第2話 放課後の秘密の場所
昼下がりの校舎は、どこか眠たそうだった。
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、教室の空気が一斉に緩む。窓から入り込む春の光が机の上を照らし、ノートの白が眩しく見えた。
桐谷陽斗は、黒板を見つめながらも、内容がほとんど頭に入っていなかった。
理由は分かっている。
篠宮透花。
あの日、階段で交わした短い会話が、何度も脳裏に浮かんでいた。
名前を呼んだわけでもない。
連絡先を交換したわけでもない。
ただ、少し笑い合っただけ。
それなのに、胸の奥に小さな余韻が残り続けている。
「……集中しろ」
自分にそう言い聞かせて、ペンを走らせた。
◇
昼休み。
購買で買ったパンを片手に、陽斗は中庭へ向かった。
教室より静かで、人も少ないこの場所が、彼のお気に入りだった。
ベンチに腰を下ろし、袋を開けたとき。
「……あ」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、花壇の近くに透花が立っていた。
白いカーディガンの袖を軽く握りながら、こちらを見ている。
「こんにちは、桐谷くん」
「こ、こんにちは」
声が少し裏返った。
彼女はそれに気づいたのか、くすっと小さく笑う。
「ここ、よく来るんですか?」
「えっと……人が少ないので」
「分かります。私も、ちょっと静かな場所が好きで」
そう言って、彼女は少しだけ近づいてきた。
「……隣、いいですか?」
「ど、どうぞ」
ベンチに並んで座る。
距離は拳一つ分ほど。
近いわけではないのに、妙に意識してしまう。
風が吹いて、花壇のチューリップが揺れた。
「桐谷くんって、いつも一人ですよね」
不意に言われ、陽斗は少しだけ肩をすくめた。
「嫌ですか?」
「いえ、そういう意味じゃなくて……」
透花は言葉を探すように視線を落とす。
「一人の時間、大事にしてる感じがして」
その言い方に、胸が少し軽くなった。
「……一人だと、落ち着くんです」
「分かります」
彼女は頷いた。
「私も、賑やかなのは嫌いじゃないけど……ずっとだと、疲れちゃって」
それは、初めて聞く彼女の本音だった。
陽斗は、自分が少しだけ“近づけた”気がして、胸の奥が温かくなる。
◇
それから数日。
昼休みになると、二人は自然と中庭で会うようになった。
約束したわけでもない。
ただ、なんとなく同じ時間に、同じ場所へ足が向く。
「今日の数学、難しくなかったですか?」
「正直、途中で置いていかれました」
「ですよね。私もです」
二人で小さく笑う。
誰かに見せるための笑顔ではなく、肩の力が抜けた笑い方。
陽斗は、その時間が好きだった。
クラスも違い、放課後も別々。
それでも、昼の短い時間だけは、同じ世界にいられる気がした。
ある日の放課後。
陽斗は図書室へ向かっていた。
課題の資料を探すためだ。
静かな室内で本を探していると、奥の席に見覚えのある後ろ姿を見つけた。
透花だった。
窓際の席で、ノートに何かを書き込んでいる。
声をかけようか迷っていると、彼女のほうが先に気づいた。
「あ……桐谷くん」
「こんにちは」
「課題ですか?」
「はい」
「よかったら……ここ、座ります?」
彼女の向かいの席を指差す。
図書室の奥。
人目につきにくい場所。
陽斗は小さく頷いて座った。
紙をめくる音と、ペンが走る音だけが聞こえる。
沈黙なのに、居心地がいい。
「……ここ、私の秘密の場所なんです」
透花が小さな声で言った。
「秘密?」
「はい。落ち着くんです。誰にも邪魔されない感じで」
そう言って微笑む。
「今は、桐谷くんと共有ですけど」
その言葉が、胸にそっと落ちた。
秘密を共有する。
それは、少しだけ特別な響きを持っていた。
◇
帰り際、図書室を出た廊下で、透花が立ち止まった。
「……あの」
「はい?」
「もしよかったら、また一緒に勉強しませんか?」
一瞬、言葉が出なかった。
けれど、迷う理由はなかった。
「ぜひ」
その答えに、透花は安心したように笑った。
夕方の窓から、橙色の光が差し込む。
二人の影が、廊下に並んで伸びていた。
まだ名前を呼び合うほど近くはない。
でも、確かに距離は縮まっている。
陽斗は思った。
この場所も、この時間も。
きっといつか、忘れられない記憶になる。
それが嬉しくて、少し怖かった。
恋と呼ぶには、まだ早い。
けれど、確実に何かが始まっていた。
⸻
第2話 完




