第4話 噂と誤解
朝の教室は、いつもより騒がしかった。
誰かの笑い声が少し大きく、ひそひそとした囁きがやけに耳に残る。桐谷陽斗は自分の席に座りながら、その空気に違和感を覚えていた。
「なあ桐谷」
佐野が、妙に含みのある声で話しかけてくる。
「お前さ……篠宮さんと仲いいよな?」
心臓が、ひとつ強く跳ねた。
「え?」
「昼休みも一緒だし、放課後も見かけるし。結構有名だぞ、今」
有名。
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「そんな……大したことじゃない」
「いやいや、みんなそうは思ってない」
佐野は肩をすくめる。
「『二人、付き合ってるらしい』って噂、もう出てる」
頭の中が、真っ白になった。
「……え?」
「まあ、噂だよ噂。でも、透花ちゃん人気あるからさ」
陽斗はそれ以上、言葉を返せなかった。
付き合っている。
そんな事実は、どこにもない。
なのに、誰かの勝手な想像が、いつの間にか形を持って広がっている。
そのことが、怖かった。
◇
昼休み。
いつものように中庭へ向かおうとして、陽斗は足を止めた。
もし、今透花と一緒にいるところを見られたら。
噂が、さらに大きくなるかもしれない。
そんな考えが、頭をよぎる。
結局、彼は中庭へ行かなかった。
教室で一人、弁当を広げる。
笑い声の向こう側で、時間だけが過ぎていった。
一方その頃、透花は中庭で一人、ベンチに座っていた。
陽斗が来ないことに、何度も時計を見る。
(……忙しいのかな)
そう思おうとしても、胸の奥が少しだけ冷える。
◇
放課後。
図書室へ向かう足取りも、重かった。
いつもの席には、透花はいなかった。
代わりに、机の上に一枚の付箋が置かれている。
『先に帰ります。
また、明日』
短い文字。
けれど、その文字がいつもより遠く感じた。
◇
翌日。
廊下ですれ違った透花は、陽斗に気づいて小さく会釈をした。
それだけだった。
以前のように話しかけてこない。
陽斗の胸が、きゅっと締めつけられる。
(……避けられてる?)
理由が分からないまま、距離だけが生まれていく。
昼休み、中庭には行かなかった。
図書室にも、足が向かなかった。
避けているのは、透花なのか。
それとも、自分なのか。
分からなくなっていた。
◇
その日の放課後。
陽斗は校舎裏の自販機の前で、足を止めた。
誰もいない場所。
少しだけ、気持ちを整理したかった。
「……桐谷くん」
背後から聞こえた声に、息が止まる。
振り向くと、そこに立っていたのは透花だった。
「篠宮さん……」
二人の間に、微妙な沈黙が落ちる。
風が吹き、木の葉が転がった。
「最近……来てくれませんでしたよね」
透花の声は、責めるようではなかった。
ただ、少し寂しそうだった。
「……すみません」
「どうして、ですか?」
答えに詰まる。
噂のことを、どう伝えればいいのか分からなかった。
「私、何かしましたか?」
その言葉に、胸が痛んだ。
「違います。篠宮さんは、何も……」
陽斗は一度、視線を落とす。
「……噂を、聞きました」
「噂?」
「僕たちが、付き合ってるって」
一瞬、透花の目が大きく開かれた。
「……そんな」
彼女は小さく息を呑む。
「私も、聞きました」
少し間を置いて、続けた。
「だから……桐谷くんが、迷惑だったのかなって」
胸が締めつけられる。
「違います」
思わず、強く否定していた。
「迷惑なんかじゃないです」
透花は驚いたように見つめてくる。
「ただ……周りに見られるのが、怖くて」
自分の弱さを、言葉にしてしまった。
「噂が広がって、篠宮さんに迷惑がかかるのが……」
透花はしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「私、迷惑だなんて思ってません」
まっすぐな声だった。
「むしろ……来てくれなくなったほうが、寂しかった」
その一言が、胸の奥に深く刺さる。
「ごめんなさい」
陽斗は、頭を下げた。
「勝手に距離を置いて……」
透花は少し困ったように笑う。
「噂って、怖いですね」
「……はい」
「でも、話してくれてよかった」
彼女は小さく息を吸い、言った。
「また、前みたいに……話してもいいですか?」
陽斗は、迷わず頷いた。
「もちろんです」
夕暮れの空が、二人を包む。
完全に元通りではない。
でも、壊れかけたものを、ちゃんと見つめ直せた気がした。
噂は消えないかもしれない。
それでも、誤解は解けた。
ほんの少し、強くなれた気がした。
◇
その帰り道。
空は、淡い紫色に染まっていた。
並んで歩く二人の距離は、以前よりほんの少し近い。
まだ不安は残る。
でも、同じ方向を向いている。
それだけで、今は十分だった。
⸻
第4話 完




