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第3話 初めての距離

 放課後のチャイムが鳴ると、校舎はゆっくりと色を変えていく。


 夕日が窓ガラスに反射し、教室の床に長い影を落とす。その光景を見ながら、桐谷陽斗は鞄を肩にかけた。


 最近、放課後が少しだけ楽しみになっていた。


 理由は分かっている。


 図書室。


 そして、篠宮透花。


 あの日から、二人は週に何度か一緒に課題をするようになっていた。

 決まった約束はなく、どちらかが先に来ていれば、自然と隣に座る。


 その関係が、心地よかった。


 恋人でもない。

 友達と呼ぶには、少しだけ近い。


 その曖昧さが、胸を静かに揺らしていた。


 ◇


 図書室の奥。


 窓際の席には、すでに透花の姿があった。


 机の上にはノートとペン。

 そして、二つ分のスペースが空けられている。


「こんにちは」


「こんにちは、桐谷くん」


 彼女は顔を上げて、柔らかく笑った。


 その笑顔を見るだけで、胸の奥が少し明るくなる自分に、陽斗は気づいていた。


「今日は英語ですか?」


「はい。長文が全然頭に入らなくて」


「それ、分かります……」


 二人で小さく笑う。


 ページをめくる音が重なり、ペン先が紙をなぞる。


 ときどき目が合うと、どちらからともなく視線を逸らす。

 その繰り返しが、どこかくすぐったい。


「……あ」


 不意に、透花が小さく声を漏らした。


「どうしました?」


「消しゴム、落としちゃって」


 彼女の足元に転がる白い消しゴム。


 陽斗が拾おうと身をかがめた瞬間、同時に透花も手を伸ばしていた。


 指先が、触れた。


 ほんの一瞬。


 それだけなのに、時間が止まったみたいに感じた。


「……すみません」


 二人同時に言って、顔を見合わせる。


 透花は少し頬を赤くしながら、照れたように笑った。


「変ですね」


「……はい」


 指先に残る温度が、なかなか消えなかった。


 ◇


 その帰り道。


 校門を出たところで、透花が足を止めた。


「桐谷くん、駅まで同じですよね?」


「え、あ……はい」


「よかったら、一緒に帰りませんか?」


 胸が、少し強く脈打った。


「もちろん」


 二人並んで歩き出す。


 夕焼けに染まる道。

 部活帰りの生徒たちが、楽しそうに通り過ぎていく。


「……一緒に帰るの、初めてですね」


 透花が言った。


「そうですね」


「なんだか、不思議です」


 彼女は空を見上げる。


「昼休みや図書室では話してるのに、帰り道だと景色が違って見えて」


 陽斗も同じ空を見る。


「分かります」


 言葉が自然に出た。


「学校の外だと……少し、近く感じます」


 言ったあとで、心臓が跳ねた。


 近く感じる。


 それは、言い過ぎだったかもしれない。


 だが透花は否定しなかった。


 少しだけ歩幅を合わせてくる。


「……私も」


 その一言が、胸の奥に静かに広がった。


 ◇


 駅前に近づくと、人通りが増えてきた。


 信号待ちの間、二人は並んで立つ。


 沈黙。


 でも、嫌な沈黙ではなかった。


「……あの」


 透花が、少しだけ声を落とす。


「桐谷くんって、どうしてあまり話さないんですか?」


 突然の質問に、陽斗は少し戸惑った。


「えっと……」


 少し考えてから、正直に答える。


「話したいことはあるんです。でも、どう言えばいいか分からなくて」


「……うん」


「だから、黙ってしまうことが多くて」


 透花はじっと聞いていた。


「でも、篠宮さんとは……話しやすいです」


 言ってしまってから、心臓が強く鳴る。


 彼女は驚いたように目を見開き、それからゆっくり笑った。


「……それ、嬉しいです」


 信号が青に変わる。


 二人は並んで歩き出した。


 少しだけ距離が縮まった気がした。


 物理的な距離ではなく、心の距離が。


 ◇


 別れ際。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ」


「また……図書室、行きましょう」


「はい」


 透花は一歩下がって、小さく手を振った。


 その仕草が、胸に焼きつく。


 家に向かう途中、陽斗は自分の指先を見つめた。


 あのとき触れた温度。

 今も、残っている気がした。


 初めて、はっきりと思った。


 この気持ちは、ただの居心地の良さじゃない。


 名前のない感情が、少しずつ形を持ち始めている。


 まだ言葉にはできない。

 でも確かに、彼女の存在が日常に溶け込んでいた。


 夕暮れの空は、どこまでも静かで。


 その下で、二人の距離は、確かに一歩近づいていた。



第3話 完


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