扉の向こう、明日の景色
「アルパ、先導よろしくね」
シルフは目の前のディノスに声を掛ける。それは、一昨日彼女を洞穴へと案内してくれた個体だった。先頭に立つ個体だったのでアルパと名付けたようだ。
「俺には手を出さないでくれよ」
アクラムがおっかなびっくりの様子でアルパを見ていた。
今二人が居るのは一昨日、バーナード・チェスターのチームがディノスの襲撃を受けた場所だ。周囲はディノスの群が取り囲んでいる。シルフはディノス達を護衛と思う事にしたようだ。
「先輩、大丈夫です。軽い怪我はあっても死ぬような目には合いません」
「そこは、傷一つ負わせませんと言って欲しかった」
シルフの頼り無い保証にアクラムは情無い表情を浮べた。
「さあ、時間が無いわ。急ぎましょう」
無駄愚痴を封じるように、シルフは先を急がせるのだった。
「アラン係長、入感どうですか」
『良好だ。問題無い』
シルフは例の石板のある空洞へ来ていた。ここへ来る途中無線の中継器を設置していたのでその試験を行っていた所だった。
「これより、シルフ、アクラム両名作戦開始します」
『了解。成功を祈る』
まずは、ミシェルの目的を明確化しなければならない、とシルフは考えた。おそらくベアトリスは知っているだろう。
「ベアトリス、シルフよ。大分、早い再会になったけど、今いいかしら」
「シルフ、早かったですね。何か問題でも起きましたか」
ベアトリスの声はやはり何処から聞こえてくるのか不明だ。初対面のアクラムもきょろきょろと辺りを見回していた。
「ええ、一昨日は話さなかった事ですが。わたしが此処へ来たのは偶然ではありません。ミシェル所長、あなたの話してくれた特徴から間違いないと思いますが、マイケルがわたしを此処へと遣わしたのです。あなたと瓜二つのわたしを。これについてあなたは何かご存知ではありませんか」
長い沈黙が訪ずれた。シルフもアクラムも急かす事はしなかった。
「わたくしも彼の考えを全てを判っている訳ではありませんが」
前置きを挟むベアトリスの声は、表情が見えないにも係らず苦渋に満ちがものに聞こえた。
「あなたとわたくしの身体を入れ替えるのが目的だと思われます」
「というと」
「始めからお話しいたしましょう。わたくしがこの門扉の研究開発を終えた頃、正体不明の疫病が流行り始めました。
その疫病は、先ず風邪のような症状が現れます。次第に意識が混濁し、凶暴化していきます。同時に身体が崩れ始め、最期には五体がバラバラになり、肉片を撒き散らして死に至るのです。致死率は100%でした。
ですが真に恐しいのは此処からでした。肉片は自ら移動し手近な生物を取り込んでは増殖を繰り返すのです。そして新たな感染源となるのです。
その後、世界中の医師や生物学者の研究によって、それはウイルス感染によるものである事、その遺伝子配列の解読に成功しました。わたくしたちは、そのウイルスをドゥームズと名付けました。
遺伝子配列の解読のお陰で、生体を模したシミュレーションが可能となりワクチン開発に弾みが付きました。
ちなみにディノス達は開発初期段階のワクチンの臨床試験で害を被った動物達です」
ここまでが背景事情なのだろう。本題に入るためにベアトリスが心の整理をつけようとしているようにシルフには思えた。
「ところで、シルフさんもわたくしと同じ分野の研究者なので、多元世界間通信の理論を物質の操作に応用できる事はご承知と思いま
す」
勿論シルフも知っていた。ただシルフの理解では、それは可能というだけであって実際に目に見える形で物質を操れる訳では無い事も承知していた。しかし、とシルフは思う。多元世界間での物質移送を可能にした彼女ならもしかして、と。
「わたくしは、ワクチンの大量生産の為の装置、物質合成機を作る事にしたのです。門扉の経験がありましたので一月程で合成機は完成しました。しかし、焦りがあったのでしょう。わたくしは重大な失敗を犯してしまいました。自らドゥームズに感染してしまったのです」
これ程の事を成し遂げたベアトリスでもそんな失敗をするのか、とシルフは驚く。そして感染したという事は、今彼女の身体はどうなっているのか。
「感染したわたくしの身体は凍結状態にあります。通常の凍結方法ではありません。わたくしの身体を、合成機を使って代謝機能を奪う形で、わたくしの身体へと再合成したのです。これを行ったのがわたくしの兄、マイケルです。この時、何故かわたくしの意識が身体から分離してしまいました。ここが何処なのかも分りません。一昨日、理由あって声だけで、と申しましたが、これが理由となります」
「とするとミシェル所長がわたしを此処へ寄越した理由とは……」
「ドゥームズ感染の治療法が確立されない場合、わたくしの凍結体の代りにあなたの身体にわたくしの意識を移植するつもりなのでしょう」
「そんな事ができるのでしょうか」
単純に疑問に思うシルフに、ベアトリスも困惑気味に答える。
「そもそも、何故意識が分離したのか判らないので何とも言えませんが、兄にはそれなりの勝算があるのでしょう」
これについてはミシェル所長に直接聞くしかないか、とシルフは溜息を吐いた。正直なところ彼には二度と会いたくないが、これからやろうとしている事を考えると、何時か必ず対峙するだろうと諦めるシルフだった。
「理由については、なんとか解りました。どうするのが良いのか判断がつかなかったのですが、今のお話を聞いて決めました。
わたし、あなたの世界に行こうと思います」
ミシェル所長の思惑に乗るようで気分は悪いが、多分これが最善、少くとも次善の案だとシルフは考えていた。
「ベアトリスさん、ミシェル所長の知らないあなたの研究施設とかありませんか。そこに身を潜めて研究を進めたい。先程、人体の再合成の話しがありました。おそらく感染で引き起された変異を元に戻す形で再合成する事が可能だと思うんです。意識の問題も研究対象です。ベアトリスさんの身体を元に戻し、意識を戻せば、ミシェル所長の思惑を阻止する事になるのではと思うんです」
きっぱりと言い切ったシルフに目を剥いたのはアクラムだった。
「おい、そんな簡単に決めて良いのか。もっと考えた方が良いんじゃないか」
「先輩、ここで逃げを選んだら、多分ずっと逃げ続けないといけないんです。わたしは自由に研究がしたいんです。その為に、軍事研究しかできない故国を捨てた事は、先輩も知ってるじゃないですか。わたしが研究を捨てずに済むのはこれしか無いんです」
アクラムはシルフの想いや覚悟を確かめる様に、彼女の顔をじっと見詰めた。それは移民の為に軍に志願したあの頃の顔と同じだった。やがて溜息を吐くとアクラムは説得を諦めた。
「しょうがねぇ妹分だな。わかったよ。俺は行けないけど、しっかりやりな」
「ありがとう、先輩」
分って貰えた事が嬉しく、これでお別れとなる事が寂しく、シルフの声は細かく震えるのだった。
その後、シルフとベアトリスは向こうでの研究拠点の事や生活の事など色々と打合せをした。そして正午を過ぎてシルフは最後の確認を行う。
「ベアトリスさん。わたしが向こうへ行った後、装置をこの世界から撤収したとして、ミシェル所長は元の世界に帰る事ができますか」
「兄は恐らく同種の装置を何処かに隠していると思います。なので帰る事は可能だと思います」
「だとすれば、この装置を撤収しても意味は無いですね」
「いえ、出来ればディノス達と共に撤収して欲しいです。ドゥームズ変異種の発生源となってはいけないので、残しておきたくないのです。あなたが連れて行くのなら彼らも従うでしょう」
「分りました。そうしましょう」
最後の確認が終わる。シルフはベアトリスに教えてもらいながら門に当る部分を操作し装置を起動した。石板に刻まれた回路が一斉に光り出す。
「アルパ。皆を連れてきてちょうだい。アクラム先輩とは此処でお別れですね。装置の撤収時に何が起きるか分りませんので洞穴の外へ退避してもらえますか」
了解の合図をシルフに送ったアクラムはアルパに続き空洞を出ていった。暫くしてディノスの群がアルパを先頭に入ってくる。
「扉を開きます」
シルフが門を操作すると両開きの扉の様に石板が動く。扉の向こうには見慣れぬ景色が見える。
できた隙間は次第に拡がっていき完全に開き切った。
「アルパ、行きましょう」
シルフはアルパを連れ門を潜った。ディノスの群がそれに続く。全てのディノスが門を通り過ぎた後。扉は開いた時と同じ速さで閉じていった。完全に閉じた後。装置は次第に透明化していき、最後には完全に消えてしまったのだった。
午後も大分日が傾いた頃、遺跡入口の門の前に立つアクラムは一人の男が登山道を登ってくるのを見ていた。洞穴を出た時点でアラン係長には連絡を入れてある。男は何の抵抗も受ける事なくここまで来た筈だ。
やがて彼の目前まで辿り着いた男は、アクラムを見据える。
「シルフは、どうした」
「向こうへ行ったよ、ミシェル所長、いやマイケルさん」
マイケルはほっとしたような顔をした。その油断を突いてアクラムは言葉の短剣を刺す。
「でもあんたには捉まらないよ。ベアトリスさんが協力してるからね」
「どういう事だ」
「行って確認してくればいいさ」
不愉快に思ったのか顔を歪めるマイケルにアクラムは更に言葉の短剣を抉った。
「あんたさあ、いい加減、妹ばなれしなよ。良い歳して、シスターコンプレックスなんてみっともないよ」
かっとなってアクラムに殴りかかるマイケル。だが、元軍人のアクラムにとって素人の攻撃をいなすのは容易な事だった。
拳を簡単に躱されたマイケルは踏鞴を踏む。ぎりっという音が聞こえそうな位奥歯を噛み締めたマイケルは、憤然とした態度で洞穴へと歩いていった。
「またな、シルフ」
肩越しに洞穴の方を見て肩を竦めたアクラムは、アラン係長と合流するため、登山道を降りていたのだった。
終
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