第九話
車内はなんとも言えない沈黙に包まれていた。誰も、会話の糸口をつかむことができない。
「……桜田さん、そろそろいいのではないでしょうか?」
おもむろに、刑部が口を開いた。
「……でも、まだ」
「気持ちはわかります、桜田さん。けれど、これも職務です」
優しげな刑部にしては強い口調で言い切る。
「……わかったわ」
神妙に頷くと、桜田は胸ポケットから、一枚の写真を取り出し、隣に座る二人に見せた。
「……!」
二人は動揺を隠す間もなかった。
「……あなたたち、この子を知ってる? って訊きたかったんだけど……訊くまでもなかったみたいね」
写真には、一人の少年が写っていた。視線はあさっての方向を向いていて、隠し撮りされたものだということがわかる。
「こ、こ、この人が、何か……?」
写真の少年は、先ほど沙英達が会っていた人間……シャムだった。
「この子が誰か、知ってる?」
沙英は首を振る。
「しゃ、シャム、っていう名前しか……」
「……そうなの。この子は嘉蓋 紗武といって……」
「え?」
嘉蓋? 沙英は心の中で繰り返す。どうして犯人さんの名前が、こんなところで出てくるの? 沙英は恩人と犯人の苗字が同じであるということを繋げることができなかった。いや、したくなかったのだ。
「知り合い?」
「い、いえ。そ、それより、一体どうして、犯人さ……犯人の名前が出てくるんですか?」
話をそらすつもりで、沙英は訊く。
「……。彼は今指名手配中の連続殺人犯、嘉蓋 栄の息子なの」
「……え? う、うそ……」
もう一度、彼女は聞き返した。信じられない、とでもいうように首を振る。
「……それで? 桜田さん、なんでシャムのこと探してるの?」
固まっている沙英に代わり、友が訊いた。
「……あまり、事件に巻き込まれたあなたがいる前で言いたくないんだけど……」
「犯人がこの付近に潜伏している可能性があります」
桜田が躊躇っていると、刑部が横から信じられないような事実を二人に伝えた。
今度こそ、沙英は凍りついた。
目に光がなくなり、どこか虚ろになる。
「……沙英、沙英?」
友が揺さぶるが、沙英はまるで反応しない。まるで人形にでもなったようだ。声も届いていないかもしれない。
「……友さん、この際だから言っておくわ。嘉蓋被疑者は、再び沙英さんを狙っているかもしれないの」
「そんな……」
友は沙英を揺さぶる手を止めて、桜田がいる助手席を見る。
「沙英さんから何か聞いてない? 見張られてるとか、つけられてるとか」
「そういうのは……聞いていません」
「そう……」
少し安心したように、桜田は言った。
「本人が気付いていないだけですから、桜田さん、油断しないように」
「……はい」
胸を撫で下ろした桜田に、刑部が釘を刺す。
「……お嬢さん、あなたもゆめゆめ油断しないように」
「わかりました」
友は念を押すような刑部の忠告に素直に頷く。
「……あの人が、この近くに?」
会話が途切れた頃、沙英が茫然自失のまま呟いた。
「沙英、大丈夫?」
「……友」
沙英はゆっくりと友の方を向き、不安そうな友の姿を見つけると、おもむろに抱きついた。
「さ、沙英」
「……怖いよ、友」
沙英の声は震えていた。
「私の思い込みかもしれないけど、怖いよ。また攫われるんじゃないかって、思っちゃうよ。助けて、友……」
「さ、沙英……」
友はそれ以上何も言えなかった。沙英を助ける方法が、少しも思い浮かばなかったのだ。
助けると豪語しておきながら、親友のために何もしてやれない自分を、友は呪った。
「……沙英さん、着きましたよ」
何を言うべきか友が迷っていると、車の振動が止まった。窓の外を見ると、もう見慣れた沙英の家があった。
「……さ、行こ、沙英」
友は車のドアを開け、沙英を促す。
「……帰りたくない」
しかし、沙英は友に抱きついたまま離れようとしない。
「そんなこと言われても……」
「友の家に行きたい。今、家に帰りたくない。怖い」
ぎゅう、と友に抱きつく力が強くなった。それでも、友には簡単にふりほどけるのだが、彼女はそれをしない。
「……刑部さん」
「はいはい。お嬢さんの家ですね。わかりましたよ」
刑部は得心したふうに頷くと、再びエンジンをかけた。
「えっと、私の家は……」
「知っていますから、大丈夫ですよ」
「……はい?」
友は思わず聞き返した。友は刑部に自宅を教えていない。それなのに、刑部は知っていると言った。
「諸事情あるのですよ」
沙英を攫った犯人が、沙英の関係者である可能性を考慮し、友の家を調べたのだが……それを刑部と桜田が伝えるわけがなかった。
「……」
訝しげな表情をしたまま、友は震える沙英を抱きしめ続けた。




