第1話 出会いと、すれ違う視線
春の風は、いつも少しだけ嘘をつく。
暖かいふりをして、まだ冷たさを残している。
校門をくぐった瞬間、桐谷陽斗は小さく息を吸い込んだ。
新しい制服の布が、まだ体に馴染んでいない。袖を通すたび、自分だけがこの場所に置いていかれているような気がした。
高校二年の春。
クラス替えから三日目。
黒板の前では担任が出席番号を読み上げ、教室のあちこちで小さな笑い声が弾けている。だが陽斗は、窓際最後列の席で静かに座っていた。
友達がいないわけではない。
ただ、自分から輪に入るのが苦手だった。
話しかけられれば笑える。
でも自分から声をかける勇気は、いつも喉の奥で止まってしまう。
「桐谷」
「……はい」
名前を呼ばれて返事をする。
それだけで少しだけ心臓が跳ねた。
ふと、視線を感じた。
教室の斜め前。
廊下側の席に座る女子が、こちらを見ていた。
長い黒髪を耳にかけ、柔らかい目をしている。
視線が合った瞬間、彼女は驚いたように瞬きをして、すぐに顔を逸らした。
その仕草が、なぜか胸に残った。
名前は、まだ知らない。
◇
昼休み。
弁当箱を机に置きながら、陽斗は窓の外を見ていた。
グラウンドではサッカー部が練習をしていて、掛け声が風に乗って届く。
「桐谷、今日も一人?」
後ろから声をかけてきたのは、同じ中学だった佐野だった。
「まあ、そうなるな」
「相変わらずだなぁ。せっかくのクラス替えなのに」
佐野は笑いながら、自分の机をくっつけてくる。
「そういえばさ、隣のクラスに可愛い子いるって知ってる?」
「……急だな」
「二組の篠宮って子。結構有名らしいぞ」
その名前を聞いた瞬間、陽斗の手が止まった。
篠宮。
どこかで聞いた気がする。
いや、思い出した。
朝、視線が合ったあの女子。
名札に、確か――「篠宮 透花」と書いてあった。
「ふーん」
平静を装ったつもりだったが、胸の奥が微かに騒いだ。
「興味なさそうだな」
「別に……」
そう答えながら、陽斗は自分が少しだけ嘘をついていることに気づいていた。
◇
放課後。
帰り支度を終え、教室を出た陽斗は、階段の踊り場で足を止めた。
夕方の校舎は、昼とは別の顔をしている。
窓から差し込む光が長く伸びて、どこか懐かしい匂いがした。
そのとき。
「あっ――」
小さな声と同時に、肩に軽い衝撃が走った。
「す、すみません!」
慌てて顔を上げると、そこにいたのは――朝に見たあの少女だった。
「いえ、こちらこそ」
距離が近い。
思ったよりも、ずっと。
彼女の瞳は茶色がかっていて、夕焼けを映したみたいに揺れていた。
「……桐谷くん、ですよね?」
「え?」
「名札、見えたので」
そう言って、彼女は少し照れたように笑った。
「私、篠宮透花です。二組の」
胸の奥で、何かが静かに音を立てた。
「あ、はい……桐谷陽斗です」
それだけの会話なのに、言葉がぎこちなくなる。
一瞬の沈黙。
けれど、その沈黙は不思議と気まずくなかった。
「その……」
透花が口を開きかけたとき、階段の下から友人たちの声が聞こえてきた。
「透花ー!早くー!」
「あ、今行く!」
彼女は少し困ったように笑う。
「じゃ、また……」
「はい」
彼女は小さく手を振って、階段を駆け下りていった。
その後ろ姿を、陽斗はしばらく見つめていた。
言えなかった言葉が、胸に残る。
本当は、もっと話したかった。
ただそれだけなのに。
◇
帰り道。
夕焼けが街をオレンジ色に染めている。
今日一日の出来事を思い返すと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
名前を知った。
声を聞いた。
笑顔を見た。
それだけで、世界が少し違って見える。
陽斗は空を見上げた。
同じ時間、同じ空の下で、彼女も帰っているのだろうか。
そんなことを考える自分に、少し戸惑いながら。
春の風が、制服の裾を揺らした。
この気持ちが何なのか、まだ分からない。
でも――
きっと、この春は、いつもより長く心に残る。
そんな予感だけが、静かに胸に灯っていた。
⸻
第1話 完




