閑二話
「……疲れた」
沙英と友を送り届けたあとの車内。桜田はため息をついて言った。
ここは刑部がこの車を停めるため借りた駐車場。二人は沙英と友を送り届けると、ここに来て二人で話をすることにしたのだ。誰にも聞かれたくない話をするには、ひと気のない場所で、なおかつ車内であるのが好ましい。
ここに来る前、桜田達が友の家に着くと、沙英は特に抵抗もせずに車から降りた。またごねるのではと心配をしていた桜田は安心したのだが……。
「それには同意です。……にしても、まさかあれほどとは」
運転席に座る刑部は、気の毒そうに顔をしかめた。
「……傷は私達が想像していたよりも、深かったみたいね」
攫われて三日間、なにもされずに生還した奇跡の少女。普段から凶悪事件に心を痛ませている警察署内では、かなり話題になった。……しかし。
「まさか半乖離状態になるとは、思いませんでしたね」
「まったくよ。さすがに思慮に欠けてたわね」
しかし、その奇跡の少女がいまだに傷を抱えているということを知っているのは、桜田と刑部、この二人しかいない。それもそのはず、事件後沙英に出会った警察関係者は、この二人だけだからだ。
「友というお友達も、心配ですね」
「ええ。沙英ちゃんが依存しないといいんだけど……」
二人は沙英と友にある信頼関係を微笑ましく思う反面、それが強くなりすぎて依存しあう関係にならないか懸念している。
「……私情はここまでですね」
「……だね」
二人がそう言うと、ピリピリとした雰囲気が車内に漂い始める。
「被害者は今のところ何人ですか?」
「現在、二人確認されているわ」
桜田は鞄から何枚かの資料を取り出した。グリップでまとめられ、写真も何枚か挟まれている。
「被害者の写真、見せてもらいます」
「どうぞ」
桜田は言われた通り、資料を刑部に手渡した。彼は資料をパラパラとめくり、一枚の写真に目を止めた。
「……これは」
「そうよ。これだけは何があってもあの子に知らせるわけにはいかないわ」
「同意です。上が本気で情報統制を敷いている理由は、これですか?」
写真に写っているのは惨殺された少女の姿だった。服を剥かれ、全身にこれでもかというほど深い傷を刻み込まれている。彼女の苦悶の表情にゆがんだ顔は、その苦痛がいかに激しかったかを物語っている。
「それだけじゃないけど……さすがに、この事件はお茶の間には流せないでしょう、ってことらしいわ。……いつかは、ニュースになるでしょうけど」
「……しかし、奴の執念がこれほどとは。沙英さんの護衛、なんとかなりませんか?」
「だめよ。明確な証拠がないと」
そして、写真の少女は沙英そっくりであった。体格も似通っていて、聞き込みをした限り性格も沙英と同じように明るく快活だった。
「……これだけで、立証になりませんか?」
「これの犯人が嘉蓋であるという確証がない以上……無理よ」
「……そうですか」
刑部は再び資料をめくりはじめる。
「……沙英さんには何の関係もない少女ですね。つまり、ただの身代わり……ですか」
「そうみたいね」
資料を一通り読み終わると、刑部はそれを桜田に返した。
「どうも。……犯人はやはり」
「嘉蓋……でしょうね。証拠はないけど。……居場所さえ掴めれば……」
神出鬼没の殺人鬼、嘉蓋 栄。彼が最初の殺人を犯したのは十年前。殺害方法は筆舌にしがたいほど残酷で、動機もなかった。すぐに被疑者に挙げられたが、今まで捕らえられることはなかった。なぜなら、彼は住所不特定で、常にあちらこちらへと移動を繰り返していたのだ。指名手配もされたが、わずかな情報しか入ってこず、今の今までてがかりさえ、掴めなかった。
「もし掴めても、沙英ちゃんの時みたいにまた逃げられる可能性もあります」
「……わかってる」
嘉蓋を捕まえるチャンスは、十年間通して沙英の事件のみであった。犯罪史上に残るほどの猟奇殺人鬼を捕らえるチャンスを作った……そういう意味でも、沙英は『奇跡の少女』だった。
「……沙英ちゃん、大丈夫かな」
「それは私にはわかりません。嘉蓋を捕まえたとしても……彼女の傷が癒えるとは言えません」
刑部は厳しい顔で言った。
「……わかってる。それぐらい、わかってる」
「なら、いいのです。では捜査に向かいましょうか桜田巡査長」
「……了解しました刑部警部」
刑部は桜田の返事に頷くと、エンジンをかけ、アクセルを踏んだ。
「これからは本格的に仕事です。わかりましたか?」
「はい、刑部警部。ところで、どこを捜査するのですか?」
「事件のあった現場と、それから沙英さんが捕らえられていた家です」
「……わかりました」
刑部と桜田。この二人は警察署内でも一二を争う問題児であった。
上司に敬語を使わない巡査長、桜田 桂香。
桜田が敬語を使わなくなった原因でもあり、誰にでも敬語を使う警部、刑部 敬二。桜田が新任してきた頃より常にパートナーとして一緒に行動しており、そのせいで桜田は刑部の影響を色濃く受けている。
刑部曰く、仕事以外の時は敬語を使うな。曰く、自分より偉そうに振る舞え。曰く、常に市民のためにあれ。
それらを忠実に守っているからこそ桜田は今も刑部の隣にいるのであり、そのせいで彼女は刑部以外の下につけなくなってしまった。
「……ラジオでも、つけますか?」
「あ、お願いします」
部下を自分色に染めたり、一人の部下とずっと一緒に仕事をしたり……こんな自由が許されるのも、刑部がさる人間と懇意であるからにほかならない。桜田が捜査の時以外は敬語を使わなくてもいいのも、刑部が多少無茶をしてもクビにならないのも、全てはそのおかげである。
『……お昼のニュースをお伝えします。__県__市で、十七歳の少女が遺体になって発見されました。警察はこの件については、ここ最近起こっている連続誘拐殺人の犯人と同一であると発表しました。この事件は同県に住む同じ十七歳の少女が無傷で生還したことでも__』
「なっ……っ!?」
刑部は思わずラジオを消してしまった。
「お、刑部警部、これ、もしかして……」
「あ、ああ、そうです。我々が今から捜査する事件です! ……なぜ、このことがマスコミに……」
刑部はアクセルを踏みながら、憤るしかできなかった。何かしなければならないのはわかっているのだが、何をすればいいのかわからない。今は少しでも情報を得ようと、一度は消したラジオを再びつける。
『……ここに、テープがあります。……その、犯人を名乗る人物から送り届けられたものです』
二人はまた絶句した。
「お、刑部さん!? か、彼ら正気ですかっ!?」
「そんなの私が知るはずないでしょう!? 早くラジオ……いえ、テレビ局にいかなければ! 影響力はテレビの方が強いですから!」
刑部は思い切りアクセルを踏み込んだ。車の上部に設置された回転灯を灯火、サイレンを鳴らす。ごく普通の乗用車に見えて、その実は覆面パトカーだったのだ。
「急ぎましょう!」
「で、でも、上にはなんて……」
「証拠品の押収! それで話が付きます!」
「でも」
「犯人がもし沙英さんの殺害予告を名指しでしたらどうなると思ってるんですかっ!? そうじゃなくても、被害者の悲鳴が 録音されている可能性もあるんですよッ!?」
しぶろうとする桜田を、刑部が怒鳴って黙らせる。
「始末書が怖いなら全て私のせいにしなさい! 私が全ての責任を追いましょう! だから、黙ってついてきてください!」
「……はい」
いっそうアクセルペダルを強く踏み、二人を乗せたパトカーはテレビ局への道を爆走する。