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番外編 プロポーズ前夜(大人編)

――これまでと、これからのあいだで


 夜の街は、静かだった。


 仕事終わりの人波が去り、駅前の灯りだけが淡く残っている。


 桐谷陽斗は、コートのポケットの中で小さな箱を確かめた。


 何度目かわからない。


 それでも、指先が自然とそこへ向かってしまう。


(……明日、か)


 胸の奥にあるのは、緊張よりも、深く静かな覚悟だった。


 ◇


 部屋に戻ると、窓の外に夜景が広がっていた。


 東京での社会人生活も、もう数年になる。


 忙しさに追われる日々。

 責任が増え、時間の流れは学生の頃よりずっと早くなった。


 それでも、毎日の終わりに透花の声を聞く時間だけは、変わらなかった。


 スマホが震える。


『おつかれさま。今日も遅かった?』


『うん。でも、大丈夫』


 短いやり取り。


 けれど、その中に安心がある。


 遠距離を越え、同じ街で暮らすようになってからも、二人は急がなかった。


 結婚という言葉は、何度も頭をよぎった。


 けれど、それを“次の予定”として扱いたくなかった。


 人生の区切りではなく、選択として伝えたかった。


 ◇


 翌日。


 休日の朝。


 透花は、いつもより少し早く目が覚めた。


 理由は、わかっている。


(……なんだか、落ち着かない)


 特別な日だと、言われたわけじゃない。


 それでも、胸の奥がざわついていた。


 何年も一緒にいれば、こういう予感は外れない。


 昼過ぎ、二人は待ち合わせた。


 昔よく歩いた川沿い。


 学生の頃より、街は少し変わった。

 でも、風の匂いは同じだった。


「久しぶりですね、ここ」


 透花が言う。


「そうですね。でも……戻ってきた感じがします」


 二人で歩き出す。


 会話は他愛ないものばかり。


 仕事の話、最近見た映画、夕飯の候補。


 それでも、どこか空気が違った。


 陽斗の言葉が、いつもより慎重で。

 透花の視線が、いつもより優しかった。


 ◇


 夕方。


 空がゆっくりと橙色に染まっていく。


 あのベンチは、まだそこにあった。


「……覚えてます?」


 透花が腰を下ろしながら言う。


「もちろんです。たくさん話して、たくさん黙った場所です」


「喧嘩もしました」


「はい。初めての」


 二人で小さく笑う。


 沈黙が訪れる。


 それは気まずさではなく、言葉を待つ時間だった。


 陽斗は、ゆっくりと息を吸った。


「透花さん」


 呼び方は、今も変わらない。


「……はい」


「僕たち、長い時間を一緒に過ごしてきました」


 声は落ち着いていた。


 不思議なほど、震えなかった。


「離れた時期も、すれ違った日もありました」


 透花は、黙って聞いている。


「それでも……何度も、あなたを選び直してきました」


 夕焼けが、彼女の横顔を染める。


「明日も、来年も、その先も」


 ポケットに手を入れる。


 小さな箱を取り出した。


 透花の呼吸が、わずかに止まる。


「僕は……あなたと生きていきたい」


 箱を開ける。


 指輪は、派手ではない。

 静かな光を宿していた。


「結婚してください」


 風が吹いた。


 葉が揺れ、遠くで電車の音が聞こえる。


 世界は何も変わらない。


 けれど、この瞬間だけ、時間がゆっくりになった。


 ◇


 透花の目から、涙が静かに溢れた。


「……ずるいです」


 震える声。


「そんな顔で言われたら……」


 彼女は笑いながら、泣いていた。


「断れるわけ、ないじゃないですか」


 陽斗の胸が、大きく息を吐いた。


「……はい」


「はい、じゃなくて」


 透花は指輪を見つめ、はっきりと言った。


「喜んで、お願いします」


 その言葉に、長い時間のすべてが報われた気がした。


 指輪をはめると、彼女の手が少し震えた。


 陽斗は、そっと包み込む。


 強く抱きしめることはしなかった。


 それでも、伝わる温度があった。


 ◇


 夜。


 二人は並んで歩いていた。


 空には、星が浮かんでいる。


「不思議ですね」


 透花が言う。


「恋人だった時間のほうが、ずっと長いのに」


「はい」


「今日で、また少し関係が変わった気がします」


 陽斗は頷いた。


「でも……根っこは、同じです」


「同じ空を見上げてた、あの頃と?」


「はい」


 透花は、空を見上げて微笑んだ。


「これからは……同じ家で見上げるんですね」


 陽斗は、少し照れながら答える。


「毎日は無理かもしれませんけど」


「それでいいです」


 彼女は、彼の腕にそっと触れた。


「見上げる空が同じだって、知っていれば」


 夜風が、優しく二人を包む。


 長い物語は、ここで終わらない。


 けれど、ひとつの章が静かに閉じた。


 あの日、同じ空を見上げていた二人は、

 今、同じ人生を見つめている。


 明日からの未来を、共に歩くために。



プロポーズ前夜(大人編) 完


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