とけって。捕まってる間まともに寝れなかっだだろ?」

  クラスの中心になっている男子が、沙英に声をかける。

  「あんたは眠ることしか頭にないのか」

  友の友達がやってきて、彼にツッコミを入れる。

  それからも、次から次へとクラスメイトがやってきて、沙英に話しかけたり、心配するような声をかけたり、慰めようとしたりした。それらの中に沙英を罵るようなものはなかった。

  「……みんな……」

  何気ない心配する声が、沙英の心の奥にまで届く。目に涙が溜まり、沙英の世界が潤んでいく。

  「……ありがとう……」

  「気にしないで」

  「気にするなよ」

  「大丈夫大丈夫」

  「気にしなくていいよ、沙英ちゃん」

  罵られるかも、変な目でみられるかも?  私はなんてバカな心配をしたんだろうか。こんなにも、いい人たちなのに。

  沙英は周りで優しい言葉をかけてくれるクラスメイト達と会話を交わしながら、そう確信した。  始業を告げるチャイムが鳴った。沙英の周りにいるクラスメイトは、少しづつ自分の席に着いていく。

  「……さ、今日も授業始めるぞ」

  だるそうな表情で、担任の教師が入ってきた。そろそろ初老を迎えようかという年齢の男性だ。

  「……日割、来ていたのか」

  「はい」

  彼は教室に沙英の姿がある事に気が付くと、驚いたような顔をした。

  「……昼休み、職員室に来るように」

  「わかりました」

  沙英は何の話だろう、と思いながら頷いた。

  「よし、今日は学年末テスト前だからな、授業の速度早めるぞ。教科書百二十ページを開いて……」

  国語の教師である彼は、足早に授業を始めた。まるで、そうすることで沙英からの質問を回避するかのように。

  「……」

  友や他のクラスメイトは、沙英がなぜ呼び出されるのかを、知っていた。

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