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プロローグ

  どうして?  どうしてこんなことになったの?  

  後ろ手に縛られ、猿轡をかまされた十五歳の少女は、この三日間幾度となく繰り返した疑問を浮かべた。それは答えのない疑問だったが、彼女はそれを考えずにはいられなかった。

 なにがいけなかったの?  友達と放課後まで遊んでいたせい?  それとも、テストの点数が悪かったから?  それとも、私がこんな性格だから? 

  とりとめもないことから、自身の性格まで、ありとあらゆる原因を探ってみたが、彼女の中に攫われても仕方ない、と思えるような原因は見つからなかった。こんなことになった直接の原因となる記憶を、彼女はまた思い出す。

 いつものように友達と楽しい学校を終え、放課後。陸上部のクラブが終わり、体操服のまま家に帰っている最中、帽子を目深にかぶった男にいきなり襲われ、気がついたらここだった。思い出すのは友達とかわした会話、クラブで走った時の高揚感、そして、攫われるときの際限のない恐怖と、緊張。

 「……はあ」

 小さく息を吐き、枷を嵌められた足を引きずるようにして視界に入れる。枷には鎖が繋がれ、その先は壁に埋まっていた。少女の力では、どう頑張っても外せそうにない。長さは扉に手が届くぎりぎりになっており、犯人のいやらしさが見て取れた。希望を見つけようと、部屋を見回す。扉には鍵の類は一切なく、三日前に結論付けたと同じく、自分が囚われている以外はごく普通の部屋だということを再確認した。

  「……」

  この三日、少女を攫った犯人は食事、排泄の時以外は一切関わってこようとはしなかった。だからといって恐怖が薄れるかと言えばそんなことはなく、どころかじわじわと、得体のしれない恐怖が全身を少しづつ蝕んでいく。自分は何をやらされるのだろう。もしかしたら、売られるのだろうか。それとも自分が壊れるまでこのまま放っておかれるのだろうか。このまま七年間閉じ込められ続けて、社会的に死んだことになった瞬間、好き勝手されたあげくに殺されるのだろうか。そんな暗い想像が何度も頭の中に浮かんでは消えていく。

  いっそのこと殺すなりなんなりしてくれれば、こんなこと考えるのもなくなるのに……。

  この数時間、少女はそんなことばかりを考えていた。こんな思いをするくらいなら、死んだ方がいい。殺されたいわけではない。けれど、怖い思いをし続けるのは、殺されるよりも嫌だった。

  「やあ、日割ひわりちゃん」

  「!」

  低いダミ声が聞こえて、初老の男性が部屋に入ってくる。その瞬間は覚えていないが、少女……日割  沙英さえを攫った犯人に違いなかった。男は沙英の猿轡を外すと、優しげに微笑んだ。

  「大丈夫?  痛いところはない?」

  「え、あ、あの」

  「ごめんね、三日もほったらかしにしといて」

  沙英は、本当にこの人が自分を攫った犯人だろうか、と思い始めていた。長い間極限状態にさらされ、限界などとうに超えている沙英は、その笑顔に潜められた底無しの悪意に全く気づかなかった。だから、優しく気遣うような声に騙され、救いを求めるように訊いてしまった。

  「あ、あの、どうして私、ここに、いるんですか?」

  「覚えてないの?」

  沙英は頷いた。

  「そうなんだ。じゃあ、教えてあげるよ。三日もほったらかししてた理由も一緒にね」

  男は懐から携帯電話を取り出すと、何度かボタンを押して、それから画面を沙英に向けた。

  「……っ!」

  「ふふふ、いい顔だね~。あ、そう言えば名乗ってなかったね。  僕はかがい。嘉蓋  さかえ。ふふふ、ずっと調べてたからね、手間取っちゃって」

  その画面に映っているのは、赤とピンク、そして肌色。顔には、いろんな感情が煮詰まりすぎて何の色も示さなくなった表情が貼り付けらたように浮かんでいた。ここは犯人の目の前、少しでも犯人に不快な感情を与えたら、たちまち自分は殺されてしまう。そう思った沙英は、こみあげてきた吐き気を必死でこらえる。

  「大丈夫だよ、これからはちゃんと、遊んであげるからね」

  画面に映っているは、惨殺死体だった。男がこうして自分にこんなものを見せるのは、自分をこうするという予告なのだろうか。沙英はそんな想像を逃避のように考える。

  「頑張って調べたんだよ? どんなことをすれば痛いかとか、気絶することなく、苦痛にさいなまれるような痛めつけ方、とかね。まずは指からだね。まず爪の先を爪切りで少しづつ切っていこう。血が出ても、肉を切ってもやめないからね。骨が見えるあたりまでパチパチやろうかな」

  「そ、そんな」

  「全部切り終わったら、こんどは足だね。足は手と違ってなくても大丈夫だから、全部すり潰しちゃおう。わざわざこのためにミキサー買ったんだ。業務用のすごく大っきなやつ。ジュースみたいになってると思うから、飲む? 自分の肉」

  「い、いや、やめて」

  「足が終わったら、今度は……」

  そこから先は、もはや沙英の耳に入っていなかった。ただ、彼女の心にあるのは、そんなことされるぐらいだったら早く死にたい、という思いだった。

  「あ、あの、いつ、ですか?」

 もうこれ以上聞くに堪えなくなった沙英は、話題を変えようとして訊いてしまう。

  「ん~?」

  「いつ、私はそれをされるのですか?」

  「そうだね、君も乗り気みたいだし、今からしよっか」

  びくりと、沙英は肩を跳ねさせた。男は立ち上がり、部屋を出ようとする。

  「道具を取ってくるよ。楽しみにしててね」

  嬉しそうにそう言うと、男は部屋を出ていった。止める暇もなかったし、止めても待ってくれたかどうかも、わからない。

  「……や、嫌」

  怯えた瞳を床に向けたまま、沙英は呟いた。だんだん、心が冷え込んでくるような感覚を沙英は味わう。彼女の心は何も感じなくなっていく。恐怖も、怒りも悲しみも、何も感じない。あまりにもそれらの感情が強すぎて、感じることを心が拒否したのだ。

  「……おとーさん、おかーさん……」

  二年前に死んだ両親との思い出を走馬灯のように思い出す。思い出す度にあったはずの感動や郷愁の気持ちも今はなく、それらがなくなったことにさえ、何も思わない。

  「……さよなら」

  沙英は口を開け、舌を大きく突き出す。

 このまま舌を噛み切れば、死ねるだろう。そんな話をどこかで聞いたことがある。苦しいかもしれない。だけど、あの男に与えられる苦しみや痛みに比べたら、ずっと楽なはずだ。

 死にたくない。わかってる。生きていたい。わかってる。助かりたい。わかってる。

 でも、今はそんなことよりも、あの男が戻って来るまでに死なないと、私は……。

  そんな焦りが、沙英の心を支配する。早く死ななきゃ、早く死ななきゃ。心は何も感じていないはずなのに、彼女は死ぬ事ができなかった。

  「……ああ……」

  扉が開いて、沙英はタイムリミットが来たのだと悟った。自分は決断しきれなかったのだ。その代償は、今まで経験したことも想像したこともない、苦痛。嫌だ。そう思っても、もう遅い。あと私に残された救いは、狂うか死ぬかの二つに一つ。

  「大丈夫?」

  そう諦めた沙英だったが、部屋に入って来たのは人の良さそうな、沙英と同じぐらいの年齢に見える少年だった。彼は沙英のそばまで寄ると、話もせずに、手足の枷を外して、沙英を自由にした。

  「早く逃げて。急がないと殺されてしまうよ」

  「え、で、でも」

  もしかしたら、これは罠ではないだろうか。ここで逃げるそぶりを見せたら、もっともっと残酷な目に遭わされるのでは。そんな疑惑が頭をよぎり、一瞬で沙英の全てを支配した。

  「い、嫌!  私はここにいるの!  だから、早く出ていって!」

  もう命は諦めた。だから、できるだけ痛くないように、苦しくないよう頑張らないと。もう沙英の中に助かるという選択肢は、消えてしまっていた。

  「外に出てみて。警察がいるから、急いで外に出れば、助けてくれる」

  「う、嘘!  だったら、なんでサイレンの音がしないのよ!」

  「……犯人が、切らせたんだ。だから、早く逃げて」

  「い、嫌」

  もう生きる望みを完全になくした沙英の心は、少年の瞳に嘘を言っているような色がないということも、気付けない。

  「……ああ、もう」

  「きゃっ、嫌っ!  離してッ!」

  急に手を引っ張られ、パニック状態になった沙英を無視して、少年は沙英を部屋の外に連れ出す。部屋の外はごく普通の家屋で、玄関まではすぐに辿り着けた。

  「早く、出るんだ」

  「で、でも」

  「ああ、もうっ! 悠長にしてられないって言ってるよね!」

  彼は乱雑に玄関の戸を開け放つと、沙英を外に突き飛ばした。三日間身動きをしていなかった彼女は、受け身も取れずにこけてしまう。

  「君!  大丈夫か!?」

  青い服を来た誰かが、倒れた沙英を優しく起こした。何が起こったのかわからず、抱き起こされると沙英は飛び跳ねるようにしてその誰かから距離をとった。

  「あ、あなたは、誰?」

  「私は警察の人間だ」

  その誰かは懐から警察手帳を沙英に見せると、腰の無線機に手を伸ばした。それでも、まだ沙英の頭は目の前にいる人間が自分をさらった犯人の仲間かそうでないのかを一生懸命判断しようとしていた。

  「こちら桜田!  被害者の少女を保護!  今奴の家には誰もいない、確保急げ!」

  沙英はそこまで聞いて初めて、自分は助かるんじゃないのか、と思い始めた。周りを見渡すと、白黒の車が何台も沙英のいた家を取り囲み、たくさんの青服の人間が、沙英を心配そうに見ている。

  「……大丈夫、君は助かったんだ。辛かったね」

  目の前の青服の誰かに優しく抱きとめられ、沙英はその誰かが女性であることを初めて知る。

  「……え、あ、え?」

  目の前にいる青服の人間……沙英はここで彼らを警察の人だ、と認識できた。沙英は自分を抱きしめる女性警官と、自分を助けてくれた少年に向けて、小さくお礼を言った。

 「……あ、ありが、と……」

  「き、君!?」

  助かった、と安心したとたん、沙英は例えようもなく強力な睡魔に襲われ、彼女はそれに抵抗しなかった。安心して意識を失う、ということが今はとても貴重で尊いもののように沙英には感じれた。意識が遠のき、救急車を呼ぶ声が聞こえる。

 ……あの人、誰だろう……?

 沙英は、攫われた家で、人のよさそうな笑みを向けてくれた少年の顔を思い浮かべながら意識を失った。

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