最終話
沙英はそれからのことをよく覚えていない。ただ、彼女は気がついたら友の家の前にいた。警察署にいたときのことは何も覚えていない。どうでもいいことだからか、覚える余裕もなかったからなのかはわからないが。
「……沙英、ちゃん」
玄関先で絶望していた慈亜が、少し安堵した表情で沙英を出迎えた。そのことが、沙英の胸を締め付ける。
「……ごめんなさい、慈亜さん」
深く、深く沙英は頭を下げた。
「ど、どうしたの、沙英ちゃん?」
慈亜は沙英の態度である程度事情を察した。けれど、慈亜は信じたくなかった。
「わ、私の」
沙英は、そこから先を言おうとした。けれど、寸前になって、言葉が止まった。
もし、言ったら。この人は私を罵って、犯人と同格に扱うのではないか。
そんな恐怖が、沙英の中に生まれた。
……ダメ。
沙英は思った。
私のせいで、友が死んだのには変わりないから。ちゃんと、怒られないと。ちゃんと、罵られないと。ちゃんと、別れないと。そうしないと、きっと私は、ダメになっちゃう。
「友は……殺されました」
慈亜の表情が固まる。
「……え?」
「私が、友の家に入ったから。……私の、せいで」
沙英はそれだけを言うと、じっと言葉を待った。もしかしたら殺されるかもしれない。そんな不安があったのにも関わらず、彼女は逃げなかった。
「……友は、死んだの?」
「……うん」
「…………どんな死に方だった? 知ってる?」
「……綺麗な、死に方だったよ。声も上げずに、殺されちゃった」
沙英は嘘をついた。申し訳なく思う一方で、本当にそうだったらいいのに、とも思った。いや、それ以前に、全てが嘘だったら、全てが夢だったら。
そうだったら、いいのに。
「……沙英ちゃん、こっち来て」
そんな他愛のない想像をしながら、彼女は言われた通り、慈亜に近付いた。
「……よく、生きて帰って来たね」
慈亜は辛そうにそういいながら、沙英を抱きしめた。
「……」
「本当に、辛かったよね。友が死んだのは自分のせいだ、なんて言って、全部背負い込んで、苦しかったのよね」
「……違う、私は」
「大丈夫。友はきっと、幸せだったわ」
「……そんな」
そんなこと、あるものか。あんな殺され方されて、幸せなわけがない。沙英はそう確信していた。全ては自分のせい。こんな風に、優しく抱き締めてもらう資格なんてない。
「……きっと、あなたは私に優しい嘘をついてくれたんだと思う」
沙英の胸に、楔が打ち込まれたような痛みが走った。
「それは、友が苦しまずに死ねたってことかもしれないし、声も上げずに死んだってことかもしれない。……けど、いいの。私は大丈夫だから。あの子がいなくなって本当に辛いけど……」
そこで慈亜は言葉を切った。
「辛いけど、あなたのことは、責めないわ」
ぎゅっと、沙英はさらに力強く抱きしめられた。
「……だから。あなたのことを責めないから。何も言わないから。だから、ここにいてちょうだい。お願いだから、私とあの人と一緒にいて」
あの人、というのは友のお父さんであろうことは容易に想像がついた。まるで強迫めいた言葉が、沙英の断ろうとする思いを鈍らせる。
「お願い、沙英ちゃん。私は友の代わりがほしいわけじゃないの。私は、友のことをちゃんと受け止められるようになりたいの。でも、今それをできそうにないから。私の娘になって、一緒に手伝ってほしいの」
懇願するように言われ、沙英は断ることができなかった。
「……うん」
きっと、友の死を受け止められるようになったら私は要らなくなるんだろうな、と沙英は思った。今の慈亜にその気はないだろう。けれど、実際に時が経てば、なぜ自分を養っているのかわからなくなって、そして、慈亜は言うのだ。
『出て行って』
と。
沙英はそんな想像をしたが、慈亜の娘になることを断らなかった。なぜなら、そのことだけが、友が死ぬ原因を作った自分にできる最高の償いのように思えたからだった。
「……じゃ、家に入ろう、『お母さん』」
「……ええ」
ゆっくりと慈亜は沙英を離し、沙英に導かれるまま家の中に入った。
母親の 慈亜は不安で、怖くて、耐えきれなくて沙英を娘にした。
娘になった沙英は辛くて、苦しくて、自分を捨てる気持ちで娘になった。
始まりは暗いものだった。友を失った慈亜はしばらく何もできなかったし、友を喪わせた原因の沙英は、罪悪感で狂いそうになりながらも家事を手伝った。
父親の誠司は、いきなり失った娘と入れ替わるようにして娘になった沙英に戸惑いながらも、次第に彼女を受け入れた。そして、そして。
「お父さん、お母さん、おはようございます」
朝、すでに大学に通う用の服に着替えた大臣 沙英が、目を完全に覚ました状態で起きてきた『両親』に挨拶した。
「おはよう、沙英」
「……おはよう、沙英」
母親の慈亜は笑顔で、父親の誠司は不機嫌そうに挨拶を返した。
「お父さん、お母さん、朝ご飯、できていますよ」
「あら、ありがとう」
「……うむ」
慈亜は並べられた料理を前に、嬉しそうにテーブルに着いた。対照的に誠司は、気難しそうな顔をしながら仁王立ちしている。
「……どうかされましたか?」
「気に食わん」
短く、彼は言った。
「……すみません。今すぐ作り直します」
朝早く起きて作った朝食を下げようとした沙英の手を、誠司がつかんだ。
「それが気に食わんと言っている。お前はなんだ? 召使いか? あれから一年、私もお前が朝からいる風景にも、朝に友がいない光景にも慣れた。だがお前の口調や態度はいつまで経っても慣れん」
「……すみません、私、不勉強ですから、正しい敬語が」
「そんなことではないのだっ!」
手を掴んだまま、彼は思い切り沙英を怒鳴りつけた。沙英はなぜ怒られているのかわからず、ただ身が縮こまるばかり。
「もう一度聞こう。お前はなんだ。お前は誰になった。お前は何になった。答えろ」
「……私は……」
沙英は恐る恐る、もはや建前のようになった『関係』を言った。
「私は……お父さんの、娘です」
「違う」
沙英はドキッとした。表向きは確かに沙英は慈亜、誠司の娘だが、沙英がしているのはそのまま召使いのようだった。
「お前は召使いだ。そうなろうとしている節さえある。お前は娘か? ならばなぜ敬語を使う。ならばなぜ私達より先に起きる事を自らに課している。ならばなぜ食事を作るのを自分の役目だと考える。私達に気に入られようとしてそうしているのならまだわかる。だがお前は自ら進んで娘以外の何かになろうとしている。何故だ?」
沙英は問い詰められて、何も答える事ができなかった。
「あなた、そんな辛く当たらなくても……」
「辛く? 辛くあたっているのは誰だ? 私か? 沙英か? 私はもう沙英を本当の娘のように思い始めている。……死んだ友と同じぐらいにな」
友の名前を出されて、沙英の表情が固まる。けれど乖離状態になったわけではなく、ちゃんと見えているし、聞こえてもいる。
「それなのにお前はなんだ? 口ではお父さん、お母さんと言いながら、していることは召使いとそう変わらない。私は召使いを住まわせるために働いているのではない! 娘のために働いているのだ。そう、お前のために」
「……そんな、私は、召使いなんて、なるつもりなどは……」
沙英は小さく答えた。
「ならばお前は何になるつもりだ? 娘か、召使いか? 言いにくいのなら今だけは敬語で構わん。だが、意思ははっきりしてもらおう」
厳しい口調で、誠司は沙英を叱責する。
「あなた、もう少し待ってあげて……」
「一年だ。私は一年待った。しかし沙英は何も変わらなかった。むしろ酷くなっていく。元々沙英は慈亜に敬語を使っていなかった。それなのにも関わらず、今は当たり前のように敬語を使う」
「敬語を使うのは、悪いことではないでしょう?」
慈亜はなんでもないことのように言うが、誠司にはそれがダメだと思っているようだ。
「ああそうだ。敬語を使うこと自体は構わん。が、沙英の敬語は私達と距離を置くためのものでしかない。私はそれがダメだというのだ」
沙英は何も言わない。
「出て行け、とは言わん。だが、努力はしてくれ」
誠司は厳しい口調でそう言った。その様子はまるで、父親が娘を叱るような口調だった。
「……いいの?」
「なにがだ?」
「私、要らなくならない?」
それは、この一年沙英を縛りつづけてきた呪縛だった。二人が友の死を受け入れたら、自分は不要になる。そんな恐怖を、沙英は常に感じていたのだ。
「娘に要るも要らないもない。……そこにいてくれるだけで、いいんだ」
「あなたはいてくれるだけでいいのよ。要るとか要らないとか、そんな問題じゃないの」
その呪縛を取り払ったのは、友の両親だった。友に対する罪悪感は未だにある。けれど、少なくとも捨てられるという恐れはなくなった。
「……ありがとう」
沙英は静かに微笑んだ。
「構わん。さあ、食事にしようか慈亜。沙英が作ってくれた朝食だ、きっとうまいのだろうな」
「ええ、そうね」
二人は微笑みながらテーブルについた。
「ねえ、お父さん、お母さん」
二人と同じように座り、沙英が口を開いた。
「……今まで、本当にありがとう。……これからも、よろしくお願いします」
ぺこりと、沙英は頭を下げた。今までのように距離を置いた敬語ではなく、親しみのある敬語だった。
「ああ。こちらこそ、よろしくたのむ」
「ええ、こちらこそ、よろしくね」
嘉蓋 栄が起こした連続殺人事件が終結してからおよそ一年。娘を失った悲しみと、親友を失った悲しみ。二つの悲しみは時間と共に、少しづつ、少しづつ癒えていった。嘉蓋 栄の死刑が確定した頃には、友の死は、完全に受け入れていた。
嘉蓋 紗武は現在も裁判中である。自主した形になるので減刑はされるだろうが、死体遺棄が重い罪であることには変わりないだろう。彼がもう少しだけ警察に言うのが早ければ、友が死ぬこともなかったのに。そんな思いを抱いた沙英が、彼のことを恩人と思えるかといえば、そうではなかった。
「……ごちそうさま。……いってきます、お父さん、お母さん」
沙英の傷もかなり癒えてきた。未だに外に出るのには勇気がいるし、扉を開けるのにも覚悟がいる。けれど、事件の最中に感じていたような恐怖はもはやすっかり消えていた。友に対する罪悪感があることを除けば、今の沙英は普通の少女だと言えるだろう。
「いってらっしゃい」
二人が見送りに来る。慈亜は必ず玄関先まで出て見送るが、それは無理のないことだろう。
「じゃ」
短く手を振ると、沙英は大学への道を歩き始める。その足取りにはもう迷いはなく、恐れもない。
彼女は彼女の道をゆく。