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第一話

  「きゃっ!」

  沙英は飛び起きた。自分の手と足を確認して、あの時のように縛られていないかを何度も何度も確認する。それが終わると今度は口に手を当て、猿轡を咥えさせらへていないか確認する。それが終わって、初めて彼女は息をついた。

  「……よかった、夢か」

  幾度となく繰り返し見た、あの三日間の夢。眠っているのはほんの二、三時間もないというのに、凝縮された記憶が悪夢を見せる。

  「……」

  ベッドから起き上がると、沙英はリビングに向かう。沙英の家は二階建てだが、両親が死んでからは、一階しか使っていなかった。おもむろに、テーブルの上にあったリモコンをとってテレビをつける。

  『……現在逃走中の容疑者、嘉蓋  栄は被害者の少女を誘拐、殺害しようとした罪に問われています。このところ続いている少女の誘拐殺人も同様の手口であることからみて、警察は連続殺人も視野に入れて捜査しているとのことです。……コメンテーターの火野さん、どうぞ……』

  胡散臭そうな評論家もどきがテレビ画面に映ったところで、沙英はテレビを消した。

  ……まだやってる。

  彼女は微かな悲しみを胸に灯しながら思った。もう事件が終わって三日も経つというのに、テレビてはまだ沙英の事件を面白おかしく報道していた。自分で誘拐犯から逃げたのが彼らの琴線に触れたらしく、局によっては沙英の狂言誘拐ではないか、とさえ言うほどだ。

  「……もういや」

  学校にはまだ行っていない。学校に行けば帰らなければならない。帰ろうとしたら、また攫われるかもしれない。前は助かった。けど、次はもう助からないかもしれない。そんな怯えが、沙英を不登校にしていた。

  「……おとーさん、おかーさん」

  事件に遭うまではよほどのことがあっても思い出さなかった両親のことを、沙英は思い出す。今、ここに二人がいれば、なんて言ってくれるだろう。よく頑張ったね、辛かったよね。そう言ってくれるだろうか。

  「……っ!」

  不意に吐き気が込み上げてきた。優しい言葉をかけてきたあの犯人のことを、そしてそのあとに見せられた携帯の画面を恐ろしいほど鮮明に思い出したのだ。

  「う、うう……」

  優しい言葉、心配する言葉。そんな単純なことから、彼女は事件のことを思い出す。こんな状態では、帰宅が怖くなくても学校など行けるはずがない。沙英はうずくまり、静かに涙を流す。テレビ局の人間は、未だに玄関の外に待ち受けている。まもしかしたら盗聴もされているかもしれない。声をあげるわけにはいかない。沙英はこの三日間で、そんな疑心暗鬼に囚われつつあった。

  「おーい!  沙英~!  まだ生きてる?  死んでない?」

  だから、からかうような声が玄関の向こうから聞こえた時、沙英の心は幾ばくか救われた。

  「……ゆ、友……?」

  ふらふらと、蝶が光に吸い寄せられるように玄関まで歩き、警戒もせずに扉を開けた。

  「おや?  閂かけてから開けて、訪問の意思を確かめないと。警戒は怠っちゃだめだよ」

  ショートカットで茶髪の、快活な少女、大臣おおとみ ゆうが沙英の前に立っていた。

  「で、でも、友が来てくれたから、嬉しくて……」

  その返答に、友と呼ばれた少女は目を丸くした。

  「ほ、ホントにあなた沙英?」

  「うん。私は、沙英だよ。日割 沙英」

  「……まあ、とにかく家の中入れてもらっていい?  ……ネズミがちょろちょろしてて鬱陶しいから」

  友は後ろを睨みつけるようにして言った。

  「う、うん、いい、よ」

  沙英はそんな友を不思議に思いながらも招き入れた。リビングまで招くと、友に椅子を進める。彼女は座り、ゆったりとくつろぐ。

  「うわ、沙英の家初めて来たけど、結構広いね」

 「うん、私には広すぎるくらい。何か、飲み物いる?」

  「ビールとかある?」

  「だめだよ、そんなもの飲んだら」

  「え~。いいじゃん」

  「だめ。というかビールなんてこの家にないよ」

  「そうなの?」

  「うん、飲める人がいないから」

  「お父さんたちは飲まないの?」

  「……いないの」

  友が気まずそうに黙った。

  「ごめん」

  「いいのよ、話してなかった私が悪いんだし」

  「そ、そんなことないよ!」

  でも、となおも言おうとする沙英に、友は被せて言う。

  「別に、友達同士だからって何もかも話さなきゃいけないってことじゃないでしょ?  無神経な私が悪かったんだって」

  「でも」

  「……ん? 沙英はお父さんたちいないんでしょ?  じゃあ、沙英、今までどうしてたの?」

  話題を変えようとして、友は一つ気付いた。

  「今までって?」

  「その、事件が終わってから、誰に頼ってたの?」

  「どうして誰かに頼らなきゃいけないの?」

  その言葉は、友を突き放すように発せられた。言っている沙英だって、心の奥底では、両親に甘え、すがりたい。でも、それはできないのだ。もう、二人はいないのだから。

  「……誰にも頼りたくないの?」

  「うん」

  実は、一人だけ頼りたい人間がいるのだが、沙英がそれを友に言うことはなかった。

  「私にも?」

  「……私に頼られたら、潰れちゃうよ」

  「大丈夫。もし私でダメだと思ったら、私のお父さんたちにも、頼ってみよう?」

  「そんなの、悪いよ」

  「いいのよ。ずっと前から話してたんだし」

  友は、沙英がさらわれてからというものの、何かがあった時に沙英を助けられるように、彼女の両親を説得していたのだった。

  「……本当にいいの?」

  「いいよ。さ、存分に私に甘えなさい」

  それなら、と沙英はおずおずと友に近づき、抱きついた。

  「……怖かった」

  「うんうん」

  「……ねえ、聞いて、友」

  「聞いてるよ」

  優しげに、友は沙英を抱きしめ返す。沙英の中に誘拐犯の嫌らしい笑みが浮かんだが、必死にそれを振り払おうとする。

  「殺されるかも、って思った。もしかしたら、その、エッチなこともされるかも、って思った」

  「うんうん」

  「でも、何もされなかったの。それが、たまらなく怖かった」

  「そうなんだ」

  優しく、友は沙英の背中を撫でる。

  「でもね、三日目、犯人が来て、私に言ったの。『君を虐めるために調べるのに手間取ったんだ』って。画像も、見せ、られて……」

  目に焼き付いた赤色が、沙英の頭の中を埋め尽くす。あの時はあれが自分の未来の姿だと信じて疑わなかった。目を固く閉じ、必死であれはもう終わったことだ、と自分に言い聞かせる。

  「大丈夫。もうあなたは助かったんだから、ね?」

  「う、うん。でも、でも、私、今でも思うの。どうして、あの時死ねなかったんだろう、って」

  「……?」

  「私、死のうと思ったの。痛いのは嫌だから、舌を噛んだら死ねるっていうのを思い出して、それを、試してみよう、って」

  沙英の背中を撫でる手が止まった。

  「それで、どうなったの?」

  「死ねなくて、扉が開いて、もうダメだ、って思ったら」

  「思ったら?」

  「助かったの」

  「……え?」

  あまりにも突飛な展開に、友はついていけなかった。まさか記憶がないのか、と見当をつける。

  「男の子が私の部屋にやってきて、助けてくれたの」

  一度は話さないと決めた沙英だったが、ついポロリと口に出てしまった。けれど、意外と沙英の中に後悔はない。

 「誰なの、それ」

  「わかんない」

  あの人は誰なんだろう。沙英の疑問はさらに強くなる。

  「攫われて、三日間もほっとかれて、それで殺されることが決まって、そうしたら男の人が助けてくれた?」

  「うん」

  めちゃくちゃだ、と友は思った。けれど、嘘をついているようにも見えないし、沙英の言う人物が幻覚ということもないだろう。でなければ、今頃友は沙英の葬式に出ているはずである。

  「うーん、じゃあ、それって誰なんだろう?」

  「私も気になる。私の、命の恩人だから」

  人の良さそうなあの笑み。彼のおかげで、沙英は今生きている。その恩は、一生をかけてでも返していきたいと思う。

  「じゃあ、探してみる?」

  「え?」

  友は、これだと思った。今、沙英は必死に明るく振舞っているつもりだろうが、それでも事件に遭うまでとは比べ物にならない。命の恩人を探すことで、あのころの沙英が戻ってくるのではないか。そんな希望を、友は見出した。

  「そんなに恩返ししたいなら、探そうよ。その、命の恩人さんを、さ」

  「……それ、いいかも」

  沙英は友を離した。沙英は笑って、友に言う。

  「ありがと。あの人を探してみる」

  「私も手伝うわ」

  「そんな、悪いよ」

  「いいのいいの。友達を助けてくれたんだから、私からもお礼ぐらい、言わないとね」

  快活に微笑んで、友は言った。

  「ねえ、沙英。学校、来れる?」

  「そ、それは……」

  普通の友達に言うように友は言って、彼女はしまった、と言う顔をした。沙英は学校の帰りに攫われたのだ。学校に行きたいわけがない。  

  「……ごめん」 

  「ううん、気にしないで。私、頑張って行ってみる」

  「強いね、沙英は」

  掛け値なしに、友はそう思った。もし、自分が学校帰りに攫われて、三日も囚われ続け、生還できたらどうするだろう。きっと、もう二度と学校には行かないだろう。また攫われるんじゃないかと不安になって、怖くなって、部屋さえも出なくなるだろう。友にはそんな想像が簡単にできた。沙英とて、怖くないわけはない。けれど、このままではダメだと、直感したのだ。このまま引きこもっていては、自分はダメになる。怖いのを少しだけ我慢すれば、きっと。そんな希望さえ、今まで沙英にはなかった。希望が湧いたのは、ひとえにこうして様子を見にきてくれた、友のおかげ。

  「じゃ、あんまり長居して悪いから」

  「うん。帰り道、気を付けてね。絶対に、暗くなるまでに帰ってね。もし何かあって、暗くなったら引き返してきてもいいからね。帰らなきゃ、きっと大丈夫だよ」

  「そうね。暗くなっても家につけなかったら、泊めてくれる?」

  「もちろん。この家、今は下宿屋さんがてきるぐらい部屋が余ってるの」

  「ありがと」

  玄関まで沙英は見送りに出る。

  「じゃ、明日また学校で。辛かったら無理して来なくていいからね」

  「うん、ありがとう、友」

  「じゃあね」

  「バイバイ」

  笑顔で手を振り、友は家を出た。扉が閉まると、家には沙英一人になる。

  「……はあ。泊まっていって、って言えばよかったな」

  外を見ると、まだ夕日が空を赤く染めていた。赤。……血の、赤。携帯画面の、惨殺死体。

  「……だめ、ダメダメ。思い出しちゃ、だめ」

  かぶりを振って、頭の中の映像を追い出す。

  「夕日もダメ、かぁ……。私、こんなので生活できるのかな」

  独り言を言いながら、沙英はリビングの隣にある寝室に入り、ベッドに寝転がる。今の沙英にとって、眠ることさえ彼女の害になる。けれど、横になって体を休めることは、嫌いではない。眠ならければいいだけだ。

  「おとーさん、おかーさん、友……」

  両親を呼ぶ声と同じ調子で、友達の名前を呼ぶ。

  「……ありがと」

  今日、友が来てくれたおかげで、沙英はかなり救われたような気がしていた。助かってから人と話をしたのは、警察の人と学校の人だけで、同世代の人とは全く話をしていなかった。だから、友と話をできて沙英はとても楽しかったし、学校に行こうという気にもなった。恩人を探そうという気にもしてくれた。友には礼を言っても言い足りない。そんなふうに彼女は思う。

  「……また明日、かぁ」

  そんな風にまた挨拶ができるようになるなんて、三日前の沙英はまるで考えていなかった。あの場所が自分の墓場。そう思っていたのに。あの人に助けられたおかげで、自分はこうして日常に戻ってこれた。再び、沙英の中に恩人に対する果てしない感謝の気持ちが湧き上がる。

  「……」

  いつしか、沙英はだんだん思考がぼやけていくのを感じた。眠い。眠ってはダメだ。夢に見てしまう。眠い。ダメ。眠い。ダメ。……。

  沙英は、恐怖を感じながら眠りに就いた。

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