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「引き受けない日が続く街」  作者: 科上悠羽


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第一話(たぶん):空席が増えただけ

入口がうるさい日、というのがある。


扉そのものが騒がしいわけじゃない。木はいつも通り、きしむ。鈴もいつも通り、鳴る。音の粒が変に跳ねる日があるのだ。誰かが来る前から、来たあとみたいな顔をしている日。


ぼくは石鳩亭の入口から一番遠い席に座って、湯気が天井でほどけていくのを見ていた。湯気は、ほどけるのが仕事だ。どこかに行くわけでもないのに、ちゃんと仕事をしている。


「今日は入口がうるさい」


ぼくが言うと、向かいに座っていたミレイが「うん」とだけ返した。返事が短いのは、疲れているからじゃない。ミレイは短く返すのが上手い。短い返事は、相手に続きを強要しない。


石鳩亭の作法は、質問より先に湯が出る。


ぼくたちがここに来たときもそうだったし、常連が来たときもそうだ。困っている人が来たときは、とくにそう。困っていることを言わせない工夫が、いつのまにか工夫ではなくなって、ただの暮らしの形になっている。


湯呑みの底が、机に小さな輪を残す。輪はすぐ乾いて消える。消えるから安心して、残せる。


入口の鈴が鳴った。


いつも通りの音なのに、今日は粒が尖って聞こえた。尖る音は、胸のどこかに刺さって、刺さったまま抜けない。抜けないなら、刺さったままにするしかない。抜くと血が出るときもある。


新しい人が入ってきた。背の高さは普通で、歩き方も普通で、服も普通。普通の人ほど、普通じゃない温度を持っていることがある。


目が、忙しい。


何かを探している目じゃない。何かを、責める場所を探している目だ。責める場所が見つかったら、次は責める言葉を探す。言葉が見つかったら、次は責める順番を探す。


順番の話になってしまう。


ぼくは椅子を一脚、机から少し離した。誰も座らなくていい空席。座ってもいいけど、座らなくてもいい空席。空席は、空席のままでも役に立つ。空白は空白のままでも仕事をする。ぼくの仕事は、空白に仕事を与えることだ。


新しい人が、入口で足を止めた。


石鳩亭の人が、湯を置いた。


「……え」


新しい人の口が、何かを言いたい形で開いて、でも言葉にならなかった。「え」は言葉の形だけど、意味が薄いから安全だ。意味が薄い言葉は、温度を上げない。


湯気が鼻先をかすめた瞬間、新しい人の肩がほんの少し落ちた。落ちたから安心、ではない。でも落ちないよりいい。落ちる場所があるのはいい。


「座り」


石鳩亭の人が言ったのは、それだけだった。歓迎でも命令でもない、ただの位置の提案。座る場所があると、人は立ったまま裁かなくて済む。


新しい人が、ぼくが作った空席を見た。見たけど、そこには座らなかった。空席が空席のままでいることを、許した。それだけで今日は十分だ。


フィオが、壁際の席からこちらを見ていた。視線は鋭いのに、刺さらない。刃物を使わないで止める目だ。


フィオは止めるのが上手い。止めるのが上手い人は、止める前に止まっている。先に止まっているから、相手も止まれる。


新しい人が、湯呑みを持った。持って、口元に運んだ。飲む前に、視線がぐるりと店内をなぞった。責める場所を探す目が、また動き出した。


「つまり……」


言いかけた。


言いかけたところで、フィオが言った。


「今は、そこじゃない」


声は大きくない。大きくないのに、店の中の空気がひとつだけ、止まった。止まった空気だけが落ち着いて、ほかの空気はそのまま動き続けた。止めるのは全部じゃなくていい。危ないところだけ止めればいい。


「……」


新しい人は、言葉を飲み込んだ。飲み込むのは苦しい。けど、吐き出してしまうよりも、苦しいままの方が安全なときがある。吐き出した言葉は、戻らない。


湯が、飲まれた。


飲まれた湯は、誰も救わない。けれど、飲まれた湯は、誰も壊さない。壊さないというのは、すごいことだ。世の中は壊す方が得意だ。


ミレイが立ち上がった。立ち上がる音が静かで、ぼくはいつも感心する。椅子は引かれるときに鳴くのに、ミレイが引くと鳴かない。鳴かない椅子は、椅子の方が協力しているのかもしれない。


ミレイは新しい人の前に、何かを置いた。小さな布。布はただの布だけど、布のある場所は「置いていい場所」になる。置いていい場所があると、人は置ける。置けると、人は抱え続けなくていい。


「ここ」


ミレイはそれだけ言った。


新しい人は、布を見た。何を置くのか分からないまま、布の上に湯呑みを置いた。湯呑みの底が布に沈んで、机に輪を残さなくなる。輪が残らないのは、残さない工夫だ。残すべきものと残さなくていいものがある。街はそれを、説明せずに分ける。


店の端の方から、妙に軽い声がした。


「え、これ第一話なの? たぶんって何? たぶんって、こわ」


リーナちゃんがいた。


いた、というか、いるときがある。リーナちゃんは、たまにここに現れて、場の温度を変な方向に曲げる。曲げるけど、折らない。折らないまま曲げるのがいちばん厄介で、いちばん助かる。


リーナちゃんは腰ひもの先を、荒く、ゆっくり、くるくるした。赤い差し色が、湯気の白に混ざって目立つ。目立つのに、話題にならない。話題にしないという技術が、この街にはある。


「……ふぅ……ゆっくりでいい」


リーナちゃんは自分に言ったのか、湯に言ったのか、ぼくには分からなかった。分からないままのものが多いほど、街は街になる。分かったら裁いてしまうからだ。


新しい人はリーナちゃんを見て、眉をひそめた。ひそめた眉は、責める眉に似ている。似ているけど、まだ責めていない。まだのうちは、止められる。


「いまさ、ここで正しさを言ったら、湯が逃げるよ?」


リーナちゃんが言った。意味が分からない。分からないけど、湯が逃げるという言い方は、妙に効く。正しさは熱い。熱いと湯気が増える。増えすぎる湯気は、目を曇らせる。


新しい人は口を開けた。閉じた。


それで、今日は一歩も進まないまま、一歩ぶん戻れた。


ぼくは空席をもう一脚、増やした。増やしただけだ。増やすだけで店内の流れが変わる。空席は、椅子の数じゃなくて、逃げ道の数だ。


湯をおかわりする音がした。誰かが笑った。笑いは大きくない。大きくない笑いは、場を壊さない。


そのとき、ぼくは気づかなかった。気づくべきものは、気づかない場所にある。


ミレイが湯呑みを持ち上げた。湯呑みの底が布から離れて、机に小さな輪を残す。輪の真ん中に、紙が一枚、ぺたりと貼りついていた。


紙端に、小さな折り目。


角ばった、小さい字。


HELP:起きてる?


ぼくは文字を見た。見たけど、意味を追わなかった。追うと、追いついてしまう。追いつくと、話が進む。今日は進ませない日だ。進ませないのは怠けじゃなくて、技術だ。


ミレイは、その紙をつまんだ。文字の面を上にしない。読む前に、折り目だけをそっと直した。直して、湯呑みの下ではなく、湯呑みの横に置いた。まるで「ここにある」だけで足りるものみたいに。


ミレイの指先は、折り目の角をほどいて、元の角に戻していく。ほどくのが先。直すのは後。治すのはもっと後。街の合言葉が、いま、指先だけで実行されている。


フィオは、その紙に視線を落として、すぐに上げた。止めない。止めるほどの温度じゃない。温度が上がっていないなら、止める必要はない。止めるは乱発しない方が強い。


リーナちゃんが紙をのぞきこんで、ふふっと笑った。


「起きてるって、湯がね。起きてるよね。ずっと起きてる。寝てくれない」


誰も返事をしない。返事がいらない席もあるし、返事がいらない紙もある。返事を求めないことが、いちばんの保留だ。


新しい人が、その紙を見た。見たけど、手を伸ばさなかった。伸ばしたら触ってしまう。触ると開けてしまう気がする。開けると、また正しさの方向に引っ張られる。


「それ……誰の」


新しい人が、そう言いかけた。


フィオが止めるより先に、ミレイが言った。


「いまは、置く」


短い。短い言葉は、場に余白を残す。余白は空席と同じだ。余白があると、言葉は暴れない。


新しい人は、湯呑みを持った。湯を飲んだ。飲んでから、ぽつりと言った。


「……こういうの、初めてだ」


何が初めてなのかは分からない。分からないまま、店内の温度が少し落ちる。落ちた温度は、床にたまる。床にたまった温度は、靴で踏まれて、外に持ち出される。街は、そうやって火を外に持ち出さない。


夜が近づくと、石鳩亭は少しだけ忙しくなる。忙しいけど騒がしくない。忙しさは湯気に溶ける。湯気は忙しさをほどくのが得意だ。


ミレイが布をたたむ。紙を布の間に挟む。挟むけど、隠さない。隠さないけど、見せない。見せないけど、消さない。


ぼくは空席を確認した。空席がある。あるだけで、安心する。安心は、理由がなくてもいい。


リーナちゃんが立ち上がって、入口の方を見た。出ていくのかと思ったら、出ていかない。行きそうで行かない。行かないまま腰ひもの先をくるくるして、ため息を吸い込んだ。


「……今日、進んでないのに、進んだ気がする」


意味が分からない。分からないけど、たぶん正しい。正しい、という言葉を使うと危ないから、ぼくは心の中で「いいや」と言った。いいや、は街の安全な肯定だ。


新しい人が立ち上がった。立ち上がるとき、責める目じゃなくて、迷子の目になっていた。迷子の目は、責める目より救いやすい。救わないけど、迷子の目は、座り直せる。


「明日……来てもいい?」


新しい人が言った。正しさじゃない言葉だ。予定の言葉だ。予定は、朝に強い。


石鳩亭の人は笑いもしないで、湯を足した。


「空いてるよ」


それだけ。


ぼくは空席を一脚、残したままにした。空席が増えただけ。それだけの第一話。たぶん。


リーナちゃんが、最後にメニュー板の方を指さして、勝手に一行付け足すみたいな顔をした。


「明日も湯はある」


誰もそれを読み上げない。読み上げないから、胸の奥に沈む。沈んだ言葉は、簡単には出てこない。出てこないから、長持ちする。


湯気が天井でほどける。


ほどけても、消えない。


明日も湯はある。

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